あのひとの歌




眠気を誘うような午後の陽光も、石造りのひんやりとした室内にはさほど届かない。
ファラミアは書き物机に落としていた視線をふと上げ、そこだけまぶしく漂白されたような窓の外を眺めた。
ペンを置き、口元に笑みをほころばせる。仕事の虫にそうさせたものの正体は、窓の外からつとこぼれてきた、ひとひらの花弁のような歌声だった。
イシリアンの領主たる彼の邸の庭は、ゴンドールでもっとも美しいと言われている。それは決して壮麗なものではない。むしろ野放図にさえ見える。だがその庭を歩く者はみな、心の底からのやすらぎと喜びを覚えるに違いない。なぜならその庭は、森を知り尽くし、同時に、人に親しい者の手によるものだからだ。
その庭を造ったのはエルフ。それも、異種族に親しいエルフだった。
「レゴラス殿がいらしているようですな」
机の傍らで、未決済の書類をまとめていたベレゴンドも微笑する。
ベレゴンドが知らぬということは、邸の誰も知らぬということだ。つまりレゴラスは、またもや誰に知られることもなく忽然と、邸内に現れたということになる。
「あの人は神出鬼没だからな。誰も束縛することはできない。王でさえも。あの人が束縛されているように見えるとしたら、それは、みずから進んで束縛されることを選んでいるからだ」
ファラミアの治める地イシリアンは、闇の森のエルフが多く住んでいる。この森の種族は、他のエルフたちよりくだけていて陽気だ。滅び行く者の悲しみをたゆたわせることも少なく、人とも打ち解け、何より人生を楽しむことを知っている。
そんな種族が集団で引っ越してきたのだ。自然、イシリアンは緑と笑いに溢れた、「ゴンドールでもっとも美しい地」と呼ばれるようになっていた。
歌声は続いている。己の造った庭を、レゴラスはふらりと訪れてはそこで昼寝をし、歌を歌い、気が向いたら草をいじり、そしてふらりと去っていく。
最初のうちは戸惑ったものの、今では、このエルフはそういう生物なのだと納得して、礼に堅いファラミアも彼を放置している。まさしく彼は妖精のようなものだ。美しいものが、そうやって時折気まぐれに訪れる。楽しいことではないか、ファラミアはそう、悠然と構えるようになっていた。
何より、このエルフは兄を弔ってくれた人なのだ。
「また放浪していらしたのかな、あの歌声を聞くのもずいぶんと久しぶりだ。エオウィンは?」
ファラミアは妻の名を呼んだ。
「今日は施療院へお出かけです」
「そうか、戻ってきたら、レゴラス殿が遊びにいらしていることだけ伝えてくれ」
立ち上がって軽く身体を伸ばし、ファラミアは戸口へ歩く。時に仕事に打ち込み過ぎるこの領主を心配しているベレゴンドは、喜んで戸口を彼の為に開いた。
開きながらふと、
「そういえば、あの御仁の歌は上手いのか下手なのか、よくわかりませんな」
ベレゴンドは首を傾げる。ファラミアはそれを一笑に伏した。
「何を言う。歌の下手なエルフなど聞いたことがないぞ。あの人とて、今こうして聞いているだけで素晴らしい歌い手と知れるじゃないか」
「それが、そうでもないのです」
ファラミアを階下まで送りながら、ベレゴンドは肩をすくめる。
「彼は稀に、あの美しい声のままで、ひどく調子外れに歌うことがあるそうでして。それもゴンドールの歌をなのですよ」
「そんなことが、――――?」
階段を降り、庭へ直接続く扉を開いて陽光の元へ出ながら否定しようとして、その場にファラミアは固まった。


確かに調子外れの歌だった。
庭と言うより小さな森林と言うべきその、どこからともなくそれが聞こえてくる。
「……ひどいもんですな」
思わずベレゴンドがそうつぶやくほどの代物だった。
だがファラミアが固まったのは、その為ではない。


不意にファラミアは走り出した。
「ファラミア様!?」
ベレゴンドの声も聞こえない。
花壇を踏み越え、茂みを押し通り、声の方角へと突き進む。
彼は知っていた。その歌の、調子っ外れなその歌の歌い主を、本来の歌声を、彼は、


一本の樹の根元に、陽光を受けてきらきらと黄金が輝いていた。
投げ出された脚はすらりと伸びて、歌いながら心地よさげにかしげられた首はさらに、黄金の輝きを――その金髪を振りまく。
その姿を見たまま、凍りついて動けないファラミアの、その勢いに歌声は止み、少し驚いたように身体が起こされた。
「……レゴラス、」
敬称をつけることも忘れ、
「その、歌は、」
掠れた声で呼びかけると、ふたつ名の通りの緑葉の瞳は軽くまたたかれ、そして、「ああ、」と少し眼の奥に痛みを閉じ込めたように細められた。


「ボロミアに教わったんです」


あれほど武芸に秀でているのに、踊りも見事にこなすのに、歌だけはさっぱりだった彼の兄。
幼い頃から、弟である彼がせがみにせがんでやっと、恥ずかしそうに披露してくれたその歌。
たしかにひどいものだったけど、彼らは兄の歌が好きだった。


「ファラミア、」
レゴラスが立ち上がりかける。ファラミアは首を振った。水滴が散ってはじめて、自分が泣いていると知る。
「ファラミ――」
「もう一度、」
声にならず囁いた。
「もう一度、歌っていただけないか」
もういない兄。
一瞬の、あの緑の瞳の奥の痛みで、彼は知る。
その兄が、仲間にとても愛されていたのだと言うことを。
……この美しい不死の存在に、たしかに、兄は行き続けているのだということを。


「おいでなさい、ファラミア」
手を伸ばしレゴラスは彼を招く。
子供のように頼りなく、ファラミアは傍らに跪き、細い肩に額を押しつけた。
それを抱き留め、子供にするように背を撫でながら、レゴラスは再び歌いはじめる。
それは、しきりに照れながら、彼がロリアンで歌ってくれた歌。
『わたくしの歌う音で覚えたりなどしてはいけませぬ。
 いつかミナス・ティリスに共に弟を訪ね、その時に弟に教わって、覚えてはくださいませぬか』
真似をして歌うとひどくいやがった。得体の知れぬエルフなど故郷に招き入れて良いのかとからかうと、「わたくしがそんな狭量な男とお思いなら、考えを改めてもらいたい」と本気で怒ったものだった。
ひとふしひとふし、歌うたびに彼のことを思い出す、レゴラスの知るただひとつの、ゴンドールの子の歌う歌。
――ゴンドールの子よ、安らかなれ。
ファラミアの背を撫で続け、調子外れの歌は続いた。


「……お恥ずかしいところを」
顔を上げてファラミアは困ったように笑った。
「普段はそうでもないのに、なぜでしょうか、不意にこうして涙がせり上がる。悲しいだけでもないのですが」
隣に腰掛けたファラミアの膝に、ぽんと軽く手を置き、レゴラスは答える。
「わたしがすべてのゴンドールの民にボロミアを見つけるように。
 あなたは今、わたしにボロミアを見つけて再会の涙を流したのでは?」


「……再会の涙、」
「ええ」
繰り返してみるとそれは、ひどく優しい響きの言葉だった。
「いい言葉ですね」
故人を思い出して泣くことを、悲しみの発露ではなく、故人への再会への感動と取る……
「エルフは、過ぎ去ったものを偲ぶことが多いからね」
苦笑してレゴラスは、もう一筋、名残のように落ちたファラミアの涙を、頬に唇を当てて吸い取った。
驚くファラミアに、次の瞬間には猫の如く身軽に立ち上がり、手を差し伸べて笑う。
「散歩しませんか、座ってばかりだと根が張ってしまうよ!」
ファラミアはその手をそっと取った。
兄を連れて来てくれた手――兄が連れて来てくれた手だと、なぜか、痛切に思った。