僧籍たる身には居心地の悪いほどに、豪奢な寝台がそこにはあった。だが僧籍たる身のはずの男が、身を横たえる場所としてその寝台を選ばなかったのは、間違っても、修道士的禁欲さの表われなどではなかった。その証拠にかの剣士が、月光の滝に喩えられる金髪を波打たせ、伸びやかな肢体をうっとりと預けたその先は、天蓋からどっしりとベルベットに覆われた寝台よりも、ふんわり身の沈む羽毛の枕や夜具よりも、なお稀有にして、何より背徳的な存在であったからである。
僧衣に包まれたままの、古代彫刻のような身体が覆いかぶさったその相手は、足音を吸い取る毛足の長い絨毯――の上、寝台から引きずり落とされた白繻子のシーツ――の更に上、部屋中の椅子から持ち出された繊細な刺繍のクッション――……の上に横たわり、この世のすべての物事に興味などないのだと言いたげに、天井を見上げて動かない、ひとりの尼僧の身体の上だった。
傍らに剣を寝かせたままの神父と同様、尼僧もまた、己の身分を示すその白き衣から解かれてはいない。許すべからざることに、その首には女性らしからぬがっしりとした、重いロザリオさえ未だ掛けられたままだった。
80キロの重みを容赦なく、身体の下、白き尼僧にのしかけて、その肩口に頭を預けた淡金の剣士――ユーグは先ほどからぼんやりと、すぐ眼前の硬い金の輝き、尼僧の胸の上のロザリオを見つめている。その眼差しは、燭台に揺れる小さな炎を美しく映えさせてはいたが、眠りに落ちる一瞬前であるかのように頼りなく、実際、時折重たげに瞼がふるりと震えていた。
ユーグにベッド代わりにされても、四都市同盟の基準では決して長身と言えぬ尼僧に、それを苦痛に感じている様子はない。泰然たるものだった。その瞳の奥には先ほどからずっと、思案するような光がちらちら踊っている。それは比喩でも何でもない。その作り物の瞳を注意深く覗き込めば、身じろぎもせぬ尼僧の活発な思考を示した、演算光の乱舞を認めることができただろう。
がっしりした体躯はネーデルランドの女によくある特長だが、それに加えて、女性らしい丸みはほとんど感じられない。一分の隙もなくきっちりと詰められた襟から、わずかに覗く接続孔や、その意志強げな義眼のきらめきを見るまでもなく、尼僧は――……尼僧に変装したその神父の正体は、ハー・ケー・トレス・イクスという名の殺戮人形だった。
ここ数日に勃発した幾多の事件の何がそうさせたのか、トレス・イクスはユーグにひどく寛容だった。普段ならつきあいもせぬ悪ふざけにも、黙って付き従ってやっていた。今もこうして、戯れかかられて一度たしなめはしたものの、駄々っこのように上に乗られればそれ以上の抵抗はしなかった。
ひどく安定した――満ち足りたと言っても良い、人形の珍しい態度に、ユーグが気づかぬはずもない。「どうしてそんなに優しくしてくれるのかな」と、問うてみたい気もしたが、ユーグは人間的情動を認めようとせぬ人形の、頑なな反発を恐れた。「否定、そんなことはない」と、撥ねつけられてしまってはすべてが台無しになる。だからこうしてだらしなく甘えてみせたまま、剣士は気づかぬ振りを続けるのだった。


スカートをふんわりと膨らませ、太腿に吊ったジェリコM13をその襞の下に隠す瀟洒なペチコートは、しかし、身を重ね合わせるには邪魔なだけの代物だった。そんな下着は身につけ慣れぬ――当然である――トレスの為に、ユーグは出撃前に手ずから、レースをふんだんに使ったそのペチコートを穿かせ、誰の趣味だか――言うまでもない――透けるような薄藍のストッキングもきちんとガーターベルトで止めさせた上に、特製の同色のロングブーツでそれを伝線させぬよう、靴下までこっそり穿かせてやったものだ。
そして今、そのように著しく逸脱した服装をさせられているシスター・トレシア・ワーズワースならぬファーザー・トレス・イクスがゆっくりと、視線を振ったその先――満ち足りすぎるほど満ち足りてまどろむ金髪の頭の向こうには、レースで膨れた白い絹オーガンジーの小山が見え隠れしている。ユーグはその繊細な指先で、トレスに尼僧服の一切を着つけてやったのと同じほど丁寧に、ペチコートとブーツを脱がせ、引きずり落としたシーツの上にトレスの身体を横たえたのだった。
当然、トレスはブーツの次は靴下とストッキングを脱がされるのだろうと思っている。だが、ユーグは覆い被さってきたまま、トレスの機体の稜線を満足の溜息と共にひとしきり辿るだけで、それ以上の行為に及ぼうとはしない。
横たわった時の身体の動きで、頭巾がずれてしまっている。それをやんわり取り上げて、手袋をはめたままのユーグの指先は、トレスの頬のラインを覚えるようにふわふわと彷徨った。
トレスの視線がペチコートから天井へと戻る。
そして凛然たる尼僧の変装をさせられた神父は、凛然たるままの声でこの上なくストレートに問うた。
「ヴァトー。卿は俺と性交渉をするのではなかったのか?」
「……ううん……」
不明瞭に、眠たげに生返事をしてからユーグは、尼僧服の肩に頬擦りするように身じろいだ。
「ヴァトー?」
「しないよ……今夜は」
「何故だ?」
するのであれば夜はいかにも短いし、しないのであればわざわざトレスを押し倒してまで、床に共寝する必要はない。ユーグの行動は、トレスにはいかにも不可思議だった。
「何故って……」
白手袋の指先が、頬から首筋へと降りていく。そして、呼気によってあたためられるほど、ユーグの顔の間近にあるトレスの十字架、その鎖へと手が触れた。
「今日の君は尼僧だからな……そんな不貞なことをしてはいけないだろう?」
その尼僧を寝台代わりにすることは、神父として不貞なことではないのだろうか。そも、神父同士ならいかに不貞なことをしようとも構わないのだろうか。トレスは人形なりに疑問を覚えたが、それを口に出すことはしなかった。人間の――特にユーグの思考回路は、トレスにとって時に面妖に過ぎる。
それでも、ユーグが年下の女性「の外観をした存在」を少なからず、神聖視? する傾向にあることはトレスも理解している。今回の件も、それと似たようなものなのだろう。トレスの推測はその程度が限界だった。
その対象がどんな戯けたフェティシズムであろうとも、至極生真面目に思考しているトレスの内面など知るはずもなく、ユーグは息づかぬ人形の胸の上、手の中の十字架を静かに撫でている。
トレスの十字架は機械人形たるその在り様そのままに、数珠を使わずごつごつとした鎖によって繋がれている。ユーグはその十字架の根元、鎖との繋ぎ目にふと、手を触れた。
そうしてじっと触れたまま、しばし、息づまる沈黙が部屋を支配する。
「ヴァトー神父? その十字架に何か問題が――」
「『愛している』」
彼の故国たるフランドル、その訛りを色濃く残したフランク語の中でももっとも知られたその言葉。
ユーグの指先が鎖をひとつ、上に辿る。
「……卿は――」
「『愛している』」
「……ヴァトー?」
「愛している……愛している……愛している……」
詠唱のように、繰り返されると共にひとつ、またひとつと鎖を辿って這い上がる指先。
祈りの回数を数える為にある教具で、囁いた愛の回数を数える。だが、それを許すべからざる背教と咎める者は、この部屋の中には存在しなかった。
「……愛している」
人間の、もっとも根源的な部分より湧き出したその言葉が、どうして祈りでないと言えるだろう。
繰り返される囁きに、トレスの正確すぎる記憶回路は引きずられ、自動的に、昼間聞いた同じ声による台詞を再生する。
――『子を為すことができなくとも』
「愛している」
――『夫婦として神に祝福されることがなくとも』
「愛している」
――『神にすべてを捧げていたとしても』
「愛している。……愛している……」


10回、祈りの言葉は繰り返され、這い上がった指先はロザリオから外れ、トレスの首筋からおとがい、そして唇をかすめるように撫でた。
「互いのために生き死ぬことが生涯一瞬たりともなくとも……俺の祈りの全ては君のものだ」


――『その刹那刹那の喜び』――


何か非科学的なものに容量を占領され尽くしたような、そんな息苦しさに襲われたトレスが自己診断プログラムを走らせたと知ってか知らずしてか、ユーグはトレスの唇に触れた指先を軽く己の唇に触れさせ、そして優しく彼に告げた。
「おやすみ、可愛い尼僧殿……明日もよろしく」
それが「明日も一日その格好でいろよ」ということなのではないかという可能性に、トレスが思い至って抗議しようとしても遅く、ユーグはトレスの腰から広がったスカートを、子供のように握りしめてすやすやと眠りに落ちてしまっていた。
自分がこの街に派遣されたのは、頼りない上に頻繁に行方不明になるこの同僚を、何とかフォローして無事に引きずり帰るためである。それがゆえに、疲れて眠ってしまったのであろうユーグを蹴飛ばして「寝台で就寝を」と強制することもためらわれ、トレスは結局、そのままユーグの寝台代わりとして床の上に落ち着いた。
もし自分が女性体だったら、胸部が枕になってユーグの首の寝違えを懸念せずとも良かったのではないだろうか。そんな、余人が聞いたら感涙するであろうほどに殊勝な――そして致命的に見当外れな――ことを、真剣に考え込みつつ、トレスはユーグの身体を抱え込もうとした。おかしな格好で寝ないように保護するのが目的であって、決して他の意図はない。
だが、すべらせた手がチャリ、と鎖らしきものを引っ掛けて手を止める。
まさぐればそれは、ユーグが首から掛けたままにしていた、剣を象った彼の銀の十字架だ。
「……」
しばらく止まったままの、トレスの手がふと――爪弾くように、その数珠をひとつ、ひとつ、と手繰る。


先刻、ユーグがそうして愛を囁いた時のように。


「……うン……?」
小さく身じろいで、ユーグがその稀有なる翠の瞳をうっすらと開いた。
ぴたりとトレスの手が止まる。
「……就寝を、ヴァトー神父」
平板な声に、どこか狼狽に近い音声の揺れが含まれたことに、果たしてユーグが気づいたかどうか……ただ彼は何も言わず、自分を支えるトレスの腕に軽く触れた。
作り物の義手とはとても信じられない、繊細な手つきでやわやわと、尼僧服に包まれた腕から腰へと指先がたどられていく。
実際に触れてみればすぐにわかる、ガンホルダーを無骨に締めたその太腿、いつでも跳ね起きられるよう、少し開かれた膝、そこまで撫でて満足したのか、ユーグはゆるく嘆息し、そして再び瞳を閉じた。


傲慢なほどに美しいその翠の宝玉を、ひどく幸福そうに、笑みの形に細めてから。