久しぶりに清潔なシーツの感触で目がさめたら、そこは病院の一室だった。
彼以外、誰もいないこぢんまりとした殺風景な白い部屋。個室を与えられたのは、その重篤な容態のためか、それとも派遣執行官という身分のせいか。どちらでもいいことだったが。
窓の向こうには見覚えのある町並が広がっている。営々ととつらなる古びたスレート屋根と、その合間にさながら島のごとくそびえ立つ塔の丸屋根――サン・ピエトロのドーム。
「・・・・帰ってきたのか」
カーテンごしの日差しに目を細めながら、ユーグ・ド・ヴァトーはひとりごちた。
見慣れたとは言え、なじんだとは言い難い、しかしここは彼にとって第二の故郷だった。


悪夢にぬりこめられた生まれ故郷で、彼が十年来の旧怨を晴らしたのはつい先のことだ。
4人の仇敵を追いつめ、一人残らずその刃で屠った。最後の一人―――彼の家族の真の仇を討ち取った時、敵の細刃に貫かれた肺臓から大量に失血したユーグは、途中で意識を失った。
その後のことは覚えていない。が、重傷を負った彼を緊急搬送し、ここローマでも最高水準の医療設備を誇るヴァチカン直轄のパラメディックで治療を受けられるよう手配したのは、ミラノ公――カテリーナ・スフォルツァ枢機卿だろう。
一度は自ら捨て、またそれゆえに見捨てられたと感じていた、彼の上司と同僚たちは、彼の知らぬ所で実にさまざま手腕をふるってくれていた。
私怨以外のなにものでもないその行動を、すべて超法規的解釈で合法にすりかえてくれたミラノ公をはじめ、裏方でこっそりサポートしてくれた師匠、一番大事なことをさりげなく指摘してくれた先輩。しかし何より、ことの初めから関わり、あからさまにあおる形で、彼の行動指標をあやまたず指し示してくれたのは、小柄な同僚だった。


あれからどれくらい眠っていたのだろう。今日が何日なのかもわからなかったが、時間はもう午後を回っているようだった。
赤い屋根瓦と白茶けた壁が、まばゆい残照を照り返している。北国の陰鬱な太陽に慣れた目には苛烈とも言える光に、ユーグは無意識に手を挙げて日を遮ろうとし―――自分が奇妙なものをにぎりこんでいるのに気づいた。
黒い布の切れっぱしだ。それも、焼けこげてごわつき、断裂した繊維が糸状に垂れ下がっている。病院の備品にしては、およそ衛生的とは言えない。
なぜ自分の手の中にこんなものが?とふしぎに思って、ユーグはしげしげそれを見つめた。あれこれとひっくり返してもみるが、なんの変哲もないボロ切れにすぎない。そのうちふと思い立って、彼はそれに鼻先を寄せてみた。
溶けた金属と、硝煙の匂い。そして微かな――しかしまちがえようのない、皮下循環剤の、独特の刺激臭。
「―――!」
その正体に思い当たった時、ユーグはつい、自分の状態を忘れて飛び起きかけ――てきめんに走った激痛に、ふたたびベッドに沈没してしまった。
(参った・・・・)
暫し、声もなく悶絶する。痛みと、それ以外のものに苛まれて。
嗅覚は人間の最も原始的な脳と直結しており、連想記憶に結びつきやすい感覚機能だといわれているが、ユーグのそれもまた例外ではなく、彼は自身の記憶が途切れた時にまっすぐたどりついてしまった。
すなわち、その時一番彼の近くにいた人物に。


今は見る影もないこの布と、同じもので作られた僧衣を着ていた、彼の同僚。
思い出すのは、最後まで自分を支えていた、細身ながら強靱な腕。
驟雨の、夜闇の、地底の暗がりの向こうから、いつも自分を貫いていたまなざし。無慈悲なまでに冷厳な言葉と、変わらぬ誠実さをひそませていた、あの声も。


ぐったりと敷布に沈みこみながら、ユーグ・ド・ヴァトーは一生の不覚とも言うべき事実に打ちのめされていた。
なんのことはない。
こんなにもしがみついていたのだ。自分は。
離れたくなくて、放してなんてほしくなくて。無我夢中でしがみつき、引きちぎってでも傍にいてほしかったのだ。
あげく、お守りかなんぞのように、後生大事ににぎりしめて。
捨てたの放っておいてくれだの、自棄なセリフを吐きちらしておきながら、これではまるで、反抗期の子どもがぐずって手近なものに八つ当たりしているのと変わらないではないか。
げんなりすると同時に、ユーグはいたたまれないほどの羞恥を覚えた。件の同僚は、すんだことをむしかえしたり、ましてやそれをネタにユーグをからかったりするような性格は、文字通り持ち合わせていなかったが、それにしても、だ。
(・・・・今度神父トレスに会ったら、一番にあやまろう・・・・)
根っからきまじめなユーグはそう結論するのだった。


コン、コン、コン。
そこへ、見すましたようにノックの音が響く。
「どうぞ?」
と、反射的に答えたユーグは、横すべりに開いた扉の向こうに、今しも彼を自己嫌悪の淵に沈ませていた人物を見出して硬直する。―――が、それは一瞬の事。
「イ、イクスし―ー―」
呼びかけざま、相手の名前を呼び終わらない内に、彼は無礼千番にも吹き出してしまっていた。
なんとなれば。
そこには、両手いっぱいかかえた花やらリボンやらけざやかな色合いの紙袋やらに、ほとんど押しつぶされるようにして立つトレス・イクス神父の姿があったからである。




「す、すまない、神父トレス」
「謝罪は無用だ。ヴァトー神父」
間欠泉のように襲ってくる笑いの発作に涙さえ浮かべている男を前に、神父トレスはいつものように平板な声音で答えた。ファンシーな荷物の間からかいま見える無表情きわまりない顔つきが、違和感ミスマッチでまたおかしい。
「国務聖省よりここ、聖ルチア救急病院に至るまで、すれちがった人物のほぼ86%にあたるのべ756人が、卿同様の反応を示している。従って卿のそれは奇矯なものとは言えない。―――入室許可を要請する、ヴァトー神父」
そんなに笑われてきたんかい!とここでツッコまないあたりが、ユーグの人の良いところである。もっとも、新たに吹き上がってきた笑いの喘鳴のため、トレスの最後の要請には、手振りで入るように促すのがせいいっぱいだったが。
ガンスリンガーはしかつめらしく入室すると、きっちりとドアを閉め、踵を打ち合わせそうな勢いでユーグに体正面を向けて、訪問の眼目をのべた。
「ミラノ公の命で卿の容態の確認にきた。持参した物品はミラノ公以下卿も旧知の人物からの預託品だ。後ほど個々について贈り主の氏名を明らかにする」
と、いったん言葉を切り、ここに至ってまだ口もきけず、肩をふるわせて枕につっぷしているソードダンサーにじろりと一瞥をくれる。
「視認する限り、順調に快復しているものと推察する。異論があれば入力を」
あいもかわらぬ無機質な感慨である。が、彼独特のこの言い回しを意訳すると、「元気そうでなによりだ」になる。むろん、つきあいの長いユーグはそのあたり察するに鈍ではなかった。
「ああ、思った以上に良好だ・・・」
まだ笑いの余韻を口元に漂わせながら、ようやっとユーグはキリングドールを傍らに招いた。
「こちらへ、神父トレス。とりあえず、手荷物を置いてもらおう――折りたたみ式の椅子がそこ、長椅子も使ってくれてかまわない」
「了解」
堅っ苦しく返答しながら、トレスはまず、花かごを枕元のキャビネットにのせた。
「シスター・アグネスからだ」
次に、かなり厚みのある冊子が3冊。これも花の横に置かれる。
「シスター・ケイト、航空写真のベストアルバム」
その冊子の上にさらに、彩りあざやかな――その分どこか安っぽい紙袋がどさどさと2つ積まれる。
「ナイトロード神父。揚げ菓子その他。注釈:“今すぐ食べることを推奨する”」
「・・・・それはひょっとして賞味期限が切迫しているのか・・・・?」
「未確認だが、90%以上の確率で卿の推測は肯定される。次にワーズワース神父――」
以下、出るわ出るわ、最後にミラノ公からだと言う美しい金細工のオルゴール時計を渡されるまで、次々現れるお見舞い品に、ユーグはトレスがこれらを押しつけられていった経緯が見えるようだった。


ミラノ公の居室を辞する際、本人から預かったオルゴールに始まって、おそらく同席していただろうシスター・ケイトがそれに便乗し、部屋を出たとたん入れちがいにアベルにつかまり、備品をいくつか取りに戻ったところで、ワーズワース博士とばったり。
シスター・アグネスは今、事情聴取をかねてヴァチカンに来ているはずだから、偶然出くわしたか。それにしても花を用意するのは時間がかかる。
花屋の店先で、満杯の見舞い品を抱えながら、仏頂面と言うも無表情な黒ずくめがつくねんと待ちぼうけている様を慮って、ユーグはこみ上げてくるものを押しつぶさなければならなかった。


ひととおり預かり物を並べ終えると、トレスはあらためてベッドに向き直った。
「ほかに要望があれば伝える。ミラノ公においては、何か不自由があれば可及的速やかに改善する用意があるとのことだ」
「い、いや・・・・」
感動のあまりか、まなじりにたまった涙を払いながらユーグは返答した。
「充分だ。これ以上は必要な―――」
と、言いかけて、ふと気づいたことがある。
「―――そう言えば、神父トレス、君のは?」
「俺の、とは?質問の意図が不明だ。再入力を」
反問されて、ユーグはいたずらを思いついた悪童のような顔でにやにや笑った。
「だから、君からの見舞いだよ神父トレス。みんなからはたくさん預かってきておいて、自分の分は用意してくれてなかったのか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
機械が面食らうとすれば、今のトレスの表情がまさにそれだった。
その思考のほとんどが戦術仕様に構築されているせいで、何事にも動じず、時に無惨なほど怜悧で頓着しないと思われている彼だが、ごくまれにその冷徹の仮面が外れる時がある。というか、その下のわずかばかりの感情めいた反射が、透けて見えることがあるのだ。
たいがいが突拍子もないことを言われたり、いわゆるメンタルファジ―なモーションに巻きこまれた場合で、そんな時の彼はまさしく彫像のごとく凍りつく。
正確にいうと、フリーズしているのは彼の身体機能ではなく、その思考セルなのだが。
一瞬硬直してしまったトレスだが、すぐにそのガラスの瞳の奥でちかちかと光がまたたき、セルが切り替わった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
めずらしく四角四面に切り返そうとはせず、彼は黙ってケープの下から、紙包みを取り出した。リボンやシールはおろか、なんの彩りもない、およそ飾りけと言うものの皆無な茶袋である。
「これは・・・」
反射的に受け取りながら、不覚にもときめいてしまったユーグだったが、包みを開いてみて目が点になった。
「――――神父トレス。君の気づかいには感謝する。感謝するが―――」
絶句する。なぜならその中身は、真新しい僧衣だったからだ。
よくよく見れば、袋の裏には小さくヴァチカン総務省備品課のマークが印字されている。
こちらに向かう際、再支給されたものをついでに受け取ってきてくれたのだろうが・・・。
はたしてこれはお見舞いの品と言えるのか?それとも、もしやひょっとして彼特有のジョークなのだろうか?
まっとうこの上ない無表情で直立しているキリングドールに、ユーグはフクザツなまなざしを向けた。
「“感謝するが”。この続きを入力することを要求する。ヴァトー神父」
彼の視線が戻ってくるのを待っていたかのように、つけつけとした言葉が降ってくる。ユーグは、この男をからかったことをちょっと後悔した。
「いや・・・いい。ありがとう、神父トレス」
すっかり毒気を抜かれたユーグは、長身を縮めるようにしてすごすごとシーツに潜りこんだ。
「忙しいところをわざわざすまなかったな。ミラノ公には、一日も早く失点を取り戻せるよう、快復に努めると申し上げてくれ」
「了解」
簡潔な答えが返り、そのまま、例によって律動的な靴音が響く。いつもと違ったのは、歩み去るかと思われた足音が、逆にベッドサイドに近づいてきたことだ。
「―――?」
シーツの端から目をのぞかせたユーグは、ごく目前にずいっとばかり寄せられた端正な貌に思わず額を後退させた。
「イ、イクス神父?」
彼の動揺など眼中にないお人形さんは、ガラスの瞳でユーグを縫い止めながら言ってのける。
「卿の言動を顧みるに、俺の行動は卿にとってきわめて不満足なものであったと推測される。従って、それを是正するべく卿の現状に最適と思われる代償行為を行うつもりだが、異議は?なければ即時実行する」
「は・・・?」
ユーグがその美貌を冒涜するようなまぬけ面を浮かべたのと、トレスが彼を腕に捕らえたのはほぼ同時だった。
「神父トレス!何をするっ!?」
「静寂を推奨する。ここは病院内だ」
「ってどの面下げて言ってるんだ君はっ!」
ユーグの非難ももっともである。なにしろトレスは、片手でユーグの首根っこを押さえつけて自由を奪った上、もう片方の手で上掛けをはぎ取って、彼の夜着の前を開けたからだ。
ところ嫌わず穿たれた古傷と、それらの積み重ねの結果である、無駄のない締まった肉に鎧われた若々しい体が露わになる。
思わず息を呑むような、鍛えられた体の持つ美事なラインを目の前にして、しかし、機械化歩兵は一瞬たりとも逡巡しなかった。大の男を軽々と押さえこんだまま、その肌に手をのばす。
「トレス・・・ッ」
悲鳴にも似た声は、次の瞬間爆笑にとって代わられた。なぜなら、衣と肌の合わいにすべりこんだトレスの手は、そのまま彼の脇やら腹やらをくすぐり始めたからである。それも、かなり手放しに。
「ト、トレス、やめろっ!こら・・・やめ、」
身をよじって笑いころげながら、ユーグがばたばたと相手の腕を叩いて抗議するが、
「遠慮は無用だ、ヴァトー神父。人体の免疫系を活性化させる方法として、笑いと言う情動は効果が期待でき、かついかなる薬物よりも副作用がないことは承知している」
とか、ほとんど寝言のような理論を展開するトレス。悪意がない分、たいへん始末に悪い。
誰だ、この人形によけいなソフトをインストールしたのはっ!と、ユーグは呪ってしまいそうになったが、やめた。そういうまわりくどい嫌がらせ―――と言うか屈折した愛情表現―――をしそうな人物には、若干1名心あたりがあった。
この機械人形のメンテナンスを一任されている彼ならば、そう言う芸当も可能だ。と言うより「遊び心v」(本人談)にこと寄せてやりたがるに決まってる。いったんお茶目モードに入ったあの人を翻心させるのは、発射された噴進爆弾を説得して引き戻そうとするのと同じくらい、不可能かつ無意味なことだ。
思い至って、ユーグはがっくりとうなだれた。
それに、もしかしたらこれは、さっき揶揄されたトレスの仕返しなのかも知れないし。
そう考えると、ちょっと自業自得かなと思ってしまうあたり、やっぱり彼はいいお育ちなのであった。


しかしこの時、予想もしないことが起きた。
「お、怒っ、怒ってるだろ、さっきのこと!あやまるから・・・」
「否定。俺には怒りを感じる機能は付加されていない」
「うそつけっ!」
「否定。嘘と言う概念は理解できるが、今それを行使する必要性は皆無だ」
めき。
「神父トレス、もういい、もう充分――」
「98秒前にも言ったとおり、遠慮は無用だ」
「だから誰も遠慮なんか、」
めきめきっ。
「――待て、ヴァトー神父。今の音は・・・」
「音?――うわあっ!!」
めきめきみしっ!ばきょんっ!
どっからどう聞いても痴話ゲンカ以外のなにものでもない言い争い(手技つき)のさなか、突然の破砕音と共に、ユーグは自分の体が落下するのを感じた。
常の彼ならとっさに受け身を取るなりなんなり回避できるのだが、今日はいかんせん、体調も体勢も悪すぎる。ほとんど本能的に頭を庇って身を丸め―――が、覚悟したような衝撃は訪れず、かわりにユーグは頭上から落ちてくる平板な声を聞いた。
「損害評価報告を。ヴァトー神父」
そっと目を開けてみて、彼は自分のすぐ上にある同僚の顔に気づいた。そしてその腕が抱きかかえるようにして受け止めてくれたおかげで、床に叩きつけられずにすんだことも。
「いや・・・俺はだいじょうぶだ。神父トレス、君は無事か?」
「肯定」
常と変わらぬ冷静な瞳が、これまた変わらぬ無味乾燥な一瞥で、ユーグの全身をさっと見渡した。見る、と言うより走査する、と言った方がふさわしいようなその仕草に、ユーグは苦笑する。
言葉で事なきを伝えても、彼は懸念が拭えなかったのだろう。
それにしても、いったい何事がこの身に降りかかったのか。
あらためて見てみれば、彼もその僚友も砕けた木切れや割れた金具の破片にまみれ、シーツの残骸と弾けたマットレスの素材を頭からかぶっているといったありさまだ。
「なんだ・・・?ベッドが壊れたのか?」
「そのようだ」
答えながら、トレスはユーグを補助しつつ立ち上がった。その片手間に、自分たちの上に積もっているがらくたを取りのける。
瓦礫の山と化したベッドを眺め降ろして、ユーグはためいきをついた。
ちょっと考えればわかりそうなものだ。一人用のベッドの上で成人男性二人がどたばた暴れれば、壊れるかも知れないことくらい。なのにこの機械ときたら。
「医療用ベッドは一般のそれと比較して、かなりの強度を計上して製作されているはずだが、その耐久限界を事前に確認しなかったのが、自壊の遠因と推定する」
と、体重200キロの己を微塵も振り返らない結論。通俗的な言葉に直せば、「なんてヤワいベッドだ。医療用のくせに」だ。
「神父トレス・・・」
「懸念は無用だ、ヴァトー神父。早急に代替品を搬入するよう手配する」
ユーグの金髪にからみついた木くずを、まるでネコのノミ取りに腐心する飼い主のように、黙々と取りつづけているキリングドールを見つめながら、ユーグは頭を押さえた。
「だが、」
とそこでトレスは言葉を継いだ。
「俺の認識不足のために、卿の身に危難が及ぶところだったことは否定できない。謝罪する」
「・・・あ」
ユーグは思わず目を見開いた。これも彼の特性と言うべきだろうか。確固たる命令と精密な演算によって行動を決定するトレスは、その過程と結果に弁明を行わない。が反面、詫び事にも躊躇はないのだった。
「い、いや、ちがう。神父トレス、謝らなくてはならないのは俺の方だ」
「卿に落ち度はない」
「そうじゃない。今じゃなくて―――」
ユーグはもどかしげに上衣の隠しのあたりを探り、最前から出しそびれていた品を取り出した。
すなわち、汚れてボロボロになった、黒い切れっぱしを。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「本当は、もう一度会ったらすぐ言おうと思っていた。あの時はすまなかった、神父トレス」
機械の瞳が一瞬それを照射して、また髪の上に戻った。金糸のゆるやかな流れの中から、破片を梳き取る動作を再開する。
「あれは作戦だった。卿は期待通りの働きをし、ミラノ公のオーダーは達成された。それが全てだ」
「・・・トレス。それでも君に言いたいんだよ」
ユーグは、彼の髪を熱心により分けている、機械仕掛けの、それでいて繊細な指先をつかんだ。作業を中断されたせいか、こちらを仰いだ細面の白い顔を見下ろす。その頬にくっついている埃汚れをお返しに拭い取ってやりながら、ユーグはほほえんだ。十年来死に絶えたはずの、ひどく無邪気な笑みだった。
「君には感謝している、神父トレス。本当にだ。・・・君がいてくれて嬉しかった」
今も、そしてあの時も。
言葉の外ににじんだ思いが、届いたのかどうか。
トレスの瞳がまばたきに似て一瞬暗くなり、また明るさを増した。思考セルの再接続。瞳孔に模して造られた暗い淵の底で、燠火色の何かがまたたいた。
「―――ヴァトー」
呼びかけに続くもの。は、
「きゃ―――!!」
と、けたたましい女性の悲鳴で遮られた。ついうっかり二人の世界に突入していた彼らは気づかなかったが、全開に開け放たれたドアの向こうに、ナースが三人、真っ赤になって立ちすくんでいた。
「・・・ああ、これは」
一瞬あっけにとられたユーグだったが、すぐに我に返った。
「申し訳ない、備品を破損してしまって。自費で弁済したいのだが、どこに申し出ればいいだろうか?」
「待て、ヴァトー神父。この件は俺が善処する」
「いいんだ。俺にさせてくれ」
「卿が費用を負担すべき理由はない」
「まあそう言うな」
等々、飲み屋の前で酔っぱらいが勘定持ちを争うような会話を繰り広げていたユーグだったが、ふと違和感を覚えて入り口の方を振り返った。
先刻からナースたちが一言も言葉を発していないのである。普通、こう言う惨状を目にしたなら、叱咤なり質問なり何らかのリアクションがあって然るべきなのだが。
なのに彼女たちは、患者の安否を問うどころか両手で顔をおおうようにして突っ立っているだけ。そのくせ、指の間からちらちらと覗いてはいるのだ。それも、無惨なベッドの残骸ではなく、二人の方を。
「・・・・?」
首をかしげたユーグが傍らの同僚に目を戻すと、彼もまた不可解を浮かべたまなざしでユーグを見つめ返した。お互い、同じ疑問に立ち往生しているばかりで、どちらも答えは持たないと察した二人は、同時にまたナースたちの方を見―――
「きゃ―――!!」
と、再度黄色い声を炸裂させて、一目散に逃げ去って行く彼女たちの背中を見送るはめになった。
「――――彼女らの行動は意味不明だ。卿に理解可能なら説明を要請する、ヴァトー神父」
「さあ―――もしかして、あれを見て俺たちのことをよほどの乱暴者だと思ったんじゃないか・・・?」
顎で指された方に視線を転じると、そこにはベッドのなれの果てが。
「――――肯定」
トレスの返事は、心なしかいささか歯切れが悪かった。


もちろん、救急病院の外科病棟勤務と言う、ごく優秀な看護師である彼女たちをして職務放棄させるに及んだ真の原因は、別のところにある。
彼女たちを驚愕させたもの。それは壊れたベッドでも、つい先日まで生死の境をさまよっていた重傷患者の立ち姿でもない。
大きな物音に驚いて駆けつけた病室で、半ば上衣をはだけた金髪翠瞳の美青年が、彼よりやや小柄でひと回りほど細身の、これまた端正な造作の青年と熱い抱擁を交わし――もとい、いちゃいちゃべたべた――じゃなくて、親密そうに互いの髪やら顔やらを撫でまわしていたからである。
いや、彼女らのそれは明らかにまちがった印象なのだが、この場合そう受け取られても仕方がない状況だった。まともな感性の持ち主だったら、そんな場面にうっかり乱入してしまったら、ゆでダコになって逃げ出すしかないだろう。
空恐ろしいことに、彼女たちの誤解は真実とそう遠くなかったりするのだが、天然と非天然系天然な当事者たち自身が、そこらへん無自覚ときているので救いようがないのだった。


ヴァチカン国務聖省から鳴り物入りで差し回されてきた、稀に見る美形の入院患者が、その同僚らしきキュートな神父と実はラブラブらしい。
そんな神をも恐れぬゴシップが、聖ルチア病院を席巻したのはその日の内のことだった。




人の噂も七十五日。と言うが、件の噂が、まだぴっちぴちに手々噛むなんとやらなほどに新鮮な、翌日の話。
トレス言うところの“善処”の結果、特務分室からユーグの病室に新しいベッドが届けられた。
ハイブリッド強化樫材で作られた、白レース天蓋つきのダブルベッドだった。
件の人形がその上司と同僚に、事の顛末をどう報告したかは想像もつかない。が、ベッドに添えられていたキャッチフレーズ、『ローマ木工ギルド推奨、本年度金賞受賞製品「象が踏んでも壊れません」』のお墨付きを見て、ユーグが卒倒しかけたと言うのは、余談である。