トレスは大概、僧衣を完全に脱ごうとはせぬまま、ユーグの欲を受け入れる。それは、彼を肉体的に愛でるただひとりの男――ユーグが同じ習慣を持っているためだ。刺客に怯えて生きてきたユーグは必ず、襲撃を警戒するかのように服を着たままトレスを抱こうとした。愛を交わす相手としてユーグ以外の存在を知らないトレスは、それが当たり前なのだと思っている。
だが、精液すら持たぬトレスとは違い、ユーグは汗をかき欲を吐く人間である。逆に、体液で「濡れる」ことのないトレスの身体には、何らかの潤滑剤が欠かせない。結果、二人の僧衣は行為の激しさから、時に眼を覆うような汚れを蒙ることがあった。
まさしく涜神の所業である。だが二人とも、その所業を悔い改めた程度で自分たちが天国へ行けるなどとは、夢にも思っていない。むしろユーグに到っては、どうせ地獄に落ちるなら性生活だけ悔い改めるなんて無駄じゃないか、とまで開き直っていた。……同情されるべきは、彼の僧衣として織られるよう運命づけられた繊維素材に違いない。




起き上がって服を脱ごうとしたトレスを押し留め、寝ておいで、とユーグは囁いて、汚れたそのズボンに手をかけた。まるでそれも甘えの一種であるかのように、ユーグは閨に入ると急に、トレスの身の回りの世話を焼きたがった。今も、うつぶせのトレスの上、膝を突いて跨るようにして、するすると生真面目にズボンを脱がせている。王侯貴族のように――というより、本当に人形のようにだらりと力を抜いたまま、トレスは枕に顔を預け、ユーグのしたいようにさせていた。
だが右足からすとんとズボンを抜ききって、さぁ左足、というところでユーグはぴたりと動きを止める。
「ヴァトー神父? 作業に困難が?」
枕に埋めていた顔をわずかずらし、肩越しにユーグを斜めに見やってトレスは問う。
「いや」
生返事をしてからユーグはトレスの視線に気づき、小さく笑って、トレスの腰椎を皮膚の上からこつこつ、と叩いた。
「これを見ていた」
「腰部の接続孔か? ……汚したのか?」
ユーグが舐めようが噛もうが、機体の汚れにさほど頓着しないトレスが、唯一はっきりと嫌がるのが接続孔付近の汚れだった。人間的に言うならば「感じやすい」場所であるだけに、ユーグは手を出したくてしょうがないのだが、「故障の原因になる」と言われてはせいぜい、撫でる程度で我慢するしかない。実際には、泥水に浸かろうが豪雨に打たれようが、故障の気配もないトレスの身体が防水処理をしていないはずがないのだが。
「いいや、シーツで磨かれて綺麗なものだよ、可愛い人。今日はずっと仰向けだったからな……」
腰部のように、人目に晒されることのない部分の人工皮膚は、顔面ほど「人がましい」ものではない。その皮膚の、人間にはありえぬ真珠めいた光沢を、叩けば「こつん」と手に跳ね返る硬い感触を、ユーグは素直に美しいと思う。そして、人工皮膚が存在せぬ接続孔、その上にしっかりと被せられたセラミックのメンテナンスハッチすら、それが人魚の肌を貞淑に護る鱗であるかのように賛美し、触れることを欲してやまなかった。
惚れた弱みだの、あばたもえくぼだの、言いようはいくらでもある。だがむしろユーグには多分に、人形を鑑賞の対象として以上に愛でる、特殊な嗜好があったのだろう。それが彼の身に降りかかった数多の不幸の結果によるものか、それとも、生まれながらにその素質があったのかはわからない。とにかく、ユーグはトレスの精神と同様、その特異な肉体をも存分に愛でた。
だからこそトレスとユーグは、日常的にこんな攻防を繰り広げることになるのだ――
「綺麗なハッチだな。ちょっと開けてみてくれないか?」
「否定」
「少し見たいだけなんだ……俺の他愛ない嫉妬心を、解消させると思ってくれよ」
「否定」
いつものように、トレスには理解できない――多分同僚たちの大半も理解できないだろうが――対象に拘泥するユーグを、つれなく拒絶しておいて、だが、トレスはふと、聞き捨てならない台詞をユーグが吐いたことに気づいた。
「……『嫉妬心』だと?」
寝返りを打ち、左足首に僧衣のズボンをひきずったまま、ベッドの上に身を起こす。そうして向き直ると、ユーグはむしろ、問い返されたことが意外だったらしく、ひとつ眼をまたたいた。
「ああ……君にはわからないのかな、嫉妬心というのは――」
「否定。『嫉妬心』の辞書的語義について確認したのではない。その対象について確認している」
「……つまり俺が何に嫉妬しているか?」
問い返しながら、ユーグはトレスの鎖骨の下に手を伸ばす。そこにもある、セラミックと人工皮膚の境界線――メンテナンスハッチの継ぎ目を人差し指でくすぐっていると、トレスは機械なりに居心地の悪さを表現したらしく、ぎこちなく身じろいだ。
「師匠が前に仰っていたんだが……」
逃げられて膝詰めに追い、己より一回り小柄な身体、その首に遠慮なく両腕を投げかけて抱きしめる。逃げられない、と悟って大人しくなったトレスの髪を戯れにくわえながら、ユーグは言葉を継いだ。
「電動知性越しに君に接続し、そのプログラムを閲覧する時の感覚はまるで、君という存在の中に深く沈潜していくかのようだと」
「……それは錯覚に過ぎない」
「そうだな。その感覚を真に味わうことができるのは、――……少なくとも俺や師匠じゃない」
ユーグが言葉を選んだのは、トレス「という存在の中に深く沈潜」するその行為は、トレスの許可を得ていなければ、ハッキング――強姦に等しい苦痛なのだということを、聞き知っていたためでもある。そして実際、そのような攻撃――ユーグの感覚としては「拷問」――に苦しめられたことがあるとも、聞き知っていた。
それでも、
「……君に接続するという行為は、いったいどんな感覚なんだろう」
ブラザー・バルトロマイに、シスター・ケイトに、ユーグは一度だけ成り代わってみたいと思う。そしてこの硬い首筋、メンテナンスハッチに隠れぬ希少な二門の接続孔に、そっと指先を近づけ、ゆっくりプラグを奥まで差し込み、怯えをなだめすかしてやりながら、彼の内部に――その剥き出しのシステムに潜り込んで撫抱するのだ。
人工皮膚の上一枚を、メンテナンスハッチの上一枚を、いや、その下にひっそり護られた接続孔を、さらにその下、鮮血のような皮下循環剤の層さえ切り開いた奥底の人工臓器を、愛撫したとて得られぬ快感と一体感が、そこにはきっとあるのではないだろうか。
その感覚に「嫉妬」して何がおかしいというのだろう。
肩口から胸をゆっくり辿っていく繊細な指先、その触感をどう解析しているのだろうか。ただ人形の如く、従順に瞳を伏せていたトレスは、どこか眠る前にも似た緩慢さでユーグの独言に答えた。
「卿は俺に接続している」
「……え?」
答えが返るとは思っていなかったのだろう。作り物の首筋に顔を埋め、まどろみかけていた剣士は弾かれたように、顔を上げる。
「接続? 俺が君にか?」
「肯定」
「……どうやって?」
問いながら少し顔を赤らめたのは、「接続」という単語を、極度に卑猥に解釈してしまったせいかもしれない。ほとんど無意識のうちに、胸から下肢へと手を滑らせれば、トレスの身体は引きつるように動きを止めた。
「どうやって? 愛なる君?」
胴と脚の関節の継ぎ目を、人工皮膚の上から指先を這わせて辿る。そうしながら促すように問いを繰り返せば、懸命に通常行動用の容量を取り返して人形は、咎めるようにユーグを睨んだ。
「卿は現在も俺に――俺のセンサーに接続し、情報を送信している」
「センサー?」
人間的に言うならそれは「五感」なのであろう。ユーグは己の手とトレスを見比べ、そして、作り物のなめらかな頬にそっとその手を添えた。
こうしてひたりと触れればはっきりと、非生命の違和感を手に伝える人工皮膚。壊れ物に触れるように撫でながら、ユーグはトレスの眼を覗き込む。またたかぬ目蓋、奥底の人工の虹彩、それが現在捕捉しているのは、硝子球に映るユーグの面差しなのだろう。
人ならざる者の視界に、己の姿はどう映っているのか。「少なくとも、人間と同様の視界でないことは確かだよ」と、彼の剣の師匠は言う。熱源反応も、生体反応も、音響反応も映し出されるトレスの視界。そこに今ユーグは映し出されていた。
それがトレスの解釈では、ユーグが接続し、情報を伝えているということになるのか。
「……では、君はいつも誰かに接続されっぱなしだ」
低い声でそう囁けば、どこか抗議するように、眼の奥の演算がうつろった。
「卿は常に、俺に設定された五感の全てに『積極的に』接続し、他の個体とは『桁違い』の情報を俺に送信している。卿の言う『誰か』と同様に解釈はできない」
「『積極的に』、『桁違いの』?」
「肯定」
確かに、こんなことを仕出かす相手はユーグひとりなのだから、トレスの主張は間違ってはいない。だが何となく納得できないものを感じて、ユーグはトレスの視界の半ば以上を占領したまま言い返した。
「君の言い草じゃまるで、俺が一方的に君に情報を押し込んでいるみたいじゃないか」
「肯定」
「だが、君は情報を取捨選択できるはずだ」
「……」
「俺が『積極的に』、『桁違いの』情報を送信していることは認めよう。だが君だって――」
言いかけてユーグは、黙ったまま自分を抗議するように睨んで離れないその視線に、はっと言葉を止めた。
「……ユーグ・ド・ヴァトー?」
どこか剣呑な響きでフルネームを呼ばれ、「あ、いや、」とうろたえたように手を離す。
天下のHCシリーズ、その貴重な試作三号機たる人形が、与えられる刺激を拒否できないほど無防備な機体のはずはない。だが、トレス・イクスは曖昧な表現など使用しないその思考から、「常に」という言葉を選択した。「卿は『常に』、積極的に、桁違いの情報を送信している」と。
いくらユーグでも、トレス・イクスと行動する間「常に」、こんな不埒を仕出かしているわけではない。
「何でもない、その……うん、俺が悪かったよ」
突如主張を引っ込め、歯切れ悪く曖昧に、一方的に謝罪してきた男をトレスは、正気を疑うかのようにじっと見つめる。その視線さえ気恥ずかしく、ユーグは再び顔を赤らめて、下を向いてしまった。無闇に指摘すれば、トレスは反撥して、接続拒否と言う手段に出るかもしれない。
「常に」「積極的に」「桁違いの」接続。
つまりそれは、他ならぬトレス・イクスが「常に」「積極的に」「桁違いの」情報を、ユーグという個体から、取り込み続けていると言うことに他ならないのだ。
自発的に。だが無意識に。
彼はいったい何を受信しているのだろう。たとえば二人きりの談話室、くつろぎきったユーグがトレスに身体を預け、獣のようになついてうたた寝しているその時に。朝のストレッチに余念のない、ユーグの伸びやかな筋肉の隆起をなぜかじっと、トレスが解析するように見つめているその時に。
肉体的に愛し合わないと情報を交換できない、鈍感な生身の人間が、時間を浪費しているその間。人形は己のセンサーを使って、絶え間なく情報を取り込み続ける。すべての感覚が、機械による擬似的な信号に過ぎぬ人形にとって、情報とは外の世界そのものであるのだから。
「常に」……「積極的に」。
「ユーグ・ド・ヴァトー?」
もう一度、トレスがうかがうように名を呼ぶ。ユーグは顔をあげ、その唇に己の唇を押しつけた。
「ヴァトー――」
「もっと接続したい。全身で。もちろん局部的にも」
「……」
あきれたような無反応は肯定、といっそすがすがしいほど勝手に決めつけ。ベッドに向けてその身体を押し、逆らわずにトレスが身を横たえれば、己の身体に纏わりつく僧衣を脱ぎ捨てて、素肌でぴったりと身を寄せる。
「君が俺の何を、そんなに一生懸命受信しているのかはわからないが……」
額の、目尻の、頬の、鼻梁の、顎の、耳朶の、そして唇の、触覚センサーに己の唇の感触を忙しく送信しながら、ユーグはトレスに甘く囁いた。
「俺が君に伝えているのは、いつだってたったひとつの事実だけだ」
「……ひと、ツ……?」
ようやっと、その一単語を繰り返したトレスに、「そう、『ひとつ』」と微笑みかけて、ユーグは唇を下に滑らせる。
「触覚でも、聴覚でも、味覚でも嗅覚でも視覚でも……送信しているのは、たったひとつだ」
その「たったひとつ」が何であるかは言わず、ユーグはゆるやかな駆動音に震えるトレスの、その胸に唇を押し当てる。
「ヴァ、トー」
「もっと受信してくれ、可愛い人」
「ネガ――」
「もっと、もっとだ。君の中が俺でいっぱいになるまでに……」




制止の言葉を放とうとした時、覆いかぶさるように抱きしめられ、トレスの開いた唇にはユーグの肩が押しつけられた。「N」の音を発音する為に、歯の間からちろりと覗いていた舌が、結果としてユーグの裸の肩に触れ、そしてその肌に浮かぶ汗の味を知った。
首筋の接続孔に、吐息が触れる。一度目の時より、息が上がるのが早い。荒い息遣いが、聴覚を乱打する。ぴったり重ねられた胸部、呼吸のたびに伸縮する肋骨の動きをトレスは正確に把握した。肺の形が、再現される――文字通り息づいて、震えるユーグの呼吸器。脈打つ鼓動、全身から伝わるわずかな振動から作り上げられる架空の心臓、循環器。体内の熱は上昇し、消化器は活性化し、つたう汗は同じはずなのに訓練の時と体臭が違う。視界を半ば覆った淡い金の髪、窓の外のかすかな灯りがそれに反射して虹色に分光していた。過敏になったセンサーが、光を過度に取り込むからひどく視界が白く、眩しい。
「抱きしめてくれ」と甘えられて要求通り、震える手を背に回して抱きしめる。ユーグの身体が動くたびに伝わる、脊椎のしなやかなうねり。吐精をこらえたか、背筋とその奥、内臓がひときわ蠕動する。くっ、と鳴った咽喉、飲み込んだ唾液の量すら今なら計ることができそうだ。
見開かれたまま動かず、焦点を合わせることを放棄したトレスの眼、そこには人の領域を超えて精巧な、仮想のユーグが構築されていく。髪の毛の本数すら、古傷の起伏すら、脈拍の変化すら、内臓の位置すら、正確に書き込まれたユーグ。それがトレスの中に再現され――膨大な情報となってその容量を支配した。
『もっと、もっとだ』
再現される音声、声紋を無闇に緻密に分析して作り物の聴覚はおののく。
『君の中が俺でいっぱいになるまでに』
どう証明すれば良いのか、すでにトレスのセンサーはユーグに接続され尽くし、その情報でトレスの内部は限界まで押し広げられ、「いっぱいに」されてしまっているのだということを。それなのにこのセンサーは更に精巧に、全機能がフリーズを起こすまでひたすらに、貪欲に情報を求めつづけているのだと言うことを。
もうこれ以上できない、もうお前でいっぱいなのだ、そうユーグに告げたくても、伝える言葉が見つからず、発声器官も正確に機能してはくれない。だからトレスは機体を痙攣させたまま、それでも更なる情報を求め、白く沸騰した思考の中に、また、新たな仮想のユーグを構築し始めた。それこそが機械の悦楽であり、歓喜であり、絶頂であるのだと誰に説明されることもなく。




その全身を、ユーグを感じるためだけに存在する、一個の健気な接続孔へと成り果てさせながら。