モロッコの、暑くひりついた空気は北国育ちのユーグを苦しめた。
「俺が行けたらいいんだがなぁ」と、カルタゴのゲリラ対策に赴くレオンが、珍しく真剣に身を案じたように、これは致し方ないとは言え最悪の人選だった。カルタゴとモロッコで、同時に問題が起こったりさえしなければ、どちらもレオンが赴くべき任務だったろう。だが、現実として、ユーグは傷んだ咽喉と眼を軋ませながら、埃まみれのモロッコの大地に立っていた。
レオンが予言した通り、最初の一日で漆黒の僧衣はお役御免となった。
彼は最低限ズボンだけを穿き、その上から、現地で買った数メートルもの薄い一枚布を、幾重にも全身に……頭から腰まで巻きつけて身体を覆い、風通しを良くして肌を隠した。――貞淑な砂漠の女のように。
淡い金の髪を頭巾に押し込み、口さえ覆い、翠の瞳を覗かせたユーグの格好は、結果、その体格と身長にもかかわらず、下手をすれば女性にすら間違えられかねないものに仕上がってしまった。実際、彼と彼の香水が残す香に一目惚れして、一般男性に後をつけられることだって決して珍しくはなかったのだ。……本当に、女性と思われてのことかどうかはともかくとして。
そしてユーグの傍らに、もうひとつの最悪の人選の具現が無愛想に佇んでいる。
「……ぐ……ッ」
身体全体の軋むような咳をこぼしたユーグを、同僚が無表情に見上げた。
「――ヴァトー神父?」
「大丈夫。……大丈夫……のはずだ」
弱音を吐きたくなくて、麻のマフラーの下で苦笑する。苦しいのは自分だけではなかった。北国の人間が多いAx派遣執行官の中で、この灼熱の大地に駆り出しても大規模な破壊活動を行える人材……となれば、それは気の毒なことに、ただひとりしか存在しない。
日光を浴びた金属はすべて、火傷するような熱を孕むこのモロッコにおいて、体中金属素材だらけの機械化歩兵――トレスが、やはり、全身を同じ装束で覆って、ユーグの背に手を伸ばしていた。その手首に、銀色の防塵テープが貼られている。触れてみると、火傷するほどとはいかずともやはり熱い。日光を遮断しているはずなのに、テープの下の接続端子が熱を孕んでしまっているのだろう。
さぞや全身の不快感に悩まされているに違いない。だが、頭の部分の布をほとんど完全に眼の上まで降ろしてしまった――砂塵が飛び込むのが嫌になったらしい――トレスから、苦痛の表情はうかがえない。苦痛を苦痛と認識できないのだから、仕方のないことではあった。
「こんな昼間から出歩いているなんて、俺たちぐらいのものだな」
ゴーストタウンと化した、真っ白く陽光に塗りつぶされた街を鬱々と歩く。太陽の為に殺人を犯す人間が出たと聞いても、今のユーグならちっとも驚かなかっただろう。
足取りはしっかりと、だが視覚センサーを完全に覆ってしまったトレスが、その斜め後ろに続いた。
「肯定。だが吸血鬼に先んじるには日中に活動するしかない。体調が悪化したなら、卿はホテルに戻って休め」
「冗談じゃない……君が煙を噴いて倒れたら、俺以外の誰が迎えに行くんだ」
「俺は通常の人間より、苛酷な環境で長時間稼動することを可能とした機体設定を――」
「すまない、台詞が頭の中に入ってこなくなってきた……」
「……ホテルへ戻ることを推奨する」
「いや、少し水を飲んだら回復する、から」
語尾の「から」と同時によろめくように、一軒の店の軒先へと避難する。「休息するか?」とがら空きの店内を顎でしゃくってみせたトレスに、ぐったりと首を横に振った。
幾重ものマントの下、水袋を取り出し、外気よりは冷たいと思えるぬるま湯を一気にあおる。同じように、かろうじて直射日光を避けうる軒先に避難していたトレスが、こちらは水分補給の必要もなく黙然と待機していた。
「――自然の驚異とは恐ろしいな」
あまりのことに、もはや陳腐な感想以外出てこないユーグは、それでも、通常の人間よりずっと頑丈である。こんな気息奄奄たる状況でも、求められれば吸血鬼の5人や10人斬ってみせるだろう。実際、彼らが今向かう先は吸血鬼の氏族の拠点であった。
吸血鬼側も、まさかこの炎天下に、短生種二人が徒歩で気軽に訪れた挙句、その二人きりで特攻をかけてくるつもりだとは思いも寄らなかったに違いない。どう考えても自殺行為である。だがそれが自殺行為とならないのが、Axきっての突撃隊たる剣と銃の使い手なのであった。
ユーグの述懐に返答する必要を認めなかったらしいトレスは、ただ、街路に向けていた視線をじろり、とユーグに向けながら、下ろしていた頭巾を上げた。
「負傷したのか、“ソードダンサー”?」
「は?」
皮膚や内臓はこの気候でいい具合に傷んでいるかもしれないが、怪我をした覚えはない。そう言おうと唇を開いて、ユーグはそこに走った痛みに眉をしかめた。埃まみれの手袋に包まれたトレスの手が、すばやく伸びてユーグの口元のマフラーを引き下げる。
「――乾燥による裂傷と判断する」
「こういう時に生身は面倒だな」
そういえば先ほどから、苛立ちのあまり唇を噛み締めていた、とユーグは思い起こす。割れて捲れあがってしまっていた表皮を、歯で噛み千切るぐらいのことはしていたかもしれない。
いい加減に口元を手の甲でこすると、手袋に真っ赤な線が走った。
「ヴァトー神父。その行為は推奨できない。薬は所持しているな?」
「面倒くさい。君が舐めてくれたら治る」
熱さに脳味噌までゆだりかけたユーグが、だだっこのように言い募るのを、普段なら、扱いに慣れた殺人人形はあっさりとキスのひとつもしてすませただろう。だが、さすがにこの環境が何らかの負の要素を加えたのか、トレスは言下に拒絶した。
「否定」
「……可愛げのない返答をするなよ」
苛々を抑え難くなってきたユーグが、刺々しく言い返す。ユーグの憤懣――というか逆切れに気づいたのか、ちらりとユーグを見上げてその表情を確認し、人形は言葉をつけ足した。
「俺の口腔には唾液が存在しない。消毒作用もない」
その言い方ではまるで、「唾液があったらキスしてやったのに」とでも言っているかのようだ。そう言われてしまうと逆らえない。重ねて「手当をしてから出発すべきだ、ヴァトー神父」と促されて、ユーグは溜息をついて手袋を脱いだ。どうも最近、人形の掌の上で転がされているような気がする。
腰に取りつけたポーチから、ここ数日ですっかり必須となってしまった軟膏のチューブを取り出す。人差し指にそれを押し出しながら、ふとユーグは、相変わらず隣で無表情に待機している同僚を眺めやった。
「イクス神父」
改まって呼ばれて、トレスはユーグを振り仰ぐ。
「ちょっと舌を出してくれ」
やけに真剣にそう頼まれて、トレスはユーグの表情を走査した。だがすぐに、常の通り、さっさと言うことを聞いてやった方が早いということに思い至る。トレスは自分のその行動が、「何だかんだ言ってもユーグは自分をこっぴどく傷つけることはしないし、自分がそれに従うのも嫌ではない」という意識の表れであることに、気づいてはいない。
とにかくトレスは、一瞬の沈黙ののち、大人しく口を開けて舌を出した。そのまま、可愛らしく固まっている――HCシリーズにそんな形容詞を使うのはユーグぐらいのものである――トレスの舌に、ユーグは電光石火の勢いで手を伸ばした。
「!?」
トレスが舌を引っ込める。
だが時既に遅く、トレスの舌にはたっぷりと、ユーグの指から軟膏がなすりつけられていた。
勢い余って歯や唇にまでついてしまった軟膏に、トレスは無表情なりに力一杯の抗議を込めて、沈黙したままユーグを睨んだ。
「何を怒っているんだ。これで、舐めたら治るようになったじゃないか」
あまつさえ更に手を伸ばし、紅をひくように丁寧に唇に軟膏を伸ばしてやりながら、とうとう本格的に熱に脳をやられたらしい剣士は満悦の笑みでフフン、と鼻を鳴らした。
「――ヴァトー神父」
「何だかいやらしいな。そう唇が光っていると」
「ユーグ・ド・ヴァトー」
「勘弁してくれ。この熱さじゃ多少ふざけでもしないとやってられないんだ。さ、治してくれ」
「何?」
「舐めてくれ」
笑顔を浮かべると唇が攣って痛むのか、笑いかけて目元だけをゆがめ、ユーグは放胆に要求した。
今こうして、顔を剥き出しにして話しているだけで、水分補給したばかりのはずのユーグの唇は、見るも無残に乾き、ひび割れてしまっている。血のこびりついたそれを見た瞬間、これは早く手当しなければ、と思ったのだろう。軽くかがんだユーグの、その唇をトレスは背伸びして素直に舐めた。
まさかそこまで手早く舐めてくれるとは思わなかったのだろう、ユーグの翠の瞳が驚きに見開かれる。だがすぐに、普段とは違う、ねっとりとした感触がその驚きさえ吹き飛ばしたらしく、ユーグは即座にトレスの肩を捕まえて、そのまま深くくちづけた。
「ヴァ…トー――」
抗議の声をすら途中で断ち切られ、血の味も生々しい唇が押しつけられる。血臭に嫌悪感などはないが、こんな行為にいきなり突入しては、ユーグの荒れた唇はいっそ裂けるかもしれない。とにかく舌で押し返そうとして、その舌も絡め取られたトレスは困惑に固まらざるをえなかった。
もちろん、重くぬめった舌にやわやわ抗され逃げ惑われるなど、ユーグにとっては情欲の発火剤以外の何物でもない。鮮やかな一枚布に包まれた身体を抱き寄せ、こともあろうに見知らぬ店の軒先で、ユーグは長々と、濡れ光るトレスの唇と口内を味わったのだった。
ようやっと、唇を解放されたトレスがユーグを押しのけようとした時、ユーグはすでに、袖でトレスの口元を拭っていた。
「ヴァトー神父。卿は常々――」
「ありがとう、神父トレス。おかげでよく休めた」
「……」
機械人形から生気でも吸い取ったかのように、やけに精彩を取り戻した金と翠の剣士――その姿を、黙然とトレスは眺めやる。だが、血の赤を乗せた唇を拭ってくれる、その手を拒絶しようとはしなかった。
乱れてしまった頭巾を被り直し、埃と汚れが大量に舞い込んだその口に、ユーグに手渡された水を一口含むとすすいで吐き出す。
トレスが他人の暴挙の後始末をさせられている間に、ユーグはすばやく身を整え、しっかりと口を覆い直した。トレスがその機敏な動きを観察して、ふと、ユーグに問う。
「ヴァトー神父、先刻の薬は、」
「何?」
「先刻の薬は、内服にも適していたのか?」
どこかミステリアスにも見える翠の瞳だけを覗かせていた、白皙の剣士はその眼を一瞬見開き、そしてマフラーの下で手当済みの唇をほころばせた。
トレスは、ユーグの変身が先刻の軟膏によるものだと推測したのだ。自分でも頭がイカれている、と思いつつも、そんな人形が可愛くてならず、マフラー越しにもう一度、トレスの頬にキスをしてユーグは囁いた。
「もしかしたらそうなのかもしれないな。でも、君が俺にああして手当してくれたのが、一番の薬だ――神父トレス」
「理解不能だ。再入力を」
「生きて帰ってきたら、いくらでも」
それきり、小柄な背を軽く叩いて「行こう」とうながす。先に一歩出て振り返りざま、
「本当にありがとう、助かったよ」
と笑いかけた。
少なくとも、礼の言葉を惜しまぬのはユーグの美点だ。そう思いながら、トレスは黙って後に従う。
理由は不明だが、先ほどの行為はユーグに非常によく作用したらしい。もしや手より舌の方が、薬品の塗布には適しているのだろうか。
対ユーグの行動として、またひとつ、有効な――逆にいえばユーグ以外の人間にはてんで無効な――手段を記憶したトレスもまた、システムの許す範囲内で、それなりに上機嫌へと復活していたのだった。
その後長く、「人の店の軒先でいきなり熱烈なくちづけを交わした挙句、白昼の炎天下に出て行ったっきり戻ってこなかった女装(?)の旅人二人」は、平和な砂漠の街の人口に膾炙したわけだが――彼らが僧衣をまとっていなかったという、たったひとつの驚くべき幸運のために、それがミラノ公の耳を騒がせることは、ついぞなかったのであった。