実験室に備えつけられた、専用の寝台に身を横たえて、トレスは傷んだ神経を休めている。スフォルツァ城の治療室と並んで、彼が憂いなくやすらうことのできるこの場所は、教授が己の実験室の中に作ってやった、トレスの巣であり避難所であり、彼の小さな砦であった。
彼の身体を、この室内に繋ぎとめる縛鎖は二種類あった。データの送受信用のケーブルと、皮下循環剤の交換用のチューブだ。両の首筋をはじめとして、僧衣の下に潜り込んだデータ用ケーブルが、室内の状況をあますところなくトレスに伝えている。そして、新たな「血」を作る機能のない彼の身体に、チューブは絶え間なく鮮血色の液体を送り込んでいた。トレスはそうして外部装置に生かされながら、機体の感覚を――自我さえも半ば以上閉ざし、部屋の警備システムとリンクして、教授不在の室内ごと、己の機体を護っている。
半接続状態にある“アイアンメイデン”から、来訪者の情報が伝えられる。機体の聴覚を切っているトレスに、室外の状況を知るすべはない。それを慮って“アイアンメイデン”は、必ず、実験室を訪れるであろう人間の映像を、事前にトレスに――正確には、「トレスの接続した警備システムに」送ってくれていた。
「剣の館」内の警備カメラの情報は、“アイアンメイデン”の管轄にあり、トレスは許可なく覗くことができない。勿論、“アイアンメイデン”が接続を却下することなど滅多にありえないのだが、複雑な己の機体を動かすことに、容量の多くを費やされるトレスにとって、館内の警備システムはいかにも重かった。何より、“アイアンメイデン”が選別して軽量化した情報を、トレスはそれなりに信用しているのだった。
送られてきた画像を――訪問者の4時方向、廊下の天井から撮られたものらしい。半ば眠らされたトレスの意識はそれを閲覧する。
画像とトレスの記憶が合致した1.3秒後に、実験室の扉が丁重にノックされた。
扉のちょうつがいに仕込まれたカメラを、トレスは作動させる。機体を動かすための能力の殆どを、トレスは現在休眠させていた。人間的な表現をするならば、彼は今「うとうとしている」ということになる。
扉の外の訪問者は、返事がないと知って、僧衣のポケットに手を突っ込んだ。鍵を取り出すのだ、と知って、トレスは意識の片隅で扉をカチリ、と開錠してやった。
トレスの――監視カメラのレンズの向こうで、髪にほとんど隠れてしまった秀麗な顔、その口元が優しくほころぶ。誰が鍵を開けたのかについて、訪問者には思い当たる部分があるらしかった。
扉が開く。
トレスは扉外カメラとの接続を眠らせた。


教授は室内にも、防犯用の監視カメラを設置していた。トレスは視野を切り替え、入室者が来客用のデスクの上に刀を横たえ、丸腰になってから室内を歩くその様を見て、すべてのカメラから撤退してしまった。本格的に休眠するために、次々にセキュリティをシステムに預け直していく。
脳にもっとも負担をかける視覚を、まず完全にシャットダウンし――残りのセンサーもすべて、最低限の出力にとどめようとして、不意にその処理がストップする。
機体の異常ではない。
眠る機体には捕捉できなかった、軽やかな、密かな足音――それが、トレスの安置された寝台、そのすぐ傍らに降り立ったのだ。
カメラを再起動しようとして、作り物の触覚は、人工皮膚の額の部分に、「何か」が非常に慎重に接触したことを、脳へと伝える。
それが入室者――ユーグ・ド・ヴァトーの義手の人工皮膚だと、触れられることに慣れた触覚は判断し、トレスはカメラの起動を中止した。この手はこうして、眠るトレスによく触れていたものだった。……5年前に、治療室で目覚めたその日から。


ユーグ・ド・ヴァトーの指先――おそらく右手の、親指を除く四本指だと思われた――は、トレスの額から左の目蓋を通り、頬をゆっくりと移動している。やがて、唇の上に親指が置かれ――それによって右手であることが証明された――、指と掌が、トレスの顔の左半分を静かに覆った。
トレスの目蓋に、芸術的な精巧さで埋め込まれた睫毛。ユーグの右手の人差し指は、ゆっくりとそれを、何度もなぞるように触れている。トレスが「眠っている」と知っているのだろう。声をかけてきてはいないようだ。
害はない、と知ってはいたが、トレスは最後に残った触覚を切断することを、しばし保留して意識をそこへとどまらせた。ユーグは飽くことなく、トレスの顔を撫でている。おそらく、じっと見入っているのだろうと思われた。
無数の死を生む、死神の手。――かつて一度はトレスの機体をも破壊しようとした、剣握る偽物の手。
だがまるで子供があやされるように、トレスの意識は、その忌まわしの指先によって安定していく。何かを穏やかに祈るような、静かな動きはやがて、刷毛で女の頬を撫でるように、そっと、トレスの唇の線をたどった。
トレスがその触覚を意識に留めていると、知るはずもなく。薄い下唇を、まるで一方的に口づけを盗むように、二度ほど、指先がふんわりと押す。そのまま、するすると唇からすべった指先は顎を捉え、トレスの顔を、わずか、右側へと傾けた。
トレスにとっては音も光も匂いもない、無の空間。そこに包まれた面にふと、ユーグの手以外の感触が混じる。
頬をくすぐるものが、かの剣士の髪だと推測した時には、さらにもっとひそやかな――かすかな空気の揺らぎが触れている。
吐息か――それとも何かを語りかけられているのか。
聴覚を起こすべきか判断しようと、重い演算を起こすその前に、唇に、何かが触れてゆっくりと圧力をかけてきた。
それがユーグの唇なのだと、トレスはすぐに理解した。音がなくとも。光がなくとも。トレスには、それがユーグの口づけなのだと、理解するだけの経験があった。
闇の中に浮かぶ口づけ。眠る機体はそれを受け入れ、
だが、


「――トレス?」
眼に刺さる白光、唸る空調、天井に走る葉脈のようなひび、神経に爪を立てる衣擦れの音。
突如全身に叩き込まれた光と音の洪水に、トレスは苦痛すら覚えてセンサーをすべて調整し直す。
照準を合わせた視界ははっきりと、至近距離の端麗な顔を映し出し、
その中で奇跡のように光をはじく、あの翠の瞳が驚きに見開かれていた。


……片目だけ。


トレスは身じろぎもせずに、全身を覚醒させられたその機体を横たえたまま、剣士の顔を凝視した。
慌てて離れた顔が、羞恥を覚えたように上気する。
「……すまない、起こしてしまった」
何度その唇を奪ってきたとも知れないのに、今さら顔を赤らめて、そんなことをユーグは囁いた。
トレスは答えない。ただ、説明を要求するような視線を、強く、ユーグの片目――が本来あるべき場所に、叩き込んでいる。
そこにはべったりと、ガーゼとテープが張られてトレスの視線を跳ね返していた。
やっとその眼差しに気づいたのか、ユーグは困ったようにわずか微笑する。
「大した怪我じゃない。ただ、瓦礫で目蓋を切っただけなんだ。本当だよ」
それでもトレスは答えない。ただ無表情に――なのにどこか咎めるように、ユーグの片目を睨んでいる。
「……気を悪くしたのか?」
くちづけを受けたあの時に。やんわり食んでくる唇とともに触れたのは、、引き締まってなお滑らかな頬と、尖った鼻梁と、……そしてあのガーゼとテープだった。
スリーピングビューティを起こすなら、甘いキスでいいだろう。だがキリングドールを起こすのは、あの死を生む手の、あの暗く沈んだ眼差しの、あの食いしばられた唇の、その持ち主が負傷したのだという事実そのものだったのだ。
しかも顔に。……すぐ後ろに脳のある、顔に。
「神父トレス? ……寝たほうがいいんだろう?」
機嫌をうかがうような、体調を気遣うような、あやすような声でユーグは囁きつづける。その手が仲直りを求めるように、また、そっと頬を撫でてきたが、トレスはユーグの眼から視線を離しはしなかった。この男は、いつまでたっても無駄な気遣いをやめようとしない、とトレスは判断する。HC-IIIXは機械であり、己の機体のことは熟知している。今さら通常人に勧告される筋合いはないのだから、その勧告は無駄以外の何物でもない。
いつまでたっても、出力系の回路を接続しようとせず、ただ、人形のように固まって動かないトレスに、ユーグは苛立ちよりまず、不安を覚えたらしい。
「“ガンスリンガー”……もしかして、動けないのか?」
はっと肩をゆさぶりかけて、思いとどまったユーグは不意に、その上背からは信じられぬほどの軽やかさで身を翻した。立ち上がりかけた剣士に、トレスは感情の篭らぬ――だが剣士が立ち上がることを許さぬかのように鋭く声をかける。
「否定」
その声は剣士を少なからず驚かせ、波打つ白金の髪は再び翻り、トレスの眼に、見開かれた翠の瞳と痛々しいガーゼがはっきりと映る。
「……神父トレス」
寝台の傍らに身を屈め、ユーグは蒼ざめた、不安げな顔をトレスに近づけた。
「眠った方がいいんじゃないのか?」
「否定」
「身体が動かないんじゃないのか?」
「否定」
「俺のことを……怒っているのか?」
「否定」


指先がそっと、唇を撫でる。
そしてユーグは両手でトレスの頬を包み込み、機械の尖った聴覚センサーにすら聞き取りがたい声で囁いた。
「……キスしてもいいか?」


通常施している偽装を外し、その眼の奥の十字架のような照準まではっきりと透かせた異形の瞳は、一瞬たりとて視線を外すことのなかったユーグの眼差しから、ゆっくりと、懇願を囁いたその唇へと動かされた。
「肯定」
与えられた許しに、唇が囁いたのは感謝の祈りの言葉だったろうか。
メンテナンス前の機体を汚すまいと、ほんの触れるだけのくちづけを、額に、目蓋に、頬に、そして唇に――飽きることなく繰り返し、傷ついた片目を、ユーグはじっと、トレスの頬に押しつける。
「ヴァトー神父、」
「戻れないかと思った」
「――ヴァトー、」
「もう、君の元に戻れないかと……」


「……ただいま、“ガン、――――……」


名を最後まで呼ぶことなく、翠の片目は閉ざされる。
強靭なその身体が、覆い被さるようにくずおれてきたその瞬間、トレスの嗅覚センサーは、ユーグの身体に血臭を嗅いだ。
小柄な身体、その全身に最強の力は再び宿り、跳ね起きれば強制排出された接続端子が弾け飛び、ケーブルをのたうたせながら床を跳ねる。チューブ内に残った皮下循環剤を飛び散らしながら。
抱き留めた僧衣、その下に不必要な厚みがあるのは、下着ではなく包帯だろう。
蒼ざめた、美しいその顔を静かに眠らせたままの剣士――その身体を抱え上げ、トレスは“アイアンメイデン”を呼び出しながら実験室を大股に横切る。
何度くちづけても、この身体はいまや起き上がらない。
甘いキスで目覚めるのは、百年眠った姫君だけだ。
我侭な、……淋しがり屋の死神など、人形ごときが何度キスを与えたところで、目覚めてくれるはずもない……!


「“アイアンメイデン”!」
手がふさがっているのか、なかなか応答しようとしないシスター・ケイトを叱咤して、要メンテナンスの機体を軋ませながらトレスは、実験室の扉を蹴り開けた――