「……任務、ご苦労でした。神父ユーグ」
星降るような夜空を背に、緋と金色の女神は告げた。
拳銃使いの肩を借り、右胸に折り取られた細刃を受けたままの剣士は信じられない思いで上司を仰ぎ見た。
何故かひどく不確かな視界に、片眼鏡の奥からこちらを見つめる剃刀色の瞳がぼんやりと映じる。
色そのものに常に冷たい光をたたえるその目は、彼が見たこともないほどに慈愛に満ちていた。
表情は部下たる彼に向けられる主としてのものだったが、瞳は優しくそして誇らしげに輝いている。
「貴方が私の命じた陽動作戦を忠実かつ正確に遂行してくれたお陰で、"四伯爵"および彼らと癒着していた
同盟評議員をあぶり出すことができました…」
その唇から淡々と紡ぎ出された信じられない言葉の数々に、剣士は呼吸すら忘れ果てた。
「ミ、ミラノ公、俺は……」
その傷付いた胸に熱いものが込み上げてくる。
言うべき事があるのに、呼吸と同様それがままならない。
美しい枢機卿の背後には、敬愛する師が、信仰心篤く厳しい神父が居て…血塗れの彼をそっと見守っていた。
そして傍らの、彼に肩を貸す機械化歩兵もがその様子を見つめている。
数時間前は自分へ銃口を向けていた同僚が、今はこの傷ついた身体をがっしりと支えてくれている。
あの冷たい水路で「君も一緒に来るか、イクス神父?」と荒んだ心で、愛しい人形との心中を望んだ自分が全く愚かしく感じられる。
失血によって思考の脈絡すら失ったユーグはぼんやりとそう考えた。
むしろあの時よりも、今、この瞬間に命を失っても良いとすら思った剣士はやはりとりとめもない感情を口に出そうとした。
「では……俺は……俺はここに……ここに……」
「……どうしました、神父ユーグ?」
ユーグの途切れた言葉のかわりに、その喉がごぼりと濁った音を上げる。
右胸は冷たい鋼から伝わった冷気で凍え、喉はそれとは逆に今しも熱いものを溢れさせそうになる。
「いけない出血が…………ぐ…を……て!」
「神父さま!?……!」
「ヴァトー神父に…………は、………………点を----」
剣士の思考は急速に拡散し、自分の周りであわただしく交わされ始めた言葉も満足に聞き取れなくなった。
その意識が完全に失われる寸前、最後に感じたのは己の血の味、そして冷たくも柔らかい不思議な感触だった。




 青年は白い大地に横たわる。
天からは雪のような花のような白い何かが降りしきる。
はらはらはらはらと彼の視界をちらつかせ、白以外の色を彼に見せまいと乱舞する様はホワイトノイズに似ていた。
単調で清楚とすら言える静かな色合いにも関わらず、ひどく目障りで意識を苛つかせる。
おまけにそれらは無限にやってくる。
それまでは静かに微睡んでいたのに。
あの沈み行くような天国にも地獄にも似た闇色の沈黙に戻してくれ!と、青年は口を開こうとする。
が、容赦ない白はその唇にすら襲い来て柔らかく冷たく降りしきる。
既に四肢には、圧倒的な白の欠片が降りしきり……降り積もり、意のままにならない。
残っているのは首から上。
薄い色合いの金の髪に縁取られた白皙の美貌だけが白以外の色だった。
その瞼は閉じられ、鬱陶しげに眉が寄せられている。
何度も何度も顔を体を上げようとその内の意識は葛藤していた。
「………ー」
その耳に降りしきる何かがたてる物以外の音がすべりこむ。
「……父…ト…」
何度も何度もこちらへ呼びかけるのは、耳に馴染んだ声……?
「……ーグ・……トー」
そして、それは自分の名かもしれない。
そう思った途端、彼の体と彼の意識は唐突にすべてを認識した。




 最初に飛び込んできたのはオレンジブラウンの瞳。
それを認めた途端、ユーグはほぼゼロに等しかった距離を完全に無くした。
ほんの数十ミリ首を上げるのすら今の彼には大変な労力を要したが、目の前の唇に己のそれをぴったりと重ね合わせる。
その感触に何故か覚えがあるような気がして、すぐに力無く枕の上に落ちた首を叱咤してもう一度力を入れる。
「……目を覚ましたか」
しかし、機械化歩兵にそっと肩を押さえられて止められてしまう。
「…おはよう、神父トレス。いきなりで…悪いんだが、この手をどけてくれないか?」
「何故だ?理由の入力を」
ユーグはゆっくり吐息を吸い、そっと吐いた。
「君との最初のキスがひどく印象的で、すぐ二度目をしたくなったんだ。嫌なら嫌でその手をどけなくてもいいんだが…」
ベッドに力無く横たわる同僚の懇願に何を思ったか、機械化歩兵はたっぷり二秒の間をおいた。
そして肯定とも否定とも言わず、病人の肩から手を退けることもなかった。
人形はぎこちなくその身を屈めると、目を閉じることもせずにユーグの上へ。
「……っ」
意表をつかれたユーグは触れあった唇の冷たさと、柔らかさ、整った形を呆然と味わい…。
そうしている内に人形の乾いた舌が閉じていた唇に触れてくると、素直にそこを薄く開いた。
だが、トレスの行動は完全に彼の予想に反していた。
歯列の間に忍び込んできたのは人形の舌ではなく、吹き込まれた吐息だったのだ。
「……!?」
驚きに目を見開くユーグの鼻をトレスが軽く摘むのにいたると、ようやく彼は思い違いに気付いて首を振った。
「……どうした?神父ユーグ。卿の希望通りではなかったか?」
「いや、あれはあれで…」
思わず言いかけたユーグだが、不意に脳裏へひらめいた予感に別の言葉に切り替えることにした。
「神父トレス、もしや俺が目を覚ました時のあれは最初のキスではなくて……」
「肯定。卿との初回の経口接触は卿がブリュージュで人事不省に陥った、約138時間前に実行した」
ユーグの疑問を遮るような形で発せられた機械音声は、奇妙なほど早口だった。
同時にユーグの上から退いた手も逃げるように落ち着きを欠いていた。
「……そうか」
全身からぐったりと力を抜いた青年はひどいめまいと脱力感で一杯になった。
口付けと人工呼吸を混同する人形を前に、もう一度眠ってしまいたくなった。
けれど彼の内のフランドル人としての血が、その口を開かせた。
「神父トレス、確かに君の言う通りかもしれない。だが、キスと人工呼吸は別の物だ」
体中が痛むのに逆らって身を起こし、病人らしからぬ素早さで機械化歩兵に顔を近づける。
「先程の、起き抜けの一回が君との最初のキス。そして……」
甘やかに掠れた言葉の先はトレスの唇へ直接実行された。