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石橋の上を、ゆらりゆらりと渡り行く艶姿がある。通ぶらぬきらきらしさを好む丸山遊郭、それにふさわしき松葉色の鮮やかな緑と金糸を散らせた重い打掛。地女の家事などせぬのだと誇示するかの如く、紅鮮やかな本帯を前にて締め、禿のひとりすら引き連れず、傘も若衆もやり手も持たぬ。いかにも気楽な一人姿、さして位は高くないのだろう。 一目見て、長崎に住まう者ならそれと知れる、彼女は阿蘭陀行の丸山遊女に違いなかった。 出島の表門をくぐることは、ごくわずかな職の者にしか許されてはおらぬ。役人、通詞の類をはじめ、商人、町人も御用がかかれば立ち入りを許されるものの、それには厳重な改めを受けねばならなかった。 されど唯一、身体を改められることもなく、その上逗留すら許される職が在る。 それが今、店の名を記した札一枚で悠々と表門を押し通る、彼女――丸山遊女であった。 張りの吉原ならば、媚笑せぬ太夫こそ最上とたたえられもしよう。されど、視線をひたむきに前へ向け、こちらを見向きもせぬその遊女は、いささか張りと意地が過ぎたか、門番の眼には冷たい人形のようにしか映りはしなかった。 「待て」 思わずそう声をかけたのは、その冷たすぎる横顔を、つい振り向かせてみたくなったからであろう。あるいは、苦界に身をやつした遊女にしては、不自然なほどに「女」の臭いを感じさせなかったからやもしれぬ。 綿と重りを入れた裾を、苦もなくゆったりとさばき、振り返った遊女はまばたきもせずに、じぃ、と門番を見返した。ややどぎまぎとしながらも、門番はつとめて平静を装い、言葉を継いだ。 「おぬし、初めて見る顔だな」 そうだったかな。と言いたげに、遊女は首を傾げた。札の紋は油屋のものだ。確かに油屋からは、「三よし」――「みよし」なる遊女が出島に入るとの届出が為されている。 「三よしか。店には出ておるのか」 この門番とて、時には財布を握り締めて丸山へ向かうこともある。されどこのように、冷たく整った顔の遊女を見かけたことはついぞなかった。 遊女は、そんなことに答える義務はないとでもいった様子で、ふいと表門の向こうを透かし見る。客でない者にはひとひらの言葉すら投げかける気もない、そんな傲慢な態度にさすがに門番は腹を立て、「おい、おぬし」と手を伸ばしかけ―― だがその伸ばした手は、突如突き出された唐傘によってぱしりとすげなく弾かれた。 「なっ――」 なにやつ、と、恫喝する前に、唐傘は舞扇のように翻り、小気味良い音とともに円と開いて門番の視界を遮る。 「遅いと思って出てきてみれば……人の女房にその手は何だ?」 聞き慣れぬ訛りをわずかに残す、それでも、それは堂に入った江戸言葉であった。 「女房?」 眼前にいる――今は唐傘に遮られているが――遊女は、堅気の女ではない。無論、夫がいるはずなどなかった。この男は何を言っているのかと、唐笠の向こうから現れた顔を眺めやって、門番は様々な意味で絶句した。 江戸で流行の鼠系の中でも、藤の季節に相応しい紅消鼠の着流し。嫖客気取りか、遊女の纏うが如き紅色の襦袢が、袖口から匂やかにこぼれている。だが、門番が瞠目したのは伊達なそのいでたちではなく、その伊達ないでたちをした当人の外見だった。 片手で遊女をやんわり抱き寄せ、片手で護るように唐傘を開いている――雨など降ってもおらぬのに――、その男は門番よりも頭ひとつ以上背が高い。何より、遊女の打掛に合わせたらしい松葉色の組紐で、結い上げられたその髪は、まばゆい金の蓬髪だった。 紅毛人と言えば、あのぴっちりとした奇妙な袴しか穿かぬものだと思われていただけに、男の姿は門番の度肝を抜くに充分なものだ。それでも、門番はようようのことで難詰の言葉を搾り出した。 「……そ、その女子は……女郎でないとするならば、門の内に立ち入らせるわけには参らぬ」 「この国では、その『ジョロウ』という立場の女性は一夜の妻と呼ばれるのだろう?」 君に教えてもらったものな、と言いたげに、組紐と同じ松葉の瞳を遊女に向け、菩薩のように微笑んで着流し姿の阿蘭陀人は甘く答える。 「今宵、この三よしは俺の妻なれば、他所の男が触れることは許されまい。さぁ道を開けてもらおうか……夏の夜は短いのでな」 唐傘と男の腕の中に、しっかりおさまった遊女は、片手を己の帯に、もう片手を男の着物の袖に慎ましく添えて、そこからいっかな離れようとせぬ。すでにむつまじき妹背のさまに、当てられた門番はそれ以上の詮議の気すら失い、顎で表門の向こうを――異国情緒に溢れた出島の町並みを指してみせたのだった。 男は姫君にするが如く、丁重に遊女を扱った。初夏の日差しは眩しかろうと、傘を差しかけ顔を隠してやり、高い履物は歩きにくかろうと、手を引き身体を支えてやった。 東夷には到底理解できまいが、西洋人の基準からすれば、男は天人とまがう美貌の持ち主である。着流し姿は見慣れたとしても、それが飾り人形のような遊女の手を引き、嬉しげに歩いているとあっては、衆目の的となってもおかしくはない。 されど今日ばかりは、明日の宵に阿蘭陀向けの船が出るとあって、道行く者は出航の準備に右往左往し、暢気な男と顔を隠した遊女の道行きなど、ろくに気にとめることはなかった。 ひとつには、この着流しの板についた男もやはり、明日の便にてこの国を去り、故国へ向かわねばならぬのだということを、周囲の者が知っているせいもあったろうか。その為、なじみの遊女らしき女と、むつまじく歩いておれば今更、馬に蹴られるような真似をすまいと放っておいているのやもしれぬ。 「さあ、ついた」 あてがわれた、一人住まいには少々広すぎる二階建ての邸の前に立ち、さほどの旅程でもあるまいに、男はいたわるような笑顔を傘の下に向けた。 故国にはあるまい、引き戸をからりと手馴れた様子で開くと、遊女を――三よしを先に通してやる。 三よしが悠然と、打掛の裾をからげて土間から上れば、後から従者よろしく男は戸を閉め、案内を待つ遊女に足袋を鳴らして歩み寄った。 口を開かれる前にいきなり、情熱的に抱きすくめやる。 「……つれない子だ、こうも待たせて……お前が一秒遅れるたびに、俺の寿命が一年縮むと知ってのことか?」 紅ひかぬ、白粉塗らぬその顔をたくましい胸に押しつけさせられ、腕をつっぱって逃れようとしながら、三よしはやや拗ねがちに口を開いた。 「遅れたことには謝りもしようが、この策が最善のものとは思えん」 人形のように整った白い面……その唇から出たのはまぎれもない男の声であった。 それに驚いた風も見せず、咽喉の奥で笑み零しつつも着流しの男はしれしれと答える。 「最善さ。さもなくば、さほどに似合うはずもない。……トレス」 男の故国に広く伝わる、古き言葉で呼ばれて遊女は――否、遊女に化けた少年は、その意志強げな眼差しを向け、キッと男を見上げた。 即座に男はその目の前に両膝をつき、許しを請うように両手を広げて見上げてみせる。 「許せ……お前を連れて海を渡る嬉しさに、つい戯れたくもなったのさ。 トレスと呼ばれるは不快か?」 旧に低くなった視線を追って瞳を伏せ、しばし、翡翠のような眼差しを見返していた少年は、やがて首を横に振った。 「『おらんだ』に行けば、俺はその名で呼ばれるのだろう。なら、今から慣れておいた方が良い」 「この国の名でも良いがな?」 「……『とれす』で良い」 お前がつけた名だから。と、口に出しては言わず、仏頂面でそれだけを告げ、トレスは打掛を肩からすべらせた。 「もう脱ぐのか?」 落ちてきた打掛を、膝をついたまま受け止めながら、男は露骨にがっかりした表情を見せる。 「ヴァトー」 嗜めるように名を呼ばれ、恐縮しかけてふと、ヴァトーと呼ばれた男は顔を上げた。 「トレス、もう一度呼んではくれまいか?」 「……『Wateau』」 流れるように美しきその名は、ヴァトーの故国の正しき音なれば驚きを禁じえず、打掛を抱いたまま眼を見開いて男は固まる。 そういえばこの少年は、ヴァトーの「ヴァ」という発音がどうしてもかなわず、監視の目を縫い逢引するたび、何度もヴァトーに、名を名乗るようせがんでいたのではなかったか。 呼ばれる予定の己の名「トレス」も巧く発音できぬままに、繰り返し繰り返し、己を異国へ連れてゆく男の名のみを覚えたのだとすれば、それはあまりにいじらしく、ヴァトーは思わず、両手で少年の手を押し戴く。 「ヴァトー? ……俺は何かおかしな発音をしているか?」 「いや、まるで故郷に帰ったかのようだ……トレス、」 手を引かれれば、少年は大人しくともに膝をつき、褒められるのを待つかのように、じっとヴァトーの眼を見返す。 捕らえたままの両手をさらに引き寄せ、唇に押し当ててヴァトーは祈るが如く囁いた。 「お前は俺の終生の友、生涯の伴侶、このとつくにの地でようやく出会えし唯一の半身だ……お前にとってオランダは地の果てよりなお遠かろうが、心配するな、お前のことは命に代えても俺が守る」 「今更そんな言は必要ない」 どこかムッとしたように、手を取られたままトレスは言い返す。 「トレス、」 「俺は自分で、お前の国へ渡ると決めたのだ。そうでなければこのような格好までして忍び込んで来るものか」 気の強げに、さらにぴしゃりと言い渡してから、しばらく黙った後にふいとトレスは顔を背けた。 「……俺はお前を信頼している。心配はせぬ」 まだ童のあどけなさ残る稚児の頃より、オランダ商館の者が出島の外へ繰り出すことを許される、年に数度の祭の夜のみを焦がれて待ち……時には振袖火事の如く、火付けすらせんと思い誤りかけたこともあったのだ。 はや五年を数えた今宵、共に旅立つ最後の機会とあっては今更、何をためらうことがあるだろう。 ……そのような思いを込められた、短き言葉をしっかりと聞き取り、掌中の珠の如くにこの異国の少年を慈しんできた男は、小柄な身体をたまらずかき抱いた。 「トレス……トレス!」 「は……離せヴァトー」 しきたりの違いを見せつけられるような、熱い抱擁に見舞われて少年は、さすがに苦しげに身をばたつかせる。 されどすっかり気を昂ぶらせてしまった男が、その程度の抵抗に我に返るはずもなく。むしろ身をよじられてさらに激したか、座敷に辿り着く前に廊下に押し倒されるに到り、相手が本気と知ってトレスは、本格的に抗しはじめた。 「ヴァトー! 戯れるな!」 「船出は明日だ。それまでは、お前がせっかくそのようななりをしたというのに、なりに相応しいことをせんではすまされんぞ」 「お前は俺を女郎扱いするか!」 「すまん」 即座に謝られて拍子抜けすれば、今度は姫にするが如く、丁重に抱え上げられて、座敷へと連れて行かれてしまう。 きっと座敷には既に、準備万端布団まで敷かれているのだろう。そう思えば気恥ずかしさには耐えられず、トレスは顔を見せまいと、目の前の肩にしがみついてますますヴァトーを喜ばせたのであった。 数日後、間夫に去られた遊女がひとり、絶望の余り海に身を投げたとの噂がしばし、長崎の町を騒がせた。 遊女の間夫が、先日故国へ去った阿蘭陀人だったと聞けば町人は皆一様に、「それでは如何ともならんわなぁ」と同情の頷きを交わしたものだが、肝心の遊女のホトケが上がることはなく、ただ、愛しき男の国にも続く海の岸辺に、松葉緑の打掛がうちあげられるにとどまった。 遊女の身体は身を投げてのち、男を追うてどこまでも、西へ流れていったのであろう。そう、人々は噂した。 ……去り行く阿蘭陀行きの船に、唐人と思しき少年がひとり、きちんと西洋の服を着せられて、すずしげに立ち働いていることなど誰一人気づくことはなく。 |