妻が負傷した。幽鬼の剣を肩に受け、永劫消えぬ傷を残した。
「動きませぬな、これは」
溜息と共に右肩だけを器用にすくめた女は、正確には、彼の妻ではなかった。
彼らはいまだ婚姻せず、子を為したこともなかった。父王オロフェアが健在であり、王子たる彼、スランドゥイルに、子を為さねばならぬという義務感が薄かったためである。
彼と妻はよき友であり、互いに相手を変人と言ってはばからぬくせに互いの唯一の理解者であり、そして、弓の腕を競うライバルであった。
ドリアスの、あの言葉にしようとすれば声は涙に満ちるであろう、喪われし光輝と幸福――その、美しい遠い過去より、王子と女は離れがたく共に在り、かの緑森大森林に落ち着いてもなお、互いを援け、互いを高めて時を過ごしていた。
「動かぬか」
女の冷たい左手をとって、彼はそのぎこちなさを確かめた。女の腕は付け根からだらりと下がっているだけだった。そしてその左脚は、ローブのおかげで隠されてはいたが、膝から下が喪われていた。
地崩れに巻き込まれ、幾多の部下を励ましながらしんがりを護り、走った女は、左脚を岩に挟まれて動きが取れなくなっていた所を、スランドゥイルに発見されたのだ。
『王子、脚が取れませぬ。斬ってはもらえまいか』
襲いかかる敵勢の多さをちらりと見て、スランドゥイルはためらいもせずに女の左脚を切断し、背に負って走って逃げたのだった。
軍勢の3分の2が、冷たい骸となり、魂はマンドスへ赴いた。王子の父オロフェアを含めて。
そして残った3分の1の、さらに5分の1は、彼女のように、治らぬ傷を抱えている者たちだった。
「ずだぼろですな」
女はさらりと言った。
「わたくしも、森の民も、エルフという種も、すべて。ずだぼろです。惨めな有り様だ」
「相変わらず、誰もが言わぬことをさらりと言う」
「わたくしが言わねば、王子がおっしゃっていたでしょう」
女は森そのもののような、深い緑の瞳をしていた。彼はその身体を抱いて、同じ馬へと乗っていた。女が担架や輿を嫌ったのである。
緑の瞳が、かたわらのひとりの徒歩の兵に向き、やわらかく笑まれた。
「すまぬな、わたくしだけ高い所に乗せてもらって」
「奥方なれば、当然の権利です。奥方の弓に命を救われた者も多いのですし」
返り血も何も落とす間もなく、故郷へと、森へと、急ぐ彼らはそれでも笑い返す。杖にすがり、足を引きずり、だが、あの緑清き森が待っていると思えば、彼らは決して絶望はせぬ民なのであった。
いつごろか女のことを、「奥方」と、兵が戯れに呼ぶようになった。スランドゥイルは否定も肯定もしなかった。スランドゥイルにとって、この女は己の形成の一部分とも言える、不可欠の存在ではあった。だが、それ以上に彼の心には、この女を女として近づけることを許さぬ、重くのしかかる何かがあった。
これより先数千年に渡り、己と、そして己の森にのしかかるであろう、それは予感の重さだ。
それを知ってか知らずしてか。女もまた、スランドゥイルに愛を求めることはない。
「奥方になった覚えはないが、耳に心地良い響きだ。良いな。この際、王子に無断でわたくしが奥方になってしまおうか」
女は悠然とそう笑った。
「そうなさいませ、是非!」
勢い込んで賛成され、さらに声を立てて笑う。だしにされた王子は肩をすくめて言い返した。
「この女がそなたらの上に立つ妃となってみよ。そなたらはこの女の作るレンバスを食わねばならんぞ」
「あ……」
明らかに、冗談を超えた表情で「しまったな」とつぶやく兵たちに、女が口を尖らせて何かを言いかける。
だが、
「森だ!」
「我らの森……!」
不意に忽然と、いくつもの、疲れきった、だが喜びの声がこだまして女の言葉はかき消され、いたわるような微笑みと視線が、遠く黒くかすむ風景に向けられた。
「しばし復興に費やしたら、戴冠式ですか」
馬に揺られながら、彼を見上げる。
彼は黙って、ひとつまばたきをしただけだった。
「そう拗ねられるな。領土はいまだ広く、緑に萌えて美しい。
良き国ではありませぬか」
「されど敗残の国よ」
「されど生きている」
女は新たな王の肩に、瞳を閉じ、そっと頭をもたせかけた。
「ギル=ガラド上級王も、エレンディル王も、アムディア王も、そして我らがオロフェア陛下も亡くなられた。
されどわたくしどもは生きており、森も生きており、鳥は歌い、花は咲き誇っている。それがわたくしどもの勝利に他なりませぬ。
何が今更御不満ですか。わたくしどもより裂け谷の方が力が強い、ノルドールの率いる民の武装が美しい、それが何なのです。エルフなど、どうせ丈夫なのですし、人間のように、裸を見ただけで欲に負けるというわけでもないのだから、本当なら、素っ裸で生きておったって構わぬのですよ。
王は今、生きて、こんな佳き女を腕に抱いている。それで充分、そう思われよ」
「……最後の言は余計よ」
それでも低く笑って、スランドゥイルはぱしりと手綱を鳴らした。
鉛を呑んだように重い心が、女の身体のぬくもりによって、少しずつ溶けていくのを感じる。
「後からゆっくり参れ」
そう民に言い置いて馬を走らせる。
森の姿が近づいてきた。いとしい彼らの第二の故郷が。
スランドゥイルは王となった。いまだ妻帯せず、彼はもっぱら、己の森の保持に努めた。
彼らの傍らに変わらず女は在り、動かぬ片腕を首から吊り、膝から下に杖をはめて、いつのまにか、片手片脚で木に登る術まで覚えていた。
そんなある日、女は王に呼ばれ、かつり、かつりと杖を鳴らして王の私室へ向かっていた。
行儀悪く――いたしかたないことなのだが――足にはめた杖でかんかん、と扉を蹴る。片手に剣を提げたまま。
「入れ」
言われて扉を開いた。
新王は一通の書状を眺めていた。
「何事ですか、王よ。裂け谷からの使者のようでしたが。
また南の闇のお話ですか」
「そなた、裂け谷に行ってこい」
「はぁ」
女は器用に、片方の肩だけをすくめてみせた。
王はその姿をちらりと見やる。
「不満げよな」
「正直、お断りしたい気分です」
「何ゆえか」
「エルロンド卿が、エルフに災難しかもたらさぬあの宝玉のような、英雄的なお力とやらで、わたくしを癒してやるとおっしゃったのでしょう。変わらずに、おやさしいお方ですな」
返答はなかった。それが肯定の証だった。
「それと、北の山のドワーフの長に頭を下げて頼み込み、わたくしのために、生きたように動く義足を作っていただくなどというお話も、わたくしはお断りさせていただきますゆえ」
「……我が王宮は秘事も筒抜けか」
「わたくしは宮中の女官にもてるのです」
しれ、と言って女は、王の腰かける椅子の肘掛けに腰を下ろした。
王がその腰を抱き、腰掛けではなく、王の膝へと女の身体を落とす。
「何ゆえ拒む」
「王が、エルロンド卿のことも、ドワーフのことも、お嫌いでおられるからですよ」
女は子供にするように王の金の髪を撫で、それから細かい三つ編みを、片手で器用に編み始めた。
王は女の好きなようにさせ、じっと、その言葉に耳を傾ける。
「お嫌いなだけではなく、遺恨を持っておられる。まぁお気持ちはわかりますよ。過去にこだわるのは愚昧なことと、言うのは簡単ですが。
……なのに王はそれを捻じ曲げて、わたくしの為に、彼らに頭を下げ、憐れみを請おうとしておられる」
女は小さく笑って王の顔を覗き込んだ。
「似合いませぬぞ」
「知ったことか。……おぉ、知ったことかよ!」
不意に王は呪いを込めてそう吐き捨て、女の左腕をきつく掴んだ。
女の腕はぴくりとも動かない。痛みを訴えることすらなかった。
誰よりも繊細に、音も立てずに弓を扱い、速やかな死を与えるこの腕が、幽鬼の冷たさに犯されている。
己の左腕の上の、王の手に更に己の右手を重ね、女はそっとその手を撫でる。
「……王よ、わたくしは、この森に治せぬものを、我らの扱いを超えた力で無理に治そうとは思いませぬ。
あなたのその遺恨も、怒りも、憤りもそう。まだ、時が癒してはおらぬものを、無理に、わたくしのために納める必要はない。
時は必ず至るのです。そうでなければ、王はその遺恨に身を滅ぼすだけなのです。何も難しいことではない。未来はこの上なく、はっきりしており、王はじっと、己の心を見つめ、時が至るかどうかを、待たれれば良い。
そして今は時ではないのです」
王は答えなかった。ただ、女の胸に顔を埋めただけだった。
それきりふたりは黙って互いの存在のぬくもりを伝え合い、じっと、その場を動くことなく静かに鼓動を聞き合った。
長い時がたったのか、しばしのことであったのかは知らず。王は女の身を抱いたまま、片手を伸ばし、エルロンド卿よりの手紙を手に取った。
「……時が癒すか」
「はい」
「そうか。なら……良い」
王は手紙を破り捨てた。
1000の時が流れ、少しずつ、少しずつ、女の身は傷を癒し、だが、傷に残る幽鬼の剣の冷たさに蝕まれていった。
外の世界では闇が森を覆い、オークが横行し、スランドゥイルに、己の心に重くのしかかる予感の正体を、残酷に教えた。
それでも、闇の名を負わされたその森の民は、死の傍らに在って変わらずに日々酒を飲み、世を楽しみ、森をいつくしみ、そして、立ち上がっては大蜘蛛を射た。
変わらずに。……変わらずに笑い騒ぎ、歌い、その中には、レンバス作りの腕はちっとも上がらぬ例の、片腕と片脚の女もいた。
ある日、女は王の私室を訪ね、そして、王の顔を見て開口一番、こう言った。
「子を為しませぬか、王よ」
王はしばらく返事をしなかった。ややあって王は、眺めていた首飾りを放り出してじっと女の顔を見た。
「……誰と誰の子だ」
「これは異なことを」
女はやはり、片方の肩を器用にすくめて、そして言った。
「王とわたくしの子に決まっておりまする」
「……今更何を言う」
「たしかに今更だとは思いますが、……なんとなく、そういう気になりましてな」
今度の沈黙は長かった。王は女の全身をじっと眺め回した。
活動的な乗馬服の左脚、もう何十本目か思い出せもせぬ木の杖。陶器のように硬く冷たい、だが白く美しい左腕。
透き通るように蒼ざめた白い頬。炯炯と輝く緑の瞳。
アムロスとニムロデルの悲劇は、この女の耳にも入ったのか。新緑の如く明るく気高いロリナンドの新王が、哀れ、遠い南の、異国の港で命を落としたというあの報せは、この女に何を思わせたのか。
『ニムロデルの心が、わたしを受け入れてくれるのを待つことにするよ。わたしはその日が来ることを疑っていないから、待ち続けることができるのだ』
この森を訪れてそう、夢見るような瞳で語ったあの青年は、女にとっても、王にとっても、身分と性別を超えた友であったのだ。
王は蒼き瞳を閉じる。
時が来たのだと、誰かが彼に囁いた。
「……ふん」
王は何も答えることなく立ち上がり、だが、女を肩に、荷物の如く担ぎ上げて歩き出した。
女は「あれあれ」と笑うだけで逆らわない。
「たれかある」
呼びかけると音もなく近侍の者が現れる。
「この者は我が王妃となった。我はこれよりしばしの間、妃と森の奥へこもる。何人たりとも我が領域の内に立ち入ることまかりならぬ」
近侍の者が、早足に歩く王の後を付き従い、命令を聞きながら思わず、といったように問いかける。
「い、今更ですか!?」
「……我と同じ反応をするでない」
珍しく、一本とられた、といった様子で軽く苦笑すると、王は宮殿の裏手へと足早に向かった。唖然と見送る近侍の者に、「行ってくる」と、担がれたままの女がかろやかに手を振った。
女の身に命が宿った。
「よかった」
女は己の腹を撫でて、穏やかに笑った。
「逝くにしても、何かをお手許にお遺ししたかったので。安心いたしました」
森の香と静寂に包まれて、その声はゆるやかに王の耳を打つ。
王は薄衣一枚まとった女を引き寄せ、黙ってその髪にくちづけた。
「王よ」
「わかっておる。
……子を産んだら、どこへなりとも行くがよい」
女が、己の傷の冷たさにもはや耐えられぬのだということを、王はよく知っていた。
女は常のように、片方の肩だけをすくめてゆるやかに首を振る。
「いいえ、王よ、思うにわたくしのこの身体では、子を産んだ時点で、かのマンドスの館に直行せざるを得ぬような気がいたします」
王は少しだけ黙ったのち、静かな声でやんわりと言った。
「手早くて良いな」
「そうですな」
顔を見合わせてふたり、少しだけ笑み交わす。
「……子の名に希望はあるか」
王は女を抱えて立ち上がった。館に戻らねばならない。
「ひとつだけ」
「申せ」
「この森に、自然と生まれいづるものの名を、つけてくださいませ」
「緑葉」
「は?」
「緑葉ならば、世の終わりまで、森から途絶えることはあるまい。緑葉が絶えた時、森は森ではなくなるのだ」
蒼ざめた顔の女は、蒼ざめたままの顔で、それでもふんわりと、彼に笑みかけた。
「良き名でございます、この上なく。
わたくしは王に、枯れることなき緑葉を遺して逝けるのですね」
結界の端が近づいてくる。王は腰の剣を抜いて片手で提げた。
「王よ」
「何か」
「負傷してより、すぐにもかの館に向かうところを、随分と無様に足掻いて参りました」
「まだ足りぬ」
「わたくしもそう思いまする。
……つまりわたくしは、しあわせだったのですな」
王は答えない。
女は言葉を継いだ。
「しあわせだったのですよ。
わたくしについて、王に覚えておいていただきたいのは、ただ、それだけです。
……お健やかに、わたくしの殿」
「覚えておこう。
……我が女」
王は剣をもって結界を切り裂き、女を片手に抱いたまま、かろやかに、館へと走り出した。
館に戻り、女は男の子供をひとり産んで、そして、そのまま息を引き取った。
王はその最期に立ち会うことなく、産まれた子に緑葉と名づけ、そして、何事もなかったかのように、森を治める己の使命にたちかえったという。