諸聖人の祝日の中でも、降誕祭――クリスマスは、キリスト教徒にとって別格の趣がある。
神の子が地上に降臨したのを記念するその日をはさんで約2ヶ月――待降節、降誕節、公現節の期節、教会は様々な宗教行事にあけくれる。
聖ミサ、聖史劇、法皇による特別説教(いわゆるバルコニーからの接見)、子羊の祝別、香油の秘蹟に没薬の浄め、etc.etc.目白押し。
ヴァチカンももちろん、むしろ信仰の中枢としてこの時期は多忙だ。役割を振られている者は当然ながら、そうでなくても手が空いていれば残らずかり出される。
ここ、国務聖省も例外ではなく、Axの面々でさえ、任務についていなければひっぱり出されて追い使われるのだった。
そして、こういう時、不運をかこいこむのは大体メンツが決まっていた。
「――てみなさんがいそがしげにしてらっしゃいますと、いよいよ降誕祭って感じでいいですよねえ?ユーグさん」
「奇妙だな、神父アベル。ミラノ公に命じられた時はかなり難色を示していたようだが」
「だって、せっかくみなさんが準備してこられた舞台を、私の粗相でだいなしにしてしまったらどうするんです?私は物を作ったり片づけたりするより、壊したり散らかしたりする方が大得意なんですよ?」
「心配するな。みんなそうだ。――ここだな」
舞台と観客席をとりまいている天幕ぞいに移動しながら続いていた、一方的ににぎやかな話し声がとぎれた。「失礼」と律儀に声をかけて、仮設出入口の垂れ幕が引き開けられる。幕の外に立っていたのは、二人の神父。
国務聖省の派遣執行官、ユーグ・ド・ヴァトーと、アベル・ナイトロードである。
金と銀の髪を背に添わせ、天上の美を体現しているかのような美形二人の登場に、振り向いた人間たちは一瞬息を忘れた。
―――この二人が、瞠目するばかり整った容姿に恵まれているのは、神の恩寵というよりも、神様のお茶目にすぎないのだが。
道具を使う音も会話もいっせいに途絶え、突然の静寂が天幕の中に満ちた。
いや、完全な静寂ではない。
「ウソです、ウソです、そんなの気休めじゃないですかー!ユーグさんのうそつきいぃぃ――!」
そのしじまを押して響き渡る、涙ながらの抗議の声―――アベルである。
恨みがましくもナサケない泣き声に、先ほどとは異なる沈黙が落ちた。
一瞬にして天使サマからそのへんの三枚目に転落した銀髪の神父は、そんな些細な事実にはカケラも気づくことなく、ぐすぐす洟をすすり上げている。
ユーグの部屋を見たことがある彼にとっては、その慰めごとは暴言にほかならない。断るまでもないだろうが、司祭寮にあるユーグの私室はきちんと整頓され、わずかばかりの私物も簡素にまとめられていた。
とは言え、仮にも聖職者相手にうそつき呼ばわりとは聞き捨てならないところだ。が、相手の泣き言繰り言には慣れっこになっているユーグは、みーみーごねたくる、自分より背の高い男を片袖に取りすがらせたまま、手近にいた少女を捕まえてたずねた。
「忙しいところをすまない。聖史劇の舞台装置と観客席の設営に助力せよと言いつかってきた。指示が欲しいんだが、ここの責任者もしくは監督者はどこだろうか?」
「え、あ……」
今一人の神父とはちがい、一分の隙もない美貌を間近にした少女はたちまち頬を紅潮させた。そのまま、口もきけずにある一方を指さす。示された方向に目を転じたユーグは、舞台中央で――こちらもまた例にもれず――、手にした図面を取り落としたまま硬直している大柄な男を見出した。格好から見て俗人とわかる。舞台設営のために外部からやってきた職人だろう。
「彼か。ありがとう」
確認したユーグは少女を振りむいて破顔した。すぐさまアベルに向き直ったため、彼女がぺたんと膝をついてしまったのは知るよしもない。
「神父アベル、仕事にかかるぞ。ほら、しゃんと立ってくれ」
と、彼の袖口で洟を拭かんばかりにしている長身の神父を軽々引きずり上げる。
おお、とどよめきが湧いた。
人並みはずれた膂力は人工物であるその両腕のためだが、大多数の者はそんなことは知らない。居合わせた男たちは羨望のまなざしで、女たちは憧れの嘆声とともにそれを見つめた。
「ユーグさん、ユーグさんは力持ちなんですからこういうの得意でしょうけど、ワタクシはねえ。ほら、『色男、金と力はなかりけり』とかゆーでしょう?ああ゛、こんなとこで丸太なんか担いだ日には、もうギックリ腰確実。降誕祭だと言うのに、明日からは闘病の日々…」
「なんだそれは。ボルジア司教みたいなことを」
「それに私は高いとこも苦手で――うう、考えただけで目眩が」
「わかったわかった。不得手な所は俺が代わるから、心配するな」
アベルのぼやきはほとんど口癖と化したそれなのだが、ユーグはいちいちフォローしてやりながら歩き出した。これも人徳と言えるのだろうが、ことアベルには対しては、誰もがなんとなくあたりが柔らかくなってしまうのだった。
さて、いそがしく立ち働く同僚たちをしりめに、大荷物しょって旅立とうとする男がいる。
レオン・ガルシア・デ・アストゥリアス神父である。
彼はその直前の任務を無事こなしたのと、クリスマス恩赦というミラノ公のはからいで、この10日ばかり休暇をもらったのだった。
もちろん、彼はこの貴重な時間を、職場の大掃除や酒も飲めないおカタイお祈り三昧などで空費する気はさらさらなく、ミラノにいる愛娘のもとへとっとと逃亡する所存である。
時節柄配達中のサンタさんかと見まがう荷物は、ひとつ残らず彼女へのプレゼントプラスおみやげ。彼は、サンタはサンタでもただ一人のためだけのサンタさん希望なのだった。
「よう。悪かったな拳銃屋。つきあわせて」
上機嫌たれ流しの声で、彼は傍らの小柄な神父をねぎらった。
「―――帰還予定時刻をオーバーしてはいない」
その、小柄な神父――機械化歩兵であるトレス・イクスの返答にわずかな空隙があったのは、彼の演算に狂いが生じたからではない。むしろそれが精確すぎたせいだ。
彼は今、隣の偉丈夫同様、両手に山と荷物を提げている。が、どれもこれも自分のものではないことは、そのカラフルかつとりどりにデコレートされた包装からも明らかだ。
レオンが収監されている刑務所から彼を請け出しに行った(行かされた)この不幸なお人形さんは、あったりまえのようにその後の怒濤のショッピングに連行された。
結果、普通の人間ならまともに歩けなくなるほど大量の物品を担がされるハメになり、今ようやく国務聖省の通用門にたどりついたというわけだった。
もちろんのこと、彼らの聡明な上司は帰還予定時刻を大幅に上乗せして配慮したのだが……。結局は時間ギリギリ、ヘタすれば食いこむと予測したトレスの演算はカナしくも的中したことになる。
しかしトレスは、心身ともにいささかも疲労した気配はない。
気ぜわしく行き交う職員たちがちらちら奇異の視線を振り向ける中、彼はせっせと荷物を整理し始めた。形状も大きさもばらばらの荷物を、運搬しやすいようまとめてやっているのだ。
どこまでも面倒見のいいキリングドールに、面倒事万事まかせきりを決めこんだ不良神父は、道すがら買いこんだ缶ビールをポケットから取り出した。事もあろうに禁域で一杯やろうと言う肚だ。
「――ガルシア神父」
プシュ、とプルトップを引き倒した音に、何が起きているのかゼロコンマで把握した機械化歩兵が、勧告を行おうとした時、
「ガルシア神父!いくら通用門でも、ここは教会の敷地内です!飲酒は厳禁ですよ!」
と、ややカン高い声で叱咤が飛んだ。声の方に目をやった二人の神父は、憤然とまなじりをつりあげている、若い尼僧の姿を見出した。
降誕祭用の濃紫の尼僧服を着た、シスター・ロレッタだった。彼女はどうやら、飾りつけの枝束を受け取りにきて、彼らと出くわしたらしい。
「……おんや、ロレッタちゃん」
一瞬あっけにとられたレオンだったが、彼女が抱えている枝束――モミと柊の青葉――を見るなり、にしゃーっと耳まで裂けそうな笑みを浮かべた。
チェシャ猫もかくやのその笑いは、彼がたちの悪いいたずらを思いついた時のそれだった。
「ユーグさん、そっちにモミの枝は残ってませんか?」
「ああ、ある」
言いながら、ユーグは足場の上に手を伸ばして、置いてあった箱の中から一袋取り出した。
「投げるぞ、神父アベル。注意しろ」
「はい、だいじょう――いたたっ!」
投げ渡された袋を顔面でキャッチしてしまい、中から飛び出してきた葉で顔と言わず手といわず刺されまくるアベル。お約束である。
「……外さないヤツだな」
ユーグはあきれると言うより感心して、痛みに転げている同僚を見下ろした。
二人が、割り振られた舞台の仕上げにかかって半日あまり。あとは垂幕や舞台の腰板に、アドベント・クランツ――降誕祭期節特有の装飾。教会では御子の生誕と再来を寿ぎ、柊やモミなどの常緑樹で祭壇等を飾る。クリスマス・リースとも。――を取りつける段階で、ようやっとこの仕事にもメドがつき始めた頃合いである。
最後の仕上げであるこの飾りつけで、約束通りユーグは脚立や足場に上って高所作業にあたり、アベルは舞台の上やら下やらで、仕事に励んでいた。
舞台上も観客席側も、人影はまばらになっている。手が必要なくなった部署から順次、別の場所に移ったのだろう。準備に追われているのはここだけではないのだ。が、実のところ、彼ら――ことにご婦人方を他所に赴かせるのに、各作業場の主任たちは思わぬ苦労を強いられたていた。
二人と同じ堂内で働く幸運に浴した尼僧や奉仕の女性たちは、この場を離れるに、かなり忍びなかったらしい。
実際、仕事の間中彼女たちは、稀なる美貌の神父たちを振り向いては、目まぜを交わして歓声を上げたり、作業そっちのけで飽かず彼らを見つめていたりしたのだった。
が、外見はいかに女性向きにできていようとも、基本的に鈍感で女心にはうとい二人がそれに気づくことはない。
どこまでも不幸な神父たちだった。
「だいじょうぶか?神父アベル」
ユーグは足場から降りてくると、よろめいているアベルを捕まえてやった。放っとくと舞台の端から落ちかねない。
「だ、だいじょうぶです、ユーグさん」
アベルは力なく笑い返した。高い鼻梁が災いし、そこに集中して突き刺さっている葉を抜きつつ、ぶつぶつとこぼす。
「おお、主よ、これはちょっとイタすぎます…。それともこの私に、待降節の間赤鼻のトナカイさんとして働けとの啓示なのでしょうか……」
ユーグは吹き出してしまった。
「しっかりしろ、神父アベル。後は俺がやるから手当してくるといい」
「そ、そうですか?それじゃお言葉に甘えて、ちょっとだけサボり…もとい、手当してきますね」
悪だくみまるわかりの、カマボコのよーな目でにまにま笑いながら、アベルは180度踵を返した。が、何歩も行かないうちに、
「おやあ?」
と、その目が、舞台に備えつけられた作業用の階段を昇ってくる人物に注がれる。
がつん、がつん。と固そうな足音を立てて、舞台に上がってきたのは神父トレスだった。
「トレス君」
「イクス神父」
思わぬ人物の御入来に、二人それぞれに呼びかけるアベルとユーグ。
「どうしたんですか?トレス君。哨戒中ですか?」
「否定。ガルシア神父の私物の運搬補助のため、通用門に赴いていた。これよりミラノ公の護衛任務に戻る予定だが、その前に卿らの作業の進捗状況を確認するよう、“アイアンメイデン”より要請があったため立ち寄った」
アベルの質問に、いつものようによどみなくかつ簡潔に回答を与えるトレス。それからふと彼は、はすかいに顔を上げた。
彼の視線が焦点を結んだのは、アベルの後方に立つ今一人の神父。ユーグ・ド・ヴァトーだ。次いで、そのやや上方。そこには、先ほどまでアベルとユーグが二人三脚で飾り葉をとりつけていた垂幕があった。作業のため半ば以上降ろされてはいるものの、頭に触れるほどではない。
「どうしました?」
アベルがふしぎそうにたずねたが、トレスは答えず、そのままアベルの脇を素通りして、ずんずんユーグに歩みよって行った。
「イクス神父?どうかしたのか?」
ユーグもさすがに首をかしげたが、トレスはやはり一言もなく、彼の前まで来ると立ち止まった。
じ。と、無機の瞳が宝玉の瞳を見据える。あまりに真っ正面なまなざしに、ユーグが、自分は何か悪いことをしただろうか、と痛くもない腹を探りかけた時。
「“ジュワイユ・ノエル”」
機械人形の口からありえない言葉が飛び出した。それに愕然とする間もなく、次の瞬間ユーグは機械の腕にぎっちりと捕まえられ、そして、あろうことか。
すばやく、しかし確実に唇に押しつけられた感触に、ユーグは思いきり目を見開いてしまった。この手のシチュエーションには爛けているはずの、いかなる礼も適いきれなかったとしても、それは致し方ないだろう。
あろうことか。と言うよりは、あってはならないことに。
公衆の面前で、キリングドールはソードダンサーにくちづけしたのである。
すぱぺーん!!
と、ハデな音を立てて頭から床に激突したのは、アベル・ナイトロード神父だった。彼はその立ち位置から、特等の至近距離で一部始終を目撃するハメになったのだ。
最初の衝撃が去ると――それは彼の瞳から驚愕が消えて、ゆっくりと瞼が降りたことで知れたが――ユーグ・ド・ヴァトーは、自分に頬を寄せている男を押しのけるどころか逆に相手の腰に手をまわした。重いその身体を、背をかき抱く動作で引きつけるように誘導し、密着させる。押しつかるばかりでその先のない、あることすら知らないにちがいない唇は、自らの唇で開くよう促し、舌をすべりこませた。
異物の侵入と識別してか、トレスの全身がたわむようにびくりと揺れる。が、同じつくりものの指先が、けれど生きもののやわらかみを感じさせる繊細な仕草で頬を撫でるに至って、その反応は沈黙した。後は、いつのまにやら主導権をインターセプトした相手が、これでじゅうぶんと満足するまで、交感とも呼べるその状態は続いたのだった。
互いにいったいいかなる知覚が生じているのやら、アベルには想像するのも恐ろしい数十秒ののち。ちゅ。とどこかかわいらしい音を立てて、ようやく唇が離れた。
ユーグはすっかりできあがってしまったほほえみで、対照的に冷然とした面をさらしている彼の同僚を見つめた。もちろん、その視界にアベルは入っていない。
「トッ、トッ、トレス君ッ!」
しかしそれでは彼の立つ背がなさすぎるだろう。幸いと言うべきなのだろうが、舞台の上も下もさして人は残っておらず、いたとしても追いこみに入った作業に没頭していたため、目撃者はアベルだけだった。つまり、事を収拾しなければならないのも、彼一人。
アベルはショックのあまりだぷだぷ涙を流しながら、いまだしつこく見つめあっている一人と一体のうち、そもそもの発端となった方をを詰問した。
「トレス君!あなたどうして?!とゆーかどこでこんなことを覚えて!?いえ、それはもちろん訊くだけヤボなんでしょうけど、でもそれにしてもこんな」
「神父トレス」
アベルの身の哀れっぷりなどてんから無視して、ユーグがトレスを呼んだ。彼は、それこそ悪魔だって誘惑できるだろう凄艶な微笑を浮かべ――けれど目だけは笑っていない――、血も凍るような甘い声でたずねた。
「“ジュワイユ・ノエル”はフランク語の降誕節の挨拶だ。だがこの―――」
と指先を相手の唇にそっと触れさせて、
「スキンシップがつくのはなぜだ?どこの誰に教わった?」
「ひいいいいい…っ」
と腰を抜かしかけたのはアベルである。しかし、ソードダンサーのものすさまじく座った目つきも、キリングドールには何ら痛痒を与えないようだった。
彼はいつものように端的に答えた。
「ガルシア神父とシスター・ロレッタだ。彼らが同様の行為を行うのを目撃した際、同二名よりそのような行為に至った理由を説明された。また、現期節には奨励すべきものとの勧告も同時に受領した。両者の言によれば、降誕祭時期に柊の葉の下にいる人間には、このように為すのが世俗の習いだと言うことだ」
それを聞いて、ユーグとアベルは同時に理解した。
ガルシア神父が、常々揶揄の対象と為している若いシスターに、どんなイタズラをしかけたのか。そしてその後、目撃したトレスになんと説明したのか。
おそらくあの困ったオジサンは、
「クリスマスだぜ、拳銃屋。日頃は殺伐としたオレら派遣執行官だって、この時節ぐらいちょっとは敬虔に神父やったってバチはあたらねーやな。それに、世間サマの慣習とやらに拠って衆生に神の慈愛を顕わすってのも、法に外れたこっちゃあるまいが?」
とかなんとか、このお人形さんをうまーく言いくるめたにちがいない。サンタならぬクリスマスの通り魔に来襲されたシスター・ロレッタには、また別の意見があっただろうことは想像に難くないが。
それはさておき。
「そ、それでレオンさんは、柊の下にいる人になら、この時節誰にでもキスしてかまわないと言ったんですか?」
なんとか立ち直ったアベルが、おそるおそるコワい所を確認する。
「否定――。要らざるトラブルを招く恐れがあるため、同格以下の面識のある相手に限るようにとの忠告を受けた」
その忠告に、同性は避けろとなぜもう一言つけ加えてくれなかったのか。
アベルはよろよろとくずれおちる。レオンがあえてその項目をすっ飛ばした理由は考えるまでもなかった。
そんな条件に合致するトレスの相手といえば、同じ派遣執行官の中でも若手連中。もしくは、国務聖省のカテリーナ付の尼僧たちと限られてくる。誰にあたるにしても、一騒動持ち上がるものの、あとは笑い話ですむ。クリスマスならではのジョークというやつだ。もとよりこの慣習自体、俗世ではポピュラーなものではある。
がしかし。
(こんなロシアンルーレットなサプライズ・プレゼントはいりません。ガルシアサンタ…)
ぼろぼろぼろ。引き続き涙し始めたアベルに代わって、ユーグが口を開いた。
「―――で、神父トレス」
おだやかなその声音の底に流れる氷水に気づいて、アベルはすくみ上がった。
「ここへ来るまでに、それで何人とキスをしたんだ?」
そしてやはり機械人形の答えは淡々としたものだった。
「卿が最初の一人だ。通用門とここ、一般用礼拝堂前小広場は近接している。ここに至るまで、ガルシア神父の明示した条件と合致する人物には出会わなかった」
「それは良かった…」
ユーグとアベルが異口同音に胸をなで下ろす。トレスの返答は二人を心底安堵させたが、それに続く結論は二人ながらにちがった。
「じゃあトレス君。これからはそれはやめた方が、」
言ってるそばから、ユーグがひょいと手を伸ばし、今度は逆にトレスを捕まえたからである。もちろんその後は、先ほどトレスがやらかしたことの再現だ。
10秒、20秒、30秒―――今度こそ腰を抜かしたアベルがボーゼンと見守る中、途中から秒数を数えるのも放棄したくなるほどの時間が無情に過ぎていく。
今回は不意打ちの衝撃で時を無駄にすることもなく、ユーグは、もの慣れないながら従順な、舌触りの良い唇をたっぷりと堪能した。
「――なぜ卿がこれを行う必然があるのか?ヴァトー神父」
解放されて、開口一番トレスはたずねた。
するとユーグはほほえみながら、トレスの肩にまわした手を上げてみせた。長くすんなりとした指の間には、ひとひらの柊が魔法のようにつまみ取られている。アドベントの枝から落ちたものらしい。むろん、作業中取りのけておいたのは、何気なく、なのだろうが。
トレスが肩越しにそれを見やるうち、ユーグは柊のみずみずしい青葉を、人形のアンバーブラウンの髪の上にやさしく置いた。
「……君も柊の下にいる。神父トレス」
「―――了解した」
「グフゥッ!」
突如異様なギ音と共に、丈高い影が床板の上に倒れ伏した。鼻と口からだくだく血を流し、ぴくぴく痙攣している銀髪の長身―――アベルである。ついに自沈したあわれな良識持ちに、二対の瞳は視線を落とし――いつものことなのでまた戻した。
「ナイトロード神父。その姿勢では嘔吐もしくは窒息する恐れがある。出血が止まるまで右脇を下に横臥し、床と右側頭部の間に左手を挿入して頭部を高く保つことを勧告する」
例によって、トレスが律儀に所見を述べるところへ、影が差した。プラチナの光沢を弾くブリアン・ブロンドの髪が、ロゥ・アンバーのそれにふわりと触れる。目を上げて、再び近づいた顔を視認したトレスが、やや固い声で言った。
「ヴァトー神父。先刻ナイトロード神父は、この行為は奨励できない旨言いかけたようだが――」
「ああ、そうだな。神父トレス」
ユーグはうなずき、それでもこの殺戮人形に手をのばす。
「これを無節操にやると誤解を受けるのは確かだ。だからもう、ガルシア神父の言ったことを実践するのはやめた方がいい。だが、ここにいる間はしちゃならない理由はないだろう?俺は別に誤解しない。―――いや、ちがうな」
その金糸の長髪以上にやわらかくからみつく、声と言葉とまなざしで、抗いの見えない体を三たび引きよせる。
「むしろ誤解したいほどだ。神父トレス――」
再び唇が重なり、そしてキリングドールは否定はしなかった。
ユーグの言葉も、その行いも。
「うおー、さみーっ!!いっくら冬だからつってこの雪と風はねぇよな?サムライ」
「そうだな」
「同じ冬でもミラノは天国みてーにあったかかったぜ。やっぱあれか、ツンドラってなぁハンパじゃねーなあ」
「そうだな」
「それにしたってミラノ公も容赦ねぇよなあ。クリスマス休暇が終わったとたん、こんな僻地に飛ばすなんざ…先月状況調査した時にゃ、そんなにヤバイ感じでもなかったってのによ」
「そうだな」
「……なあ。サムライ」
「なんだ、ガルシア神父」
「おまえひょっとしてオレに含むところはねえか?さっきからなんとなくつれねえぞ」
ユーグは雪を踏みしめて固め、道を作りながら歩く足を止めて、同行者を振り返った。
「…………………………………………心あたりはないか?ガルシア神父」
ここは、北欧でもダークランド寄りにある北方山脈東嶺の峠である。そのふもとの小国に不穏な動きがあるということで、ユーグ・ド・ヴァトーはレオン・ガルシアともども派遣された。それも、新年早々、最初の挨拶に赴いたその足で。である。
途中獄舎のレオンを拾い、彼のアドバイスも受けながら装備を固めたものの、日中でも氷点下80度はざら、断続的に風速10メートル以上のブリザードが吹きすさぶと言う環境は、過酷の一言に尽きた。
しかも、相手国は近隣との紛争が絶えないため国境は事実上封鎖されており、正規の入国は不可能。従って密入国するしかないのだが、大型の重機などは目立ちすぎるので持ちこめない。
結果、ユーグとレオンはまさしく身一つで、昔ながらの雪中行軍を強いられることとなったのである。
「んんー?心あたりぃ?オレさま日頃の行いがいいからわからねぇなあ」
懲役千年の男はしらしらとセリフ棒読みで答える。一瞬ユーグの肩がひくっとはねたが、寒さのためではないことは一目瞭然だった。
黙って踵を返し、黙々と歩き始めたサムライの後を、レオンはのしのし追いかける。
「あれかねえ、心あたりってのはもしかして、不遇をかこつよーな不運のこっちゃなくて、ご主人様の御不興を招くよーな所業ってことかい?なあサムライよー」
語尾がへらへらと笑いをにじませ、それがユーグを振り返らせた。神父レオンは予想通りのにやにや笑いで、やや紅潮した白皙の美貌を迎える。
「 “ジュワイユ・ノエル”。その様子じゃあうまいことやったみてぇだな。旦那」
「っ!神父レオン!」
「まあまあ……オイシイ思いをしたんならいいじゃねえか」
「――ガルシア神父。周囲の誤解を招くような習わしを、軽々しくイクス神父に教唆するのは奨められない。俺一人ですんだからよかったようなものの、もし」
「ああ?サムライ一人?おんやまあ、当たるを幸いタマ数撃ちまくりの“ピストレーロス”にしちゃあ奥ゆかしいねえ。…と、そのわりにゃあ、なんでバレたんだ?衆人環視のまっただ中だったとか?それともおまえさん、のぼせ上がって言いふらしたのかよ?」
「ガルシア神父!!」
あまりな言いがかりに、ユーグは、始めたばかりの説教も忘れて叫んだ。
「そんなわけはないだろう!その時そこには神父アベルしかいなかったし、彼は進んで箝口を誓ったくらいだ。他に目撃者もなかったはずだし、なぜミラノ公がこのことを知ったのか――」
「おい、ちょっと待て」
レオンは不意にまじめな顔つきになって、大きく一歩ユーグに迫った。
「アベルの野郎もいっしょにいたってのはマジか?」
「あ?ああ…聖史劇の舞台の上で――ちょうどアドベント・クランツを取りつけていて、いたのは俺と神父アベルだ。――それがどうかしたのか?ガルシア神父」
突然その様子が変わったことで、ユーグもやや表情を改めて答える。彼の説明を聞き終えたレオンは、大きくためいきをつくと、じろり、と上目遣いにユーグを眺め上げた。
「おまえさん、鈍すぎ」
「な、なんだって?」
「あのなあ、考えてもみろや。おんなじ条件でへっぽこも同じ場所にいたんだろが。そんであのおカタいブリキの兵隊さんは、誰を真っ先に選んだんだよ?」
あきれ声で言い放ったレオン・ガルシアは、ユーグの肩をひとつどやしつけてから、彼の横を通りこして雪を踏みならし始めた。
―――耳に飛びこんできた言葉が理解につながったのは一瞬だったが、その衝撃からユーグが気を取り直すのには、多少以上の時間がかかったらしい。
「おーい、歩けよー!のんびり突っ立ってると凍っちまうぞー!」
追い越してやったはいいが、いつまでたっても追ってこない相手に、レオンが声をかけた時。件のサムライは、まっしろに凍りつきかけていた。―――いろんな意味で。