高貴な出自、社会的成功、傲慢な美、芸術的才能。
それだけのものを持ち合わせた、太陽をも自由にできようかと噂される男が唯一、トレスに強いたのは蝶の刺青ひとつだった。
女物の踊り子の衣装を、ことさら扇情的に纏わされたトレスの眼前で、ユーグは慎ましく瞳を伏せ、トレスの裸のくるぶしを両手で包み込んでいる。その暁色の絹の衣装も、赤毛に近い栗色の髪を飾る宝石と貴金属も、そして、蒼白い太腿に不吉なほどはっきり刻み込まれた漆黒の蝶の刺青も、すべてユーグが買い与えたものだ。
「……やはり、裸足はいけないな。ここの劇場の舞台で踊るならなおさらだ」
トレスは人形のように、背筋を伸ばして椅子に座らされ、客の喜ぶ裸足をユーグに預けたまま、先ほどからピクリとも動かない。そのトレスの細く傷んだ足首に、高貴な鎖の如くかけられたアンクレットを、繊細な指先でそっと外し……だが、ユーグは放胆にそれを投げ捨てた。
「ヴァトー様」
「ヴァトー」
「……ヴァトー」
「いい子だ」
素直に呼び直したトレスの、うつろな眼差しを見上げてユーグは笑う。いかがわしいパリの夜に巣くう、退廃的に露出した服装などわざとしてみせた、その顔で。
「あんなアクセサリを贈った覚えはないな。俺が来る日にわざわざつけて、焦れた俺にまた贈り物をさせるつもりか?」
それはトレスの案ではなく、この男から搾り取れるだけ金を搾り取ろうとしている劇場の支配人の企みだ。だがトレスは黙って、捨てられたアンクレットに視線を向けた。
「わかっているよ……君はそんなことをする子じゃない。だが、本当に裸足はやめておけ。これは嫉妬だけで言っているんじゃないんだ。いいな?」
白い、だが少女のやわらかさではなく少年のすらりとした硬さを持った素足を晒してトレスが踊ることを、客は喜ぶ。だがもっとも上得意の客が禁じた以上、今後それは慎むべきであった。それにユーグは、本当に嫉妬で言っているわけではない。彼は嫉妬などしない。トレスが何者にも――己にも他人にもユーグにも平等に、「心」を向けないと知っているからだ。
裸足を禁じるのは、純粋にトレスの脚を心配しているからだろう。ユーグは貴族の身分を持ちながら、また、天性のダンサーでもあった。
輝かんばかりに白く美しい、彫刻のようなユーグの手。それに足を包み込まれ、指先からふくらはぎがゆっくりマッサージされていく。足先に、痒みのような、痛みのような、……それだけでは表現しがたいもどかしい痺れがじくじくとはじけ、太腿の付け根に這い登る。
人形のように冷たく硬いトレスを、本当に高価な人形のように、こうして世話をしたがったり傅きたがったりという物好きな客は確かに他にもいる。だが、ここまで栄耀栄華をほしいままにし、美しい妻と幸福な家庭を築き、何より本人も美しい男が、たかが劇場の男娼まがいのダンサーをかまう理由がトレスにはわからない。別に、わかりたくもなかった。どうせ自分にとっては、かまわれる側はともかくかまう側は生涯体験しない世界である。
「痛む?」
身じろいだトレスを、跪いたまま覗き込んでユーグは優しく問う。緩慢に横に振られた首が、力なく傾いた。眼はうつろというより、もはや何も見えないといった態だ。
客の前で眠るのはいくらなんでもまずい。そう思いながらも、トレスの意識はまるで、ユーグの指先に操られるかのようにほどけ、どろどろに溶けて力尽きようとする。時折、懸命に意識が覚醒しようともがくのか、びくり、と身体が痙攣するように震えた。その様を、ユーグは一瞬たりとて眼を離すことなく舐めるように見つめている。
自分は「心」のない人形だ。毎日、毎日、決まった時間に決まった劇場で決まった踊りだけを踊り、飼主の眼を楽しませるためだけに存在し、そして、飽きられたら捨てられて誰かに払い下げられる。それだけのもので、それ以上でもそれ以下でもない。そこには喜びも悲しみもない。ただ存在しているだけだ。
いつものように、暗誦するように確認するように、自分にそう言い聞かせるトレスの、膝の内側をくすぐるように手が撫でる。
最後の意識で、拷問のような手を振り解こうと脚をひくつかせながら、生ける人形は椅子の上に崩れ、眠りの淵に逃避した。
……ぼんやりと意識が覚醒した時、そこはやはり、変わらぬ薄汚れた控え室の片隅だった。ユーグが訪れる日は、こうしてひとりだけの部屋を与えられる。それだけは、トレスも素直に嬉しかった。べたべたした騒々しさから離れていられるだけでも、随分いい。
身体がぐったりと弛緩している。眠り込んでしまった間に、不埒なことでもされたのか――否、そんなはずもない、とトレスはすぐに思い直した。ユーグはトレスを抱かない。別に不能でも何でもなく、立派な「男」であることは、他の娼婦の証言でよく知っていた。
娼婦たちは、トレスがこうして二人きりの控え室で、夜毎ユーグに「可愛がられて」いるのだと思っている。だがユーグは、そのような目的ではトレスに触れることすらなかった。おそらく、性癖としては男を相手に出来ないのだろう。トレスはそう思うようにしている。
「おはよう、トレス」
不意に呼びかけられてトレスは、預けたままだった脚を取り返そうとし……自由になるのが左足だけだということに気づいた。
椅子に座り直して、どこか睨むようにユーグを見返す。
ユーグは跪き、トレスの右足を抱え込むようにして捕らえたままだった。
その脚にはいつのまにか、絹のストッキングが綺麗に穿かされて、毒々しいほどに鮮やかな紋様が、細く骨のしっかりとした脚を覆い隠している。
そして、足をきっちりやわらかく締めつける、深紅のダンスシューズ。
足を腿に乗せさせて、ぱちりと最後の留め金を自らかけてやり、それがまるで最愛のペットの首輪であるかのごとく、うっとりと指先で撫でてユーグは微笑した。
「この前、足型を取らせただろう? それで作ってみたんだが……どこか履き心地の悪いところはあるかな?」
ユーグの手で解された筋肉の上、ユーグの手で穿かされたストッキング。ユーグの手配で作られた深紅の靴の上、……奪われるまいとかばうように抱え込んだ己の裸の左足には、ユーグの手配で刻み込まれた漆黒の刺青。
人が時に「絶望」と呼ぶものにも似た、ずぶずぶとした深く重い感情に囚われてトレスが黙り込んでいれば、それにまったく気づかぬ振りをしてみせて、ユーグはやはり絶望的に優しく、「両足履いてみないとわからないか」と、もう片脚に手を伸ばす。
「少し冷えてしまったな……せっかくほぐしたのに」
先ほどと同じく、他の男に贈られたアンクレットが外され、そこにユーグの手がひたりと張りついてストッキングを穿かせていく。
裸足のダンスで荒れた踵を、包み込むようにそっと絹がすべる。脛から膝を、大きな右手はやんわり這い上がって、最後に、漆黒の蝶を隠すように覆った。
その掌はじくじくと熱い。
「ヴァトー……――」
何か言いかけて、だが、トレスは言いようのない胸苦しさに、出しかけた言葉を途切れさせた。
返答の代わりに、その魔性たる翠の双瞳でトレスを射抜いたまま、ユーグはゆっくりと顔をトレスの脚に近づけ、その膝頭に唇で触れた。
怯えたのか、それ以外の何かに突き動かされたのか、トレスの身体がビクン! と跳ねる。
唇はそのままゆっくりと脚を這い上がり、漆黒の蝶の羽根の端に、ほんのわずか吸いついた。
「立って」
そう、刺青に向けて囁かれてはじめて、トレスはユーグが左手で、己の左足に靴を履かせていたと知る。
意志を喪ったかのように――本当に、うつろな一個の人形のように、ユーグに手を取られてふらふらとトレスは立ち上がった。踵のあるダンスシューズを履いてなお、ユーグの方が頭半分ほども背が高い。視線を上げようとせぬトレスの、眼前、少し顔を近づければくちづけられるほどの距離に、毒々しいほどに黒々と、漆黒の蝶が刻まれている。
「踊ってご覧」
男がそう言って笑えば、その鎖骨の下の蝶もまたあやしく息づいた。
「……俺のサロメ」
遠回しに、傅くように触れられるだけの夜をひとつ越えるたび。
どうして自分は、この男に放つ言葉を喪っていくのか。
口を開けば、どんな言葉も許されぬ何かを伝えてしまいそうに思え――
男の名以外の何も発することなく、暁色の蝶ははたり、はたりと静かに踊りを披露し始めた。
視線という形のピンに貫かれたまま、薄汚れた小さな標本箱の片隅で。
脚を隠すという役割はほとんど果たさぬ、ドレスの裾に漆黒の蝶をまとわりつかせて、少年はダンスを踊っている。裸足などより、雄弁に淫靡さを語るダンスシューズとストッキングは、少年の脚をしっかり締めつけ、包み込んで離れなかった。
「今日はここから見たい気分でな」
そう言って、用意された客先ではなく、舞台袖に奔放に忍び込んだ淡い黄金まばゆい貴族は、そう笑って柱の一本に寄りかかる。
はじめて彼のダンスを見た時の、その狂熱を今でも忘れたことはない。
諦観の中で運命をただ受け入れるだけに見えて、その実、どんな圧力も受けつけぬ真白く硬い背骨が、そこにはすらりと通っていた。
うつろで、従順で、強情で、――純粋な、それは一目見て恋に落ちることを、絶対的な力で彼に強いた、彼の運命の踊り子だった。
――まだ、触れるわけにはいかない。
暁色の裾が翻り、骨の硬い太腿の、漆黒の蝶が視界に飛び込む。
あの踊り子は、その蝶を、支配の証とでも受け取っているのだろう。だが、魂を奪われた男にとっては、あれこそが己の屈服の証だった。
そうでなければ、揃いの刺青を入れるのに、胸の真芯を選ぶはずもない。
――まだだ。……まだ触れてはいけない。
咽喉の奥からほとばしろうとする何かを、押さえつけるかのように、己の鎖骨の下に爪を立てる。
ひとたび触れたなら、その瞬間から、彼の狂恋はあの硬く冷ややかな踊り子を押しつぶし、一時手放すことすらかなわず、舞台に上げるなどとても許すはずもなく、五体も引きちぎらんばかりに愛し続けてきっと抱き潰してしまうだろう。
だからそれは、少年があの脚を、うつろに美しいあのダンスを、喪うまで待たなければならない。
踊り子が踊りを、あるいはその伸びやかな少年期の体格を喪い、客にもてはやされることがなくなったら、支配人は何のためらいもなく、その細い身体を高値で売りさばくに違いないのだ。
その時は彼を。
その時こそ彼を――……
また、裾がひらりと戯れかかり、汗にじっとりと濡れて息づく漆黒の蝶は、羽根を歪ませ身を震わせる。
誰よりもその舞を愛しながら、ユーグは同時に、黒死の蝶が醜い己の劣情を毒と為し、踊り子の脚を根元から腐れ落とすその瞬間を夢想した。