“ガンスリンガー”が眠らなくなった。実験室か治療室以外で眠ろうとしないあの人形は、室内のセキュリティをその手に握りしめないと寝つけない。その鋭敏なセキュリティに引っかかることなく、ユーグが眠り人形の元に辿りつくことは不可能だ。そして、一度セキュリティに引っかかってしまえば、あの人形は人間らしく偽装された茶色の瞳をきっ、と開いてユーグを睨み、「用件の入力を」ととりつくしまもなく尋ねてくる。
「でも、ユーグさんがいない時にはちゃんと寝てるんでしょう?」
とりなすようにアベルにいなされても、ユーグの鬱憤が晴れるわけではない。自業自得だ、とわかっていても、重ねて同僚に愚痴りたくなる。
「俺が一度倒れたせいだっていうのは、わかっているんだ。信用をなくしたんだろう。また怪我をしてふらふら歩き回っているんじゃないかってな。だが最近は自重してるし……寝顔ぐらい見せてくれたっていいじゃないか」
「そうですよねぇ、可愛いトレス君の寝顔ですもんねぇ」
うんうん、と頷かれると、その「可愛い」の意味が気になってユーグは思わず身じろいだ。ひさしぶりに、休暇同士の談話室で出会った貴重な同僚だ。問い詰めるのもまずい、と不自然に沈黙する。
「トレス君が可愛いのは周知の事実ですから、そんなことにまで妬いちゃだめですよ、ユーグさん」
のほほん、と言われてユーグは「わかってる」とぶっきらぼうに顔を背けた。どうも、この同僚といると時に、ユーグは自分が頑是ない子供になったような気がしてしまう。出会った頃からなにひとつ外見の変わらぬ――人工物たるトレスと同じく、「あまりにも変わらない」アベル。あの特殊能力「クルースニク」から推測して、ユーグは彼を、実は特殊な長生種なのではないかと思っていた。
「とにかく、」
ニコニコ、と見守られて居心地が悪く、ユーグは話題を元に戻す。どうしてこの同僚は、時にこれほどまでに達観した――悪く言えば、「高みから見下ろした」表情ができるのだろう。ユーグはアベルのそんな一面を決して嫌ってはいなかったが、拭いがたい違和感があることは否めない。
「とにかく。どうやったら信用を取り戻せると思う、アベル?」
「うーん、そうですねぇ……」
唇に、その長く細い人差し指を可愛らしく当てて、首を傾げ、アベルは考え込んでみせる。
「トレス君の気持ち、ちょっとわからないでもないんですけど、私」
「俺だってわからないでもないさ」
「そうですかねぇ? ユーグさん、本当に信用なくしただけだと思います?」
「……他に何がある?」
理解できず問い返せば、アベルののんびりとした蒼い瞳が、優しく細められた。冬の湖の色――だが、そこに湖水のたたえる冷たさはない。むしろ春の空の色のようだ、とユーグは思う。だがそれは、ユーグが彼に愛されているからに他ならない。
「私もね、時々、眠れなくなることがあるんです」
そのふんわりした眼差しのまま、アベルは囁くように言った。
「アベルが?」
「そうですよぅ? 意外ですか?」
「少しな」
「あ、ひどい」
二人笑い合ってから、アベルはその笑声の残滓が残るままに、優しい声で言葉を継いだ。
「ねぇ、ユーグさん、人間ってどうしてあんなに簡単に――あっという間にいなくなっちゃうんでしょうねぇ」
「……え?」
その言葉の不吉さ――そして、先刻感じたと同じ、軋るような違和感。
「夜寝る前に、思うんですよ。こうして私がぐーぐー寝こけちゃってる間にも、時間は過ぎてしまうんだなぁって。そしたら何だか……眠るのがもったいなくなっちゃって。眠くなくなっちゃって、無性に皆さんに逢いたくなるんです」
眼鏡の、丸いレンズがきらり、と光る。ユーグはその瞳の奥を覗き込むことに失敗した。
「ユーグさんや、トレス君や。ケイトさんや、カテリーナさんや。教授や、……もう、逢えない人も沢山いますけど。ずーっと起きていて、ずーっと一緒にいたくなるんです。迷惑ですよね、わかってるんですけど」
たはは、と笑ってから、アベルは彼の心を硝子一枚隔てて隠す、その丸眼鏡をそっと鼻まで押し下げた。
眼鏡を隔てぬ蒼い眼で、上目遣いにユーグを覗き込む。
浅い色の、……なのに眩暈を起こさせるような深い瞳。
「それでトレス君に突撃すると――って、起きてるのがトレス君ぐらいだから、トレス君のとこに遊びにいくだけですよ? 妬いちゃだめですよ、ユーグさん?
 そしたらね、今までだったらトレス君、全然つきあってくれなかったのに、最近は一緒にいてくれるんです。武器のお手入れを一緒にしたり、『剣の館』の外をお散歩したり――トレス君にとっては哨戒行動なんですけどね」
おそらくアベルは、己でも耐えがたい発作にとりつかれたかのように、突如トレスの自室に飛び込んでは、迷惑を顧みずべたべたとくっついて回るのだろう。思えば、ユーグも一度や二度は、そうしてアベルの来襲を受けたことがあった。
きっとアベルにとって、人間とは、少しでも目を離せばすべて散って消え去ってしまいかねない、そんな不確かな存在なのだ。だからこそ、愛しくも思うのだろうが。
どこか夢見るように首を傾げ、アベルはやんわりした笑顔のままで言う。
「トレス君も、そうなんじゃないかなぁって思うんですけど、私。
 ……ユーグさんにキスされて、トレス君、気づいちゃったんですよ。ユーグさんも、すぐに死んじゃう人間で……トレス君、寝てる暇なんてないんだって」


百年を眠りのうちに過ごしても、必ず王子が来ると知っていれば、きっと何一つ不安などはない。
だが、キリングドールに口づけた男は、決して帰ってきてくれる男ではなかったのだ。
命を剣刃の上に置き、昼夜を生死の境に過ごし、今日別れれば二度逢えるという保証はない、
……眠っても、生きて戻ってキスしてくれるとは、限らぬ男。


「……それはずるいだろう」
談話室の椅子から立ち上がって、ユーグは背に刀を負った。
「ずるいですかね?」
「ずるいじゃないか。それを言うなら俺にだって、寝てる暇はないんだ。だって彼は……俺などよりずっと、命を大切にしないんだから」
それでも眠らねば任務を果たせぬ通常人は、そう言うと一歩下がり、アベルに深深と頭を下げた。
「ありがとう、アベル」
「いえいえ〜。世間の逆風にもめげず頑張ってるユーグさん見てると、つい応援したくなっちゃうんですよ。なんたって相手は、同性でHCシリーズでカテリーナさん一筋のトレス君ですからね――」
「それだけじゃなく」
現実を突きつけられてめげる前に、ユーグはアベルの言葉を遮る。
「へ?」
「それだけじゃなく。ありがとう、アベル。……『俺達』を、愛してくれて」


見開かれた蒼色の――湖水の色に喩えられるその瞳が、その喩え通りにさざなみをたて、小さく揺れる。
「ユーグさん、」
語尾が掠れて歪んだのを聞き、「じゃあ、また」と、照れたように片手を挙げてユーグは、その蒼にふわりと背を向けた。


「“ガンスリンガー”、」
呼びかけてはじめて、視線の先の人形は歩みを止めてユーグを振り返った。“ガンスリンガー”の行動スケジュールは、既に“アイアンメイデン”より取得済だ。任務でクラクフに向かうところだという。
もどかしく、急ぎ足で歩み寄って、ユーグはトレスの腕を掴んだ。「“ソードダンサー”? 用件の入力を」――変わらぬ声が変わらぬ言葉を紡ぎ出す。昨日と同じように。
……明日も同じように、とは、限らない。
アベルはトレスの心情をああ推測したが、それが当たっているとは限らない。また、当たっていたとしても、トレスはシステム上それを自覚せず、決して認めることもあるまい。
いてもたってもいられずに、こうして呼び止めてしまったものの、何を言えば良いのかわからず、ユーグはしばし、呆けたように、眼前の作り物の眼を見つめていた。今は、まるで人間そのもののような、目立たぬ茶色に偽装されたその眼差しを。
「“ソードダンサー“。用件はないのか」
「……用件、」
鸚鵡返しにつぶやいて、ユーグは視線をトレスの瞳から、引き結ばれた唇へと落とした。
「キス」
「何?」
「君にキスしたい」
「……」
気の毒な機械化歩兵は無言で左右に視線を振った。装備部の特別室に向かう廊下、もともと、Ax以外の職員には立ち入りを禁止されている。
誰にも聞かれずにすんだ、と判断してトレスはユーグに視線を戻した。
「ヴァトー神父。卿に勧告する。卿は聖職者だ。卿の精神的脆弱性を鑑みて俺は普段あのような行為を許容しているが公的な場において聖職者が――」
「キスしたい」
「…………卿は俺の発言を聞いているのか?」
「君こそ俺の発言を聞いているのか? 『キスしたい』と言ったんだ。返答は肯定か否定か、それだけですむだろう」
ユーグはもう片手で、トレスの逆の腕をも捕まえた。トレスの両眼に一瞬、火花のような赤が散る。常駐戦術思考の起動レベルを上げたのか、それとも、周辺をサーチしただけなのか。
人形の返答は、肯定でも否定でもなかった。
「――今、この場で行うのか?」
視野を広げたのだろう。偽装を透かし、幾多のデータの光がトレスの瞳に踊っている。それに見入りながら、ユーグはトレスの頬に触れた。
「だめか?」
駄目に決まっている。勿論、ユーグはそれを理解していた。ただ、シスター・ケイトがはじき出した、仮想の余剰時間450秒……その間だけでも、こうして触れ、その無機的な機械音声を聞いていたいだけだった。
トレスがその強い眼差しを、ユーグのどこか切羽詰った瞳から、たわけたことを吐く唇へと移す。既視感を覚えてユーグが眼を細めた瞬間、トレスがまるで、あどけなく何かを不思議がったかのように、小さく首を傾げた。
「……え?」
見たことのない仕草にユーグが凍りついた、その隙をまるで狙ったかのように、首を傾げたまま、トレスが踵を浮かせて顔を近づける。
そして人形は、ユーグが更なる驚きを感じる間もなく、ついばむように、盗むように――ユーグの唇に己の唇を押しつけた。


女のようなやわらかさを持たぬ人形の唇は、唇同士で触れ合えばはっきりと、人にあらざるものの感触や弾力をユーグに残す。その感触はユーグにとって不快ではなく、むしろ、彼にしかない特色として好ましくすらあった。
だが、一瞬の強烈な印象を残したその感触はすぐに離れ、トレスは一歩後ずさると、ふいと背を向けて再び歩き出す。
彼の無慈悲なシステムが余剰時間の終わりを告げたのだ、と、思い至る余裕もなく、だが、その場を動くことができず、ユーグは呆然と、去る人形の背中を見送った。





扉を開いたアベルは、廊下の常夜灯に照らされて、淡く光を散らす金の髪をそこに認めた。どうしたんですユーグさん、と問う前に、困惑したような、泣き出しそうな、……それでも何とか、「笑顔」と呼ばれるものを浮かべてユーグは囁いた。
「眠れない」
「……ユーグさん」
「眠れないんだ、アベル」
笑顔を作りつづけていることに失敗したか、うつむいた剣士の美貌を、落ちかかる白金の滝が守るように隠した。
「――喜びに眠れないようなキスだけ、知っていれば良かった。
 別れ際のキスなんて、するものじゃない」


愛を語るべきものであるはずなのに。
「もう生きて帰って来ないかもしれない」――そう思っただけで、たったひとつのキスがどうしてあんなに不吉なものに思えるのだろう。


「……ユーグさんも、トレス君のキスで目が覚めちゃったんですね」
溜息混じりにやんわり笑って、アベルはユーグを抱き寄せた。
「アベル、その、すまない……」
「久しぶりに、一緒にぱーっとお酒飲んじゃいましょう? ちょっと懐は寂しいですけど、なぁに、おつまみぐらいなら買えますよ」
「それは、酒代は俺が出せということか?」
「もちろんです。私、そんなお金ありません」
先日もそうしたように、二人、小さく笑い合ってから、だが、ユーグは不意に、すがるかのごとくアベルにきつく抱きついた。[
「アベル、……アベル、彼は……俺は……」
「大丈夫、大丈夫」
両手いっぱいに、その背中を抱き返し、ぽん、ぽん、と叩きながらアベルはあやす。
「トレス君は、あのHCシリーズなんですから。無敵の“ガンスリンガー”なんですから。
 ……ちゃんと、無事に帰ってきてくれます」
そのふわふわした声を聞きながら、ユーグは声を呑み、言葉を呑み、……ただ、アベルの肩に額を押しつけ、溢れ出る嘆きを懸命に押し殺しつづけた。


幸福な眠りなど、自分にはなかったのだと、たったひとつのくちづけで思い知らされてなお……
そのくちづけを得ることのできる己の、その幸福に溺れながら。