さすがに踊り疲れたユーグは、飲み物を取ってくるからと断って、トレスの傍を離れた。そのわずかな間に、彼はトレスの姿を見失った。もとの場所に戻って来た時、彼はいなくなっていたのである。
プライベート・ルームかな?と普通なら判断するところだが、あいにく“マドモワゼル・トレシア”は普通の人間ではない。彼に断り一つ入れず、消えてしまうこともありえない。
(何かあったな)
すぐさまピンときたユーグは、ミネラルウォーターの入ったトールグラスをもったまま、部屋を出ようとした。が、そのとたん、周囲をご婦人方に取り囲まれてしまった。
「まあ、どちらへ?ユーグ様」
「私たちと、お話して下さいませんこと?」
「そうですわ、先程から踊られてばかりで、少しもお話できませんでしたわ」
わやわやわや。とドレスの群れに寄せてこられて、ユーグはややたじろいた。令嬢たちは、けざやかな声とあざやかな衣装の輪にユーグを閉じこめるようにまとわりついてくる。いわゆるモテモテ状態の彼を救いに来ようとする野暮天も、もちろんいるはずがない。しかしユーグは状況判断を誤らなかった。
少女たちを押し退けるような無礼は働かず、かと言って大切なパートナーの安否を棚上げになどせず、彼はおもむろにピアスに指を触れさせた。宝飾に偽装されてはいるが、それは派遣執行官専用の通信機だ。ためらいなく緊急回線を開くと、ユーグは彼(女)を呼び出した。
「“ガンスリンガー”、現在位置を報告しろ」
……とてもマドモワゼル・トレシアに向けてとは思えぬ呼びかけである。周囲のお嬢様方は、唐突に通信を始めた若君に扇の陰でひそひそやり始めたが、よもや相手が彼女とは気づかない。しかしユーグの耳は、少女らのひそめきに、はかりごとと悪意の揺らめきを聴き取った。
「ヴァトー。卿か?」
即応があった。ユーグは詰めていた息をほどいた。
「今どこにいる?」
「現在城砦の西南、フラワーガーデン西のウォールドガーデン南面西象限の壁面付近だ。卿がここを指示したのではないのか?」
「そう言われたのか」
「罠か」
機械化歩兵の状況把握は迅速だった。
「やられたな――周囲を警戒してくれ。他に人影は?」
「前方約1.4メートルに1名。男性体。ここまで同行した」
「君に指示した本人だな?」
「肯定。現在の状況を危険度二の脅威的状況と認識。敵性体と判断――排除を開始する」
「待て待て、“ガンスリンガー”」
トレスの、ではなく、相手の身の危険にようやく思い至ったユーグはあわてて言った。できれば殺傷沙汰は避けたいところだった。
「最終的には君に判断を任せるが、できるだけ状況を維持しろ。――20秒でそちらへ行く」
「それは不可能だ。“ソードダンサー”」
トレスの指摘は的を得ていた。警備の関係上、この城の出入り口は主要二箇所を除いて全て施錠・封鎖されており、主出入口を利用すると、彼のいるガーデンまでは2km以上遠回りさせられるのだった。
しかし“ソードダンサー”はにやりと笑みをにじませた。
「20秒だ。通信終了」
一方的に通信を切ると、ユーグは退屈そうに待っていた令嬢たちに会釈した。
「もうしわけないが、ちょっと失礼を。急用ができましたので」
「え?なんですの?」
「どちらに行かれますの?」
「そんなものは後でもよろしいじゃありませんか」
予想どおり不平を鳴らしはじめた少女たちに、ユーグはこの上なく完璧な笑みを向けた。
「残念ながら、ご希望に添うわけには参りません――なにしろこの用を作って下さったのは、どうやら貴女方のようだ」
翠の瞳が刃のきらめきを宿しているのを見て、少女たちは一様に青ざめた。凍りついたような沈黙が落ちたがもはや振り返ろうとはせず、“ソードダンサー”は足早にホールを横切った。めざしたのは、ホールの西端にある庭への通用口だ。西のガーデンに向かうには最短距離の出入り口になる。が、もちろんそこも施錠されていた。
「閣下?あ、あのここは閉鎖されておりまして、その――」
「すまないがどいてくれ」
警備員があたふたと止めに入るのを、ユーグは片手一本でやんわり押しのけた。気の毒な若者がたたらを踏む間に、掌を返す。軽く拳がつくられたと見るや、手首から銀色の鋭利な輝きが突出した。ダイアモンドのまばゆさと硬度をあわせ持つ薄刃のブレードだ。会場入り口でのボディチェックも、義手に仕込まれたこのギミックにまでは目が届かなかったらしい。
周囲がいっせいにあとずさるのをしりめに、ヴァトー家の若君はなんのためらいもなくブレードを一閃させた。
光の軌跡が通過した所――アンティークガラス、鉄唐草の窓枠、硬質セラミックの電子錠、そして衝撃感知セキュリティシステム主配線コード――が真っ二つに切り裂かれる。
鳴り渡るすさまじい警報と、混乱の坩堝と化したダンス・ホールをかえりみることなく、ユーグ・ド・ヴァトーは砕けたガラス戸を踏み越えて、夜闇の中へ身を踊らせた。


トレスは眼前に迫る手を無感動に眺めながら、まごうかたなきその音を聞いた。レッドアラートの警報シグナルは、その音量と、聴覚をかきむしるような不協和音の音程で、人間の脳にダイレクトに衝撃を与える。
「な、なんだ?火事か?」
いかにも怠惰に慣れた、鈍い、無駄だらけの動きで、男は不安そうに館の方を振り返った。
「“ノン”」
“マドモワゼル・トレシア”は端的に断言した。
本来、その信号に誰よりも速く反応するはずの機械化歩兵は、それがユーグ・ド・ヴァトーのしわざであることを確信していた。したがって、彼が、警護対象であるVIPを確保するために行動を起こす必要はなかった。いや、行動の必要はあったが、それは他人のためではなかった。
「なにが“ノン”だ。さっきから気取りやがって。それともオレみたいな下級貴族とは、まともに口もききたくありませんてのか。ヴァトー家ゆかりのお嬢様はよ」
“トレシア”の返答に、男はまたこちらに向き直った。
春まだ浅い夜の庭園は、人体にとって快適と言える気温をはるかに下回っている。が、広大な暗緑色の海にわずかに浮かぶ灯りだけでも、トレスの暗視視野は、男の顔を染めている赤い色を見分けることができた。
毛細血管の拡張は、アルコールの影響と考えられるのが六割。後の四割は、興奮状態に陥っているためだ。それら二つが相乗効果を引き起こしている可能性も高かったが。
何にせよ、虚偽を用いて自分を呼び出した上、芝の上に押し倒そうとした相手に、これ以上忍耐の必要はない。と、トレスの中枢機構は判断した。
思いがけない警報音で中断したが、この男がまた続きをしかけてくることはあきらかだった。もっとも、強化処置すら受けていない人間一人、渾身の力で挑んだとしても、トレスの体を倒すどころか1cmたりとも動かせなかっただろうが。
「常駐戦術思考を制圧戦仕様で起動――戦闘開」
そこでトレスの詠唱がふと止まった。かわりに異なるシステムが反応する。
「―――動体反応を感知」
「何をブツブツ言って―――うひゃあっ!?」
唐突に男の喉からナサケない声が上がった。なぜなら、彼の頭からはどぽどぽと液体がしたたり落ちていたからだ。
「ひいっ!なんだ!?なんなんだおいっ!」
悲鳴とも怒号ともつかぬ声と共にひとしきり足摺りした男は、飛び跳ねたあげく、ようやく背後の人影に気づいた。
彼の真後ろには、ユーグ・ド・ヴァトーの佇む姿があった。突然の出現にもかかわらず、百年前からそこに立っていたかのようなさりげなさだった。
そしてその手には、ここまでこぼすことなく持ち運ばれていたトールグラスがあり。彼はそれを、今まさしく、男の頭に傾けているところだった。
あまりの非常識さに男が呆然と固まっている間に、ユーグは落ちつきはらってグラスを傾けきり、しずくまで振ってから、残念そうにグラスを立てた。
「な、何をするかこの…っ!い、いくらヴァトー家の跡取りだからと言って貴様っ、」
その頃になってようやく気色ばむ余裕ができたのか、ぎゃんぎゃん吠えたてる男に、ユーグは冷然と言い放った。
「こちらの方が良かったか?」
と、手袋を外す。それをおだやかに――いっそにこやかに見せつけながら、
「……人のパートナーを、断りもなくしかも騙した上に、こんな人けのない所へ連れ出しておいて、今さら何をするかもあったものじゃない」
言い終えた時、偽りのほほえみは白磁の面から拭い去られ、ユーグ・ド・ヴァトーは男の顔面に手袋を叩きつけていた。次いでその手首からきらめくものが引きずり出される。男はひいっと腰を抜かし、そのままいざるように地面を這って逃げ出した。
冷たい水を頭からかぶったまま、むろん、最短の扉が開放されていることなど知るはずもない彼は、館を大回りして正面玄関まで回ることだろう。その道のり約2km。ユーグがたどった距離のざっと五倍だ。しかし同情するすじあいではないので、ユーグは肩をすくめただけだった。
それより大切なことがあった。
「だいじょうぶか?」
振り返ったユーグに、機械化歩兵はいつも同様平板に答えた。
「問題ない」
「うそをつけ」
間髪おかず、その手が頬を包みこむ。まるで逃すまいとするかのように、ユーグはトレスの貌を間近にのぞきこんだ。
「瞳に蒼味が差している――怒らせたな」
それは、トレスの常駐戦術思考が書き換わった証だった。彼の瞳はその思考セルに従って文字通り色が変わる。一連の騒動が、トレスに身の危険を感じさせたのは確かだった。
「悪かった。一人にして」
「否定。俺のみでも危険を排除することは可能だった」
「わかってるさ」
「それよりも確認したい、ヴァトー。ブリュージュにおいて、卿には特定の敵対者が存在するのか?」
「なに?」
奇妙に核心を突いた質問をされて、ユーグは眉をひそめた。
「あの男が君に何か言ったのか?神父トレス」
「卿に対する不満と恨み言を述べていた。アルコール過剰摂取の可能性とその影響を考慮しても、かなりの悪感情を持っていることはまちがいない。あの男に見憶えがあるのか。“ソードダンサー”」
それは問いではなく確認の声音だった。ユーグは嘆息し、トレスから手を離して髪をかき上げた。
「君を巻きこんですまない、神父トレス」
「謝罪より回答の入力を。任務遂行に支障をきたす妨害・敵対行為は排除もしくは消去せねばならない。卿に実行不能な事情が存在するなら、その入力も要求する。それ如何によっては卿の代わりに俺が処理を行う」
「ああ…そんな大仰なもんじゃない。彼はな……多分、ご令嬢方にそそのかされて利用されたんだ」
放っとくと、明日の朝にはあの男の死体が城砦の堀にでも浮いていそうだ。と判断した“ソードダンサー”は、なるべく穏便に説明することにした。
確かに、ユーグは彼に見覚えがあった。先日街道で教会軍と悶着を起こした治安維持部隊の小隊長だったのだ。
あの騒動で軽くユーグにあしらわれ、恥をかかされたと恨んでこのような所業に及んだのだろう。以下はユーグも預かり知らぬことではあるが、他ならぬ彼の恋人もユーグに熱を上げていることもあって、彼はもともとヴァトーの若君にいい感情を持っていなかったのだ。
それらが積もり積もって、“マドモワゼル・トレシア”に対する悪意を募らせていた、他の淑女方と連携する動機となった。というわけだった。
「君を巻き添えにしたのは、俺のミスだ。君なら何があってもだいじょうぶだと高をくくっていた。本当にすまなかった」
「無用だ。247秒前にも断定した通り、俺ならばこの程度のトラブルは問題にならない」
「わかってる。わかってるとも。君の実力をこの俺が知らないはずはないだろう?だがそれとこれとは別だ」
なだめるように言って、ユーグは彼の僚友でありあらゆる意味でパートナーでもある、大事な存在を抱きしめた。
確かに、トレス・イクスなら、この程度の障害は自力で排除するだろう。その方法と結果が、ちょっと目を覆うばかりだったとしても、命まで取られるわけではない――多分。
しかし問題は、彼の相棒に対する信頼云々ではない。それは、ユーグの矜持にあった。
もう少し駆けつけるのが遅かったら、彼は男として取り返しのつかない無能ぶりをさらすところだったのだ。この際、パートナーも同じ男性で、しかも機械化歩兵であるという事実には、おとなしく引っこんでいてもらうことにして。
ためいきと共に肩を震わせたユーグに、トレスは無機質な視線をあてた。
「現在外気温は摂氏5度。風速0.7m。湿度8.2%。卿の体表面温度は14.3度、さらに下降中。今すぐホールに戻ることを推奨する」
「…そうだな」
トレスの忠告に従って、ユーグは彼から身を離した。が、歩き出したとたん、懸念を覚えたかのように、ユーグは顎に指を触れて立ち止まった。
城砦の本館から鳴り響いていた警報はもうやんでいた。広間や舞踏場の混乱も、今は収拾がつきつつあるだろう。いや、終わりかけていたダンスパーティは、これをしおにお開きの運びとなっているかも知れない。
今さら会場に戻って、質問責めにだけあうのもどうかな。と、とことんものぐさが習い性になりつつあるお貴族の若様は思った。
「ヴァトー?何か問題が発生したなら申告を。それとも光量不足で歩行に困難を生じているのか?ならば先導する」
親切な同僚が申し出た。ユーグの腹の底まではスキャンできるはずもない、善良な機械人形に、彼は魅惑のほほえみを惜しげもなく華開かせた。人間の目には無駄でしかないが、この暗闇でもトレスには明瞭に見えているはずだった。
「ありがとう、神父トレス。実はちょっと困ってたんだ。できれば手を引いてくれるとありがたい」
「了解した」
トレスは応じて、差し出されたユーグの手を取った。通常の三分の二ほどに調整した歩行スピードで歩きだす。
その優秀な記憶素子からは、この男が、同じ夜の庭園を500メートル20秒足らずで疾走してきた事実は抜け落ちてしまっているのだろうか。
ユーグ・ド・ヴァトーに基本的にずるけ癖をつけたのは、実はこの気配りの行き届きすぎる僚友なのかも知れなかった。


城砦への道行きは、フラワーガーデンに造園された、人工の丘やせせらぎを越えて辿るものだった。季節柄緑は針葉樹ばかりで、花々もまだだったが、ユーグは動物の形に刈り込まれた庭ツゲや、幾何学模様に植えられたイチイを見分けた。足下に感じるよく手入れされた芝の感触と言い、昼間見る機会があれば、さぞ立派な庭園が広がっているのだろう。
城砦がヴァトー家のものだった頃も、ここは見事なフォーマルガーデンだったのだが、十年あれば植生にも多少の変化がある。手もいくつか加わっているようだし、今が夜なのが残念なくらいだった。
それでも、わかるだけでも見ておこうと努め――そのようにして彼は、余裕のなかった往路には見落としていた、庭の奥の建物を見つけた。
「あれは……」
突然立ち止まった道連れに、トレスも歩みを止めた。
「ヴァトー?」
ユーグは彼を振り返り、
「本館まで戻る手間が省けたかも知れないな。行ってみよう、神父トレス」
と、逆に彼の手を引いて歩きだした。
「……………………」
この瞬間、ユーグの虚偽申告はもう思いっきりバレているのだが、やはり人の良いキリングドールは何も言わなかった。


めざす先、ガラス張りのドーム天井を冠した白塗りの瀟洒な建物までは、それほど遠くなかった。
ネオ・ゴシック様式のまろやかなアーチとコリント式の重厚な柱により、優美かつ荘厳な調和を見せる建物は、全体的に丸みを帯びたフォルムで、それなりの奥行きを内包していた。
「コテージか?それとも庭師の住居か?」
「ちがう。温室だ」
トレスの問いにユーグは答え、扉に鍵がかかっていないのを確かめた。灯りがついているのは解せないが、今夜の来賓のために城砦中の照明器具が点灯されていた。ここもその一つと考えて良いだろう。
「つまり“ホット・ハウス”か」
「そうとも言うが――この場合は“オランジェリー”だな」
言いながら、ユーグは扉を開けた。トレスを促し、共にアーチをくぐると、後ろ手に春宵の冷気を遮断する。
ユーグがなぜ、ホット・ハウスをオランジェリー――オレンジ館――などと呼んだのかは、一歩中に踏みこめば明白だった。
ガラスで昼間の熱気を閉じこめ、さらには人工的に調節された空気を満たして熱帯の大気を再現した閉鎖空間には、何本ものオレンジの樹が植えられていた。それらの果樹に混じって、所々棕櫚やなつめ椰子の木々がそびえている。いくつかは、ドームの天井をかするほどだった。
「いわゆる南への憧れというやつだ。北では育たない南国の木々を楽しみ、果実を食す――通常望むべくもないものを手にするのは、いつだって特権階級のステイタスだからな。まあ、昔はこんなものはなかったんだが」
最後は低くつぶやき、それからユーグは僧衣を脱いで片手に持った。温度差に耐えかねたのだろう。
「せっかくきたんだ。見ていこうか?」
トレスは何かを探るように視野を360度展開していたが、ユーグの提案には、
「いいだろう」
と素直に同意した。そしてここへきてまで律儀にも、機械化歩兵はユーグに腕をのばした。
掴まりたいと言う意思表示に、むろんユーグに否やはない。彼は自分の肩に脱いだ僧衣を引っかけ、もう片方の腕にトレスを迎え入れながら、レンガを敷きつめた小径を歩きだした。


熱帯地方特有の、幅広の葉の落葉樹が肩先をかすめ、眠りを妨げられた蝶が物憂げに舞う中を、ユーグは彼のドゥムワゼルと歩いた。外には花一輪なくとも、この中では真紅やサフラン色の蘭が咲き、早なりの果実が重い房を垂れている。出来心でのばした手を、隣りからの“ノン”の一声でたしなめられるのも、得難い体験だった。ユーグは楽しげに笑い、そのたびに、よりそって歩くパートナーの頬を、ついてもいない水滴や花びらを払う仕草で撫でるのだった。
やがて径はドームの真下にさしかかり、二人はそこに、古代の神殿を模した円形の建物を見出した。閉じた庭園の四隅に通じる径が合流している場所で、庭園の中心のようだった。
ユーグは丸い天井の下に設えられた、石造りのベンチの背に腰をもたれさせた。南を――ローマを想起させるその姿に何を物思うのか、うつむいた顔を黄金の滝が覆った。
「――これはなんのための建物だ?」
トレスが可聴領域ぎりぎりの音声でたずねた。応えて上げられた面には、彼が予測したような痛みは乗せられていなかった。
「テムプル、またはロトンダと呼ばれる建物だ」
彼は軽く髪を振って、頬や首筋から払いのけながら言った。
「ヴァトー・シャトーにあったグロッタ、人工洞窟と同じで、庭園建築には欠かせない付属物だ。機能的ではないが、純粋な装飾、娯楽物と言うところか」
さりげなく出された彼の生家の名に、トレスの瞳から光が消えた。その場所が彼にとっても触れがたいものとなっていることに気づき、ユーグは静かにほほえむ。
「……トレシア」
呼びかけと、彼の腕の中からユーグのそれが引き抜かれるのとは同時だった。はっと顔を上げたトレスの鼻先に、小さな花をいちめんにつけた深緑色の枝が差し出される。金木犀によく似ていたが、独特の強い芳香物質がなく、色もずっと薄い。何より葉の形が全く違った。
トレスの視野に、ユーグの背後に迫る大きな樹木が見止められた。オリーブの樹だ。ローマ風の建物にちなんで植えられたのだろう。緑の葉面と銀の葉裏をもつ樹は今が花盛りで、そのシャンパンの泡沫にも似た細かな花々は、枝からこぼれて地面を淡い黄金の絨毯に変えていた。
「ヴァトー、」
「怒らないでくれ」
無断で枝を手折ったことに非難を浴びせられる前に、ユーグは相手の唇に花枝を押しあてた。
「花泥棒は罪にならない――知っているな?俗な言いまわしで強制力も何もないが、君は許してくれないのか…?」
懇願のまなざし。夢でしかお目にかかれないような美貌を前に、これを拒絶できるものがいるだろうか。
キリングドールがその答えを持っていた。
「――――“ノン”」
「ありがとう」
与えられるべきそれを、疑ってさえいなかったにちがいない。浮かべられた笑みは腹立たしいほどに明るげだった。他に比肩しうるもののない、ある種の絶対者だけが持てる、魅了されるしかない傲慢な自負。
悟ったトレスが、そのガラスの瞳の中に仔鹿色の鬱屈を澱ませた時、ユーグの指先が上がって彼の唇をなぞった。
はらはらと、金色の花がこぼれる。枝が触れた時、そこに花が落ちていたのだ。わずかに瞠目した彼に、ユーグのもの思わしげな瞳が近づいた。
「ヴァ、」
「花泥棒を許してくれるんだろう?モン・セール……」
抗議の声はその出口を塞ぐ指先で阻まれ、それがするりとすべって顎を捕らえた時、ただの一瞬、トレスは高慢な男を睨み上げていた。
峻厳なまなざしは、しかしすぐさまひそめられる。瞼の下に眠った彼の従順を慈しむように、再び指が唇を愛撫した。
「………俺の愛しい仔鹿の君」
なだれうつような髪の感触と共に接吻が落ちてきたのは、その直後だった。


オランジェリーの灯が落ちる前に、トレスとユーグはそこを後にした。
しばらく互いに沈黙を抱きながら歩くうち、トレスが口を開いた。
「ヴァトー。オランジェリーで卿に警告しなかったことがある」
「なんだ?あの中に俺たち以外のギャラリーが十人ほどいたことか?」
言うべきことをあっさり先取りされて、機械化歩兵はまた沈黙した。トレスの衝撃を知ってか知らずでか、ユーグは続けた。
「入る前から人の気配はわかっていたが、君が俺に腕を預けたことで確信していた。別に気にするほどのことじゃない。見たい奴には見させておけばいい。君の演技は完璧だったし、あやしげな記者連中も混じっていなかったんだろう?」
「……肯定」
機械の駆動音は確かに無かったと、メモリーを再チェックしながらトレスはうなずく。しかし彼には、殺気のたぐいまでは感知できない。
ブリュージュ滞在があと何日に及ぶのかはわからないが、“ソードダンサー”の任務を忌憚なく遂行させるためにも、彼の支援はまだまだ必要かと思われた。




この数日後、なんとか任務を終えたユーグ・ド・ヴァトーは、トレス・イクスの要請で飛来した“アイアンメイデンII”で帰途についた。それは、要らざる雑務で何日も足止めされたユーグに、この上引き止めが入らないようにとの、トレスの配慮だった。
突然の出立は、見送りもかなわなかった婦人たちに紅涙を絞らせた。
が、この日、ユーグと共に特務分室所属の空中戦艦のタラップを昇って行った派遣執行官――小柄で短髪の機械化歩兵――が、ブリュージュ中の令嬢方に毎夜枕を噛ませた張本人だったなどとは、誰も知るよしもなかった。




そして。
なんとか困難な任務を終え、なつかしい同僚の船でやっと寛いでいる“ソードダンサー”は知らない。
彼が非常ベルを不用意に作動させたために、それを製作・管理していた四都市のセキュリティー信託会社に監査が入ったことを。結果、たまたま不正と汚職が発覚して役員の大半が退任。うち何人かは政界と密接に結びついていたため、議員が連座して辞任に追い込まれる事態に発展したのだ。
四都市の政経に目を光らせていたカテリーナ・スフォルツァはいち早くこの動向を察知し、資料を入手した。その中に、事の発端となった例の舞踏会の写真が入っていたのは、もはや不運としか言いようがない。
最初に派遣した自分の部下と、どこか見覚えのあるマドモワゼルの姿を、刷りの粗い新聞写真の中に見た時。そしてその実体と実情を雷のごとき閃きで悟った瞬間、ミラノ公の細い指とソーサーの間で、ティーカップが不用意なタップを踏んだ。
そうして、主の様子に不審を覚えた枢機卿顧問は、ついうっかりその写真をのぞきこんでしまい、飲み下しかけていたお茶を気管に入れて呼吸困難に陥ったのだった。


――“ソードダンサー”が真人類帝国にすっ飛ばされる日も、近いかも知れない。