腰かけさせられたその椅子は、カバーもクッションも存在しない、無骨な金属製の椅子だった。肘掛すら備わっていないそれに、背筋を伸ばし、脚を開いて腰かけたまま、トレスは先程からずっと、眼下で揺れている淡い金の髪を眺めていた。
僧衣の上半身を脱がされた、トレスの裸の右腕は、肘から下、人工皮膚と皮下装甲を剥がし取られ、赤黒い人造筋肉と微細な皮下循環剤の層を露出させている。人がおぞましさに眼を背けるそれを、恐れ気もなく手に取って、そっと傾け、僅かにひねり……白い二本の手は髪一筋の瑕疵すら見逃すまいと、指先に全神経を集中して異形の組織の上を這っていた。
片手が離れ、薄い銀の鎧めいた板――皮下装甲をつまんで、トレスの腕に優しく乗せる。1ミクロンのずれもなく、ぴたりと彼の腕に密着したその板には、驚くべき弾力性が与えられていた。それを、両手でさらに、ぎゅっと人造筋肉に押しつけて密着の度合を確かめてから、白い両手は腕を伝い、肘上の人工皮膚をそっと捲り上げる。シールタイプの補助筋肉が、捲り上げた箇所から腕を覆い、手の甲までピンセットを使って張り巡らされた。
作業に没頭し、どこかうっとりと伏せられたままの翠の瞳。だが、引き結ばれていた唇が、かすかほころんで言葉をつむぐ。やはり、トレスはその様をただ、眺めていた。
「……この5年間……あまりにも君が怪我ばかりするものだから、すっかり俺は君のメンテナンスの達人になってしまったよ」
トレスは返答する必要を認めず、だが、その作り物の視線を、眼前の金髪の左方へと振った。一連の手術用具の傍らに、保護液に浸けられたままの人工皮膚が広がっている。人間の皮膚にナイフを入れて、綺麗に一枚皮に剥がし取ったようなその異様な外観を、トレスが見ているとは知らず、だが、偶然にもまた、翠の瞳も一瞥して、そしてすらりと立ち上がった。
ユーグ・ド・ヴァトーがトレスの人工皮膚の張替えを手伝うようになったのは、最近のことというわけではない。生来の器用さと、与えられた義手の性能、そして、トレスの機体管理者たる“教授”の弟子であるという関係が、ユーグにこの技能を習得させた。全身の張り替えを一気に行う場合は、液状の「皮膚の素」の中にトレスの機体をそのまま漬け込んでしまう。だが、一部張り替えの場合はすでに成形されたものを使用し、「職人の業」たる手作業で行うことが一般的だった。そして、ユーグの技量はそこらの「職人」におさおさ劣るものではなかった。
いくら手先が器用であれ、手袋の着用を必要としない義手であれ、こんな専門技能を修得するためには並々ならぬ努力と情熱が必要だ。だが、ユーグがその努力と情熱について、理由を説明したことはない。トレスもまた、追求しようとはしなかった。
処理中の右腕のすぐ傍ら、台の上、拡げられた、生々しい――なのにどこか滑稽なほどに非現実的な偽物の生皮。白い手は平らな容器の蓋を開けてそれを指先でつまみ、取り上げて掲げる。そしてやはり、余計な瑕疵がないかをじっくり眺めた。眺めたまま呟くように、トレスに向けて語りかける。
「今度は、通りすがりの一般人をかばって病院で『負傷』したらしいな? いくら現場が病院だからって、君の『怪我』を治してもらえる場所じゃないんだぞ。……おまけに、高圧電流まで浴びて帰ってきたそうじゃないか」
「肯定。だが高圧電流は『損傷』時に通電されたわけではない」
「神父アベルの仕業だろ……知っているさ。彼は随分と気に病んでいた」
「気に病むなら、実行すべきではない」
「まったくだ」
咽喉の奥で小さく、何かが引っかかったような笑い声をたて、「立って」とユーグはやわらかくトレスに命ずる。陰鬱で猛々しい魂を持ち合わせ、その棘を折り取って欲しいかのようにトレスにぶつけるこの業深き剣士は、だが、こうしてトレスの世話をし、皮膚を張り替えてやるその時だけは、別人のように優しかった。素直に立ち上がったトレスの右腕は、だらりと下がって動かない。安全の為、肩から下の感覚を切っているのだ。
自然に伸ばされたトレスの腕に、ユーグは細心の注意を込めて、つまんだ皮膚をぴったりと張りつける。すぐに、掌と指全体を使って圧し、伸ばし、気泡を追い出しながら押しつけた。
力強く繊細な手が、皮膚を伸ばし、触れ、腕を包んでいく。だが、その感触もトレスにはわからない。圧力がかかっているということすら、感知することができなかった。
「座って」
継ぎ目を残して、人間そのもののように――だが血管が透けて見えぬために、気をつけて観察すればすぐに偽物とわかる――精巧に皮膚を張られた腕。掌が見えるよう引っ繰り返し、ユーグは右眼に片眼鏡型のルーペをはめた。跪いたまま、今だまったく定着しておらず、ぐずぐずとしたその皮膚を少しずつ、少しずつ――継ぎ目の部分で指紋の線がずれないように、皮膚の位置を動かしていく。
「君は他人を庇う癖に……」
視線を落とし、慎重にトレスの腕を包み込みながら、ユーグは囁いた。
「……他人に庇われることに肯んじないな」
「肯定。俺は機械だ。破損しても人間に比較して修理はたやすく――」
「機械なら、シンプルに行けよ。庇う癖に庇われてくれないのは、複雑で不快だ」
「不快? 否定。それは卿が俺を庇うことを希望する場合に限ってのことだろう」
ぴたり、と、トレスの右腕に絡みついていたユーグの指先が強張った。
「……どういう意味だ?」
ゆっくりと、淡く金に縁取られた翠が姿を現し、トレスの作り物の眼差しを見据える。それは宝飾のように貴い組み合わせだった。その組み合わせを見返しながら、トレスは無感動に言い捨てた。
「卿は俺を嫌っている。
 その卿が、本来庇う必要のない俺を、積極的に庇おうとするとは推測しがたい」
見上げられたままの翠が、見開かれた。蛍光灯の、しらじらしく蒼ざめた光を、その翠はぎらりとはじいた。奇跡的に、トレスはユーグのその瞳の奥によぎったものを察した。それが咄嗟に、トレスの唇を開かせた。
「――事実に合致しない指摘ならば、謝罪する」
不器用な謝罪の言葉を、どう受け止めたのか。ユーグの眼が伏せられ、手はゆっくりと、すべらかな作り物の、己が手がけた肌をたどっていく。
「ヴァトー神父?」
「……謝罪は不要だ」
囁くような声でそう命じた唇が、トレスの視界から隠れた。ユーグが頭を垂れ、両手で包み込んで持ち上げたトレスの右手の甲に、そっと唇を押し当てたのだ。
「君の言うことは、あながち間違いでもない」
トレスは右肩から指先までの触覚を完全に切っている。だから、押し当てられた唇の、朧な感触はトレスの脳が「経験」から彼の神経に再現したものだった。だが、トレスは確かにそれを「感じ」た。
触れる吐息すら、存在せぬ触覚からではなく、かつて受けた幾多の同じ行為からトレスの脳は再現する。
勝手に再現される擬似感覚に、トレスが「戸惑って」いるのだとは知らず、ユーグはゆるやかに顔を上げ、両手で包んだトレスの右手を、己の頬に押し当てた。
「俺は君が嫌いだ、“ガンスリンガー”――トレス・イクス」
変わらぬ瞳の色。
……「傷ついたような眼」と、トレスが判断したその眼差し。
「そう、……大嫌いなんだ」
もし、機械ならぬ身の誰かが、この死に絶えたような沈黙の中にいたならば、きっと、気づくことができただろう。
ユーグの「傷ついたような眼」、その熱っぽい声、壊れ物に触れるような仕草……そのすべてが伝えるものは、言葉によって伝えられたものとはまったく「別の」、


……むしろ「逆の」想いを痛々しいほど伝えていたのだということに。


永遠に等しい数秒の沈黙を、自ら破ったのはユーグだった。
「さぁ、行け、“ガンスリンガー”」
人造筋肉に落ち着き始めた皮膚から、そろそろと手を離してユーグは立ち上がり、後ずさる。
「行って、定着処理を受けて来い。それからまた、殺し合いの場に立つがいい。壊し壊されるその為に」
「ヴァトー神父、」
トレスはただ、名を呼んだ。だが、名を呼んだ後に伝える言葉を、トレスは持たないがゆえに、常に……名を呼ぶだけで木偶のようにただ、ぎくり、と固まって動かないのだった。
「……俺はいつも君を困らせているな」
もう一歩、トレスから離れてユーグは困ったように笑う。
その眼がふいとそらされて、うつむき、唇が僅かに震えたことをトレスは視認した。
「君が何度壊れても……俺はその度に、君の皮膚を張り替える。それは俺の特権だ」
何度でもだ。そう繰り返して、ユーグは困ったようなその笑顔のまま、もう一度、トレスを見つめた。
「だから行って、壊されて、また戻って来い、神父トレス……何度でも」


それきり身を翻し、あの踊るようにうつくしい歩みで実験室の奥に消えたユーグを、見送ったままトレスは、機械にはありえない無為の2秒を浪費した。







身を預けているのは、「あの時」の椅子ではなかった。無数のケーブルに接続され、出力を大幅に下げられた機体の負担を軽減するために、額を、首を、腹を、脚を、拘束具のようなバンドで留めつけられ、トレスは歯科医の手術台に似た――だが格段に頑丈な椅子に座らされていた。「縛り付けられていた」と言った方が正しかったかもしれない。
スフォルツァ城に設えられた、機械化歩兵用の特別治療室。「あの時」と同じように、トレスは上半身を裸にされ、退屈という感情を知らぬ眼差しはただ、前方を見ていた。「あの時」と違うのは、全身を這うケーブル――ズボンの下にも無数に潜り込んできている――と、この椅子と、厳重な保守と、……そして、トレスの四肢の数だった。
肩から先に、腕はなく。関節部を丸ごとがぼりと外されたそこから、人間なら鎖骨と呼ぶチタンのフレームが、接続先を持たぬままに空しく覗いている。その代わりに、皮下循環剤を注ぎ込むチューブや、擬似信号を送り込むケーブルが潜り込み、トレスと幾多の機械を結びつけていた。
厳重に安置された椅子に身を預けたまま、トレスは記憶を再生する。
両腕を喪って、それでも機能は停止することなく、ミラノに送り込まれたトレスと、入れ違うようにしてユーグは任務に出かけていった。
『すぐ済む任務さ。俺の故郷で、吸血鬼を少しばかり斬ってくればいいらしい』
あのほの暗い甘い声で、そう囁いて、ユーグはトレスの頬を撫でたのだ。
『そうしたらまた……戻って、この腕の皮膚を張ってあげよう。いつものように』


何かを確認するかのように――確認して何かを振り払おうとするかのように、トレスは繰り返し、その記憶を再生する。
撫でられた頬、囁く声、そして癒すように、唇が触れてくれた肩の、想像するしかない触覚。
あと一週間もすれば、ローマから教授が、アムステルダムからはユーグが戻り、そして、トレスは癒されるだろう。
何一つ変わることなく故障は直され、パイプの香りの中でトレスはメンテナンスを受け、そして、あの細やかな手がやんわりと、師の見守る前で皮膚を張り直してくれるのだ。
「いつものように」。
何一つ懸念はない。
……「彼」は、戻ってくると言ったのだから。


ほの暗い部屋の中でひとり、緊縛された椅子の中でただひとり、トレスはじっと、あの手が己の手に触れる日を待つ。
まどろみのような低出力の、朧な記憶を繰り返し、繰り返し愚直に再生しつづけたまま。