約   束








『「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」』



――夏目漱石「夢十夜」









あてどなくオークを追い続ける苦難の数日間、疲れ果てて眠るドゥネダインとドワーフが、目を覚ませば傍らには必ず、すらりと立ち尽くす若き柳のエルフの姿があった。エルフは明るく輝く瞳を天に地に向け、星が天球を巡るさまを、雲が流れてざわめくさまを、時に歌い、時に歩き、そうしてじっと見つめていた。世の始まりから終わりまで、すべてを見届ける叡智の瞳。ドゥネダインとドワーフは、それを見上げ、自分たちがエルフの守護のうちにあることを確認してまた、眼を閉じる。
エルフの周囲には、良い魔法がはられていると人は言う。森のふもとで眠る彼らを、護るようにエルフはたたずむ。彼の種族は、若き人の子ら、ドワーフの子らの、強くやさしき兄姉だ。ドゥネダインとドワーフの傍らに、ひいやりと立つこのエルフもまた、彼らの夜を、やさしく守護する人型の森なのであった。


夜が明けて、空が赤く染まる頃になると、エルフは彼にしかわからぬ言葉を高らかに謳う。それは、まるでエルフの歌うその歌につられ、太陽が昇ってくるような錯覚さえ起こさせる。そしてドゥネダインとドワーフを起こす。さぁ、望みを捨てず今日も歩こう、そう言って彼方を指差してみせる。
まったく、このエルフは呆れるほどに前向きだ。エルフという種族そのものをやんわりとくるむ悲観の翳りも、このエルフにはひどく薄い。彼ら3人がともに希望を失いかけた時、最初に明るい声をあげるのはまず、間違いなくこのエルフだった。ともかくも、我らは前へ進もう! と。


今、そのエルフはいとしき仲間、定命の子らが眠る辺りを少し離れ、なだらかな平野を一望する丘の上に立っていた。背後の森の気配はやすらかだ。何者であれ近づけば、彼の忠実な友――森の賢者フクロウたちが、いっせいに騒ぎ出すことだろう。
そう、まさしく、
「ホウ、ホウ、ホウ」
フクロウがひっそりと鳴き交わしはじめる。
<<誰ぞ来たの>>
<<エルフは聡い、しかとわかっておるよ>>
<<剣を持っておるぞ>>
<<エルフと一緒におった人間ではないか>>
……そんな言葉を聞き取ることなどもちろん適わぬドゥネダイン――アラゴルンは、ちらりと鳴き声の方角を見るにとどめ、森の中から姿を現した。
彼はエルフとさほども変わらぬほどに、森の中を静かに歩くことができた。だが、彼の眼前に背を晒し、片手に弓を携えたまま、じっと風に吹かれているすらりとしたこの後ろ姿のエルフ……きっと彼には、どんな足音すらも、息の音すらも、隠すことはできないと思われた。
「レゴラス、」
アラゴルンはエルフを扱い慣れた者に特有の、低くおだやかな声で彼のエルフの名を呼んだ。
レゴラスは眠るように静かな気配のまま、じっとその場にたたずみ、アラゴルンに背を向けている。
「レゴラス、姿も歌声もないから驚いたよ」
「アラゴルン、」
レゴラスの明るい声が、アラゴルンの言葉をまったく無視してやわらかく響く。
本当に、このエルフの声はどんな時でも明るいのだ。その星の光宿す瞳のように。
「何だ?」
アラゴルンはレゴラスのすぐ斜め後ろに立った。空にはのしかかるほどに満天の星。このエルフの瞳はいかに星を気高く映しているだろう。それを見たくて手を伸ばす。
だがその手は、レゴラスの次の一言に凍りついた。


「あなたはいったい、いつ死ぬんだろうねぇ?」


数十秒ほどの沈黙が、レゴラスの声に続いた。星の降る音すら、聞こえるかと思われた。アラゴルンは、レゴラスの肩のすぐ傍らに伸びた手をぎりりと握り、だが、引っ込めず、おだやかな声を作って答えた。
「我らドゥネダインは、長く生きて人の二倍といったところだ。わたしもそう、あと100年も生きれば天寿をまっとうした、ということになるだろう」
「100年。……ギムリがあと150年」
歌うようにエルフは言う。背を向け、星を見上げ、丘を見下ろしたまま。
「わたしは、あと150年でひとりになるのか!」
声は残酷なまでにやわらかかった。
思わずアラゴルンは手を伸ばし、背後から、エルフの肩をきつく抱きしめた。
「……君はまさか、ずっと……わたしたちが眠っている間、歌いながら、歩きながら、星を見ながら……そんなことを?」
「ミスランディアとボロミアは死んでしまったねえ!」
抱きしめるアラゴルンの腕にも声にも構わず、レゴラスは歌うように言葉を継ぐ。
「あの気持ちの良いホビット衆も、今はもう死んでいるかもしれない。今わたしとあなたがこうしている間に、ギムリが毒虫にでも襲われてやしないだろうか? そうしたらわたしとあなたは、あっというまにふたりっきりだ!
 なんて命というものは、はかないものなんだろう!」
夢見るような、とろりとした声。今にも夢の小道に逃避してしまいそうなほどの。
「レゴラス!」
抱きしめる腕の力を、ただ、ただ強めて抱き留める。
迂闊だった。あまりにも前向きで、気持ちの切り替えの早いこのエルフが、エルフ自身も気づかぬままに、これだけ深い衝撃を負っていたなどと。
あまりにも、あまりにも早く立ち直ってしまったがために、悲しむ暇がなかったのだ。気が狂うほどに悲しまなければならぬものも、あるというのに。エルフは心の痛みをやり過ごす術に、たしかに長けている。だがこの若いエルフはやり方を誤った。
心が血を流していることに、気づかぬまま、歩きはじめてしまっている。それもひどくしたたかに。つけいる隙がないほどに、完璧に。
「レゴラス、……レゴラス、ギムリもわたしも死なないから、……まだ、死なないから」
「『まだ』」
「……レゴラス、」
「『まだ』今の所は、でも明日には冷たい肉になっているはかない人の子!」
背中から抱いているので顔が見えない。抱きしめてくる手に手を添えて、星を見上げているエルフはどこからどう見ても普通だ。だが。……だが。
「1年でも、1日でも長く君たちが生きてくれるとわたしはとても嬉しいのだけど! だってわたしは本当に、自分でも気が違ったのじゃないかと思うほどに、君たちのことが好きなんだから!」
悲しんでいるのだ、このエルフは。あまりにも悲しくて、自分が悲しいのだということを、忘れてしまいかねぬほどに。
だから毎日、呆れるほど明るく、呆れるほど希望に満ちて、彼らを励まし、護り、そして軽やかに歩くことができた。
「わたしも……わたしも君が好きだ、レゴラス、置いて行きたくなどない」
「でもあなたは確かに、わたしを置いていくのだね」
「置いて行きなどは!」
アラゴルンは何かを言いかけた。
言いかけて、そんな己に恐れおののき、沈黙した。
小さく震えている野伏の手を、不思議そうに、己は悲しみを克服し、今は脇に置いていることができていると信じて疑わぬエルフが触れ、そっと撫でる。
「アラゴルン?」
「……レゴラス、」
畏れに震える声のままアラゴルンは、レゴラスにすがるように抱きつき続ける。
「レゴラス、わたしは、」
「……アラゴルン? アラゴルン、大丈夫かい?」
ぎく、と音をたてて息を呑み、だが、次の瞬間、アラゴルンの震えはぴたりと止まった。
レゴラスの耳にその唇が近づき、ゆっくりと、低い声は滑り込む。
「わたしは、君に約束しよう」
「……約束?」
「そう、約束。レゴラス、いいか、わたしが明日か、一年後か、百年後か、君を置いて死んだとしても――」
「アラゴルン、……やめよう、そんな話は不吉だよ」
「聞いてくれ、お願いだから」
不意に怖気づいた様子のレゴラスを全身の力で捕まえ、しばし、揉み合い、アラゴルンは必死で懇願する。身が軋むほどの力で締めつけられ、生理的な涙の浮かんだ瞳をくるしげにさまよわせるレゴラスは、それでも、むやみと暴れて彼を怪我させることを恐れたのか、力なくもたれかかって沈黙する。
「アラゴルン……」
「たとえわたしが明日死んでもだ、レゴラス、」
「そんな、」
「わたしは必ず辿り着く、君の元に。アマンの地に。マンドスの館に。
 永遠の憩いの中に。魂だけとなっても、君に必ず還るから」
「……マンドスの館、に!?」
アラゴルンの言葉の意味する所は――死の恩寵受けた人の子の身で、アマンの地を侵す、ということ。
つまり、彼の祖エレンディルのなお遠き祖であるヌメノールの民が、神に逆らい人の子の分を弁えず、船で大挙し、永遠の命を得るためにアマンの地を侵略したように。彼の不死なる人の楽園に、魂となってもいつか必ず踏み込む、と、いうこと。
人の子の分際で楽園を汚す。それは、かつてエルフと人の境界を越えて愛し合ったベレンとルシアンにすらかなわなかったこと。なぜなら、エルフであるルシアンは、神の恩寵を受け、人の子と同じ死を賜ったからだ。人間であるベレンが、エルフの楽園に踏み込んだわけではない。


つまりそれは、たとえ髪一筋、魂の欠片であろうとも、
「不可能」以外の何物でもなく――


だがアラゴルンはエルフを抱きしめて放さず、神を冒す罪吐くその言葉を、必死で、レゴラスの耳に囁き続けた。


「とこしえなるアマンの海岸に立ち。
 わたしを待ってくれ、レゴラス」


甘い毒の如く忍び込んだその声は、レゴラスを優しく、だが致命的に打ち据え、彼は、未来の王の腕の中に陥落した。


「ゴンドールの民は、嘘はつかないと、言うのに」
腕の中にくずおれるレゴラスが力なくつぶやく。
「あなたの言葉は、アラゴルン」
「そう、ゴンドールの民は、嘘はつかない」
共にその場に膝をつき、座り込んだレゴラスを抱いたまま、アラゴルンはその首筋に顔を埋める。森の香やさしきエルフの白い首。
「千年、二千年、……一万年がたとうとも。魂が残ったなら魂が、意識が残ったなら意識が、血の一滴が残ったならその血の一滴が、アマンの地に辿り着いて君に出会うだろう。
 だからレゴラス、君はひとりにはならない、いつか再び巡り会うために、ひとときわたしと別れるだけなのだ。
 ……お願いだ、それをわかってくれ、わたしのエルフ」
言いながらアラゴルンの胸がぎりぎりと痛む。
こんな、かなうはずもない約束をして一体何になるのだろう。いたずらにこのエルフを怯えさせ、畏れさせ、期待させ、そして、あのアマンの地においてさえ彼を縛りつける、そんな罪を犯すだけではないのか。
「いつか」「どこかで」「また会う」――そんな約束はただの罪だ。ただの詭弁だ。わかっている、わかっている、それでも、
……それでも、このエルフを、アラゴルンは置いていきたくはないのだ。
錯覚のような約束で、一万年後の遠い未来を、子供だましのように、束縛せずにはいられぬほどに。


「いつ来るともわからぬ遠い未来、」
夢見るようなエルフの声。
「いまだ人の子の息吹すら触れぬマンドスの館に、」
抱きしめるアラゴルンの手にやさしく触れる手。
「あなたは、到るというのかい、アラゴルン」
「……ああ」


「いいね」


白い首に顔を埋めたまま、あまりにも意外なその言葉に目を見開く。
「100年後、200年後と決められた未来じゃないのが、いいね。
 だってわたしは、いつまでも諦めることなく、それを待っていられるもの。
 あの遠い至福の地、マンドスの館の内なる永遠、その永遠の続く限り、ずっと、あなたを待って過ごすことができる」
エルフの言葉はやわらかく、声は底抜けにやさしかった。
このエルフは。
泣きたくなってただ、ただ抱きしめる。
この、神に愛された稀有なる種族の、この、瑞々しい彼の緑葉は。
伝説の喪われゆくこの時代になお、どうしてこうも、やさしく、ましろく在れるのか。
「あなたを待つよ、アラゴルン。アマンの地の海岸で。
 マンドスの館の幽冥で。
 わたしはあなたを、とこしえに待つよ」
言ってからエルフは片手をあげ、手探りに、そっとアラゴルンの髪を子供にするように撫でた。
「だからその時には、ギムリも一緒に連れてきてくれると嬉しいなぁ!」


「まったく、君ときたら、」
声が震え、おとなしく撫でられたままのアラゴルンの瞳からしずくが落ちる。
「いつだってなんだって、二言目には、ギムリ、ギムリだ!」
言いながらアラゴルンは頬を、眼前のなだらかな肩に、首にと摺り寄せた。自分のにおいを、飼い主にすりつける痩せっぽちの一匹の猫のように。


軽々とアラゴルンを肩に担ぎ上げ、戻ってきたレゴラスを胡散臭そうにギムリは見上げた。
「ずいぶんと遅かったじゃないか。その野伏はどうしたね、あんたの寝込みを襲って返り討ちにでもされたかい」
「抱きついているうちに眠ってしまったのだよ。まったくいつまでたっても子供なのだから、このドゥネダインは!」
笑って答えるエルフの瞳には、ここしばらくギムリが危惧していたような、どこか尖った騒がしさが失せ、本来彼がそうあるべきやわらかさとやさしさを、取り戻しているように思えた。
「ふん」
肩をすくめてギムリはごろりと寝転がる。レゴラスは、抱いたドゥネダインを降ろし、ギムリに見えないようにその涙の跡を拭ってやると、横たわらせて毛布をかぶせた。
「レゴラス旦那、」
寝転がって背を向けたままのギムリがぽつりと名を呼ぶ。
「なんだい、ギムリ」
「あんたたちエルフは知らないだろうが、ドワーフにはずっと、信じられている言い伝えがある」
「教えてくれるかい」
「ドワーフは、死ねば皆、マンドスの館の中に用意された、ドワーフのための一角に還り、そののちはとこしえの安らぎの元に第二の生を生きるのだよ」
レゴラスは振り返り、背を向けたままのギムリを見つめた。
「だからね、レゴラス」
ギムリはぶっきらぼうな声で、ひとりごとのようにつぶやきつづける。
「そこの危なっかしいドゥネダインが、わざわざわたしの髭を引きずって連れて行こうとしなくたって。
 わたしは彼よりずっと、あんたには近いところに辿り着く。そこから先は、きっとさほど難しいことじゃない。わたしの斧は鋭いのだからね。
 ……たとえそこがマンドスの館の中であろうと、扉一枚壊すことなど、そう、造作もないことさ」


「……ギムリ!」
「どわぁっ!」
突如全身で抱きついてきたレゴラスに、起き上がるまでもなくギムリの身体はつぶされる。
「ギムリ、ギムリ、わたしの大好きなギムリ旦那! ああもう、君と来たらどうしてこう、わたしをしあわせにするのがうまいんだろう!?」
「ちょ、ま、待つんだよレゴラス、わたしはこのかたびらが、ただでさえ重くって……ぎゃあ!」
「ギムリ! あんたはどうしてそういつもいつもいつもいつも、美味しいところを持っていくんだ!」
ギムリの上に覆いかぶさって大喜びで彼を抱いている、そのレゴラスの上に一気にアラゴルンがのしかかる。
哀れなギムリが短い手足をばたばたさせるも、能天気なエルフと意地悪なドゥネダインはまったく意に介すことがない。
「ねぇギムリ、必ずだよ、必ずマンドスの館でわたしと逢おうねぇ!」
「こら、レゴラス、こっちを向きなさい! なんでいつもこうなるんだ! レゴラース!」
「ふ、ふたり、とも、わたしの上で暴れるな――ぐぇ、」
もみくちゃになった3人、髪も髭もあっちこっちで鎧に引っかかり草にとられ、大騒ぎの中、サンドイッチ状態のレゴラスは心の底からしあわせそうに、躍起となってレゴラスの髪を引くアラゴルンの顎にキスをする。
そして囁いた。
「待ってるよ、アラゴルン、いつまでも、いつまでもとこしえに!」
「……ギムリと一緒に、だろう?」
冗談に紛らわせでもしないとまた泣いてしまいそうで、アラゴルンはそう言って、やけくそにでもなったかのように、力任せに、レゴラスとギムリをまとめてしっかり抱きしめた。











『「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気が付いた。』



――夏目漱石「夢十夜」