「森の子として生まれた王子を、岩屋に閉じ込めておくことは教育上良くあるまい」
その確固たる哲学のもと、北の森のエルフ王スランドゥイルは、手練れの兵を乳母につけて、時折外を散歩させた。
「やはり森がお好きな様子です」
そう乳母に報告された父王は、その報告に満足したものの、我が子がどのように森に適応しているのか、それを気にかけずにはいられなかった。
スランドゥイルが生まれた森は、シンゴルとメリアンに護られていた。その子レゴラスが生まれた森は、人の子には闇の森とまで呼ばれるほどの、邪悪と恐怖に取り囲まれていた。
赤子は、幽鬼の剣を受けて負傷した女から産まれた上に、その森の空気を吸って育った。スランドゥイルも、そして大半のシンダールも、この森で生まれた存在ではない。この森が闇に覆われはじめた時には、すでに成人していた者ばかりだ。
この、生まれること自体珍しいシンダールの赤子について、父として、また、同じシンダールとして、何か悪しき影響を受けておらぬかどうかを、スランドゥイルはしかと確認せねばなるまい。
そう己に結論づけて、王はしかつめらしい無表情で立ち上がった。
……何のことはない。たまには、息子の散歩につきあってみたくなっただけのことである。


シルヴァン・エルフの乳母の手に抱かれて、みどり児は何やら森に向かって盛んに話しかけている様子である。あー、うー、という謎の大声が、息子を追って足を急がせるスランドゥイルの下まで聞こえてきた。
もしや歌っているつもりであろうか、だとしたらそろそろ歌を教えねば、あれでは獣も逃げてしまう。そんなことを赤ん坊相手に真面目に考え込みながら、闇の中、声の主を探す。
すると、数人の兵士に囲まれて、森の寒さと暗さをものともせず、元気に乳母の膝の上で暴れている赤ん坊の姿が、森をはるか見通す王の眼に浮かび上がった。
将来王となるであろう王子殿は、自分の足を自分でかじってみたり、時にはそこらのものを手当たり次第に口に入れてみたりと、なかなかご機嫌うるわしく外で過ごしている様子である。
王子が口に入れた虫を半泣きになってかき出している乳母を見て、ふと、スランドゥイルは、本来ならばあの王子を腕に抱いているべきであった女のことを考えた。存命ならば、かの女もそうして半べそをかき、子育てをしていたのだろうか……と。
首を打ち振って、一度止めた歩みを再び前に出す。
赤ん坊を囲んで騒いでいる兵たちは、王の姿に気づく様子もない。なにやら盛んに、将来の王に話しかけている様子である。スランドゥイルは耳を澄ませた。
「あー」
我が子の元気な声が耳に入る。
「あー、じゃなくて、らー。らなーく、ですよ、らなーく」
「あうあー」
「やった! 今、返事しましたよね? しましたよね?」
「ずるいぞおまえばっかり。いいですかレゴラスさま、俺の名前はケルン! け、る、んですよ、ほら、口をえーってして…………って」
ひとりの兵士が、ふと顔を上げて「え」の形の口のままで凍りつく。
「……楽しそうだな?」
あーあー、と王子がばたついている間に虫をかきだした乳母が、跳び上がるように立ち上がって振り返った。
「わ、わわわわ我が君!?」
「王! いかがなさいました、このようなところにお独りで!」
時々自分でも忘れているのではないかと思われるが、スランドゥイルは上古のエルフのひとりであり、しかも一国の王である。日に日に闇の濃くなりまさるこの森を、ひとりでふらふらとさまよって良いエルフではない。
「王が己の森を巡視してはならぬと申すか?」
心なしか恐ろしく冷たい声で、スランドゥイルは言うと、猫の子にするようにレゴラスを掴み上げかけ――必死の形相の乳母に止められて、しぶしぶと両手で抱きかかえた。
「あー」
目の前で揺れる金の髪を、握って不思議そうに赤子は引っ張る。
「あー、ではない。見境なく何でも口に入れるな」
重々しく我が子に説教をしておいて、スランドゥイルは乳母に「ついてこい」と顎で岩屋の方を指し、ひとり足早に歩き出した。
何事かと、慌てて兵士たちが周囲を護る。
不機嫌そうに眉を寄せたまま、スランドゥイルは結局、一言も口をきかずに岩屋に帰ってしまったのだった。


「良いか、レゴラス」
しかつめらしい顔で、スランドゥイルはゆりかごの傍らにすらりと腰掛け、じっと、己のみどり児を見下ろしていた。
おーあー、と、彼なりにやる気満々で返事しているらしいレゴラスに、身を屈め、いかにも心外だといった様子で言い聞かせる。
「そなた、まさか、我が子でありながら、父の名よりも赤の他人の名を覚えるつもりではあるまいな」
ぶー、とゆりかごの中でこちらも心なしか心外そうに、もがいているみどり児。父王はその返答に満足を覚えたらしく、ひとり頷いて言葉を継いだ。
「良いか、最初に父の名を覚えるのだ。必ずな。そうでなかったら、我はそなたを我が子とは認めぬゆえ、覚悟いたせよ」


そして、父と子揃っての特訓は、国民に知られぬよう、極秘の内に開始されたのである。


シンダールの新たな命が芽吹いたと聞き、ロリアンの新しき王――「王」の称号を名乗ってはおらずとも、実質的に彼は王であり、彼の妻は女王であった――ケレボルンは、危険をおして闇の森へと、わずかな供を引き連れて馳せ参じた。
第3紀には生まれることすら珍しくなった、純血のシンダール。本来なら、ケレボルンではなくガラドリエルが赴き、稀有なるこの赤子が天に下された意義と、その運命を見定めるべきなのだろう。だが、スランドゥイルは決して、ノルドールの姫に己の愛児を見せることを潔しとはすまい。それに、ガラドリエルとて、エルフの聖地となるであろうロリアンを、守り続けなければならない。小さなシンダールの赤子になど、関わる余裕はないのだ。
……いや。そんなことは関係なくとも。馬を飛ばしてケレボルンは、森はまだ見えぬか、まだ見えぬかと前方を何度も眺め渡す。
新しい命。
アムロスが喪われ、ロリアンをエルフが多く去った後、生まれ変わりのように現れた、いとしい、もしや最後になるやもしれぬシンダールの命。
「……緑葉」
ぽつり、供の者にも聞こえぬようにつぶやく。
「緑葉。……森の若葉、我らがめぐし児」
その言葉の美しい響きを繰り返し、ケレボルンは馬を急がせる。そうせねば、新たな命が逃げてしまうとでも、いうように。


ふにゅ、と満足の吐息らしきものをもらして、金の髪のみどり児はゆりかごの中、むずむずと小さくみじろいだ。
それを飽くことなくケレボルンは眺め、ややあって、そっと手を伸ばしてやわらかなその頬に触れる。
丸い頬はふっくらと弾力があり、確かな生命力をケレボルンに伝えた。
とろん、と開いていた眼が、不意にぱちぱちとまたたく。魔法のような、緑の瞳。
「おや、起きたよ」
「そうか」
興味なさげに、スランドゥイルは椅子に頬杖を突いて腰掛け、手の中で銀の髪飾りをもてあそんでいる。孔雀石が無数に結びつけられ、柳のようにやんわりと尾を引いた、美しい髪飾りであった。
ケレボルンは肩をすくめて、みどり児に向き直ると、静かにそれを抱き上げた。すでに孫のいるエルフはさすがに年季が違う。眠い眠い、とぐずりかけるのを上手にあやされて、王子殿のご機嫌もなかなか満悦といったところだ。
首もしっかり据わり、ケレボルンの膝の上に座っていることができるようになったらしい。まだひとりで歩くにはいたらぬようだ。
「何か喋るようにはなったかね?」
服の飾り房を叩いて遊んでいるレゴラスを、鷹揚に放置してケレボルンは問う。スランドゥイルは黙って首を振った。
ケレボルンの眉の辺りに、慰めるような色が漂う。
「心配は、」
「しておらぬ。……何千年、待って作った子と思うておるか。いまさら、焦りなどはせぬよ」
たしかに、スランドゥイルとこの坊やの年の差は、エルフの中でも滅多にありえないものである。このみどり児は、どんな宿命を背負って、斯様な黄昏の時に生まれたのだろう。そう思いながら、ケレボルンは優しく腕の中の王子の頬を撫でた。
気を取り直したように、顔を上げてスランドゥイルを見る。
「そろそろ、『父上(Adar)』と呼んで欲しいものだね」
次の瞬間、がしゃ、という物音と共に、宝石箱の上に髪飾りが落ちた。
「……スランドゥイル?」
スランドゥイルは、特に表情を変えるでもなく、悠然と宝石箱から髪飾りを取り上げ、適当にその中にしまい直す。
そして、ケレボルンの凝視に、ぎろりと睨み返して尋ねた。
「何か我の顔についておるか」
「……いや……」
おかしな父上だね、とみどり児に囁けば、ふと父の姿を探したレゴラスは、その姿を見つけたか、あー、と父を発見して喜び勇んでお尻を揺らした。
そして叫ぶ。
「ちゃー!」
「……チャ?」
「ちゃー、ちゃー!」
片手で目を覆ったスランドゥイルと、みどり児を見比べたケレボルンは、やがて、この上なく穏和な、ある意味なまぬるいとも言える笑みを浮かべて、王子を抱き上げてスランドゥイルに押しつけた。
「呼んでおるぞ。『チュランドゥイル』殿」


何も、スランドゥイルなどという難しい名前を覚えさせずとも、「アダァ」あるいは「ダァ」という言葉さえ覚えさせれば良かったのだと、やっと父王が認識しても、時すでに遅く。
レゴラスが父を「アダァル」と呼ぶようになったのは、それが「父上」という意味なのだと理解してからの、利発な愛らしい幼児姿のことであった。
それまで、国民に「なぜああ呼ばれておられるのだろう?」と首を傾げられながら、スランドゥイルは我が子に「ちゃー、ちゃー」と慕われつづけたと、いうことである。