「では、留守は任せる」
「あの、王よ……」
「何だ」
「……そのう……その、格好で参られるのですか?」
「いかんか」
「……」
並み居るシンダールの側近たちは、黙って顔を見合わせた。
彼らの王スランドゥイルはすらりとたたずみ、至極真面目な顔で側近の顔をひとりひとり眺めている。
襟元を、鈴蘭をあしらった銀と真珠とエメラルドのブローチ――真珠はシンゴル王の側近として在った頃の思い出であった――で留め、銀の光沢の混じる茶のマントの下は堂々たる旅装の、王は、それだけを見ればまことに凛々しいエルフの王であった。
だが。
「……その、レゴラス王子のことなのですが……」
おそるおそる側近のひとりが問う。
スランドゥイルは黙って片眉を上げた。
さらに別の側近が傍らから口を出す。
「……脇に抱えたままでは、何かとご不便なのではと」
「ふむ?」
スランドゥイルは己の左脇を眺めた。
人間で言うなら10歳にもみたぬ子供と見える、愛らしいエルフの子供が腹のあたりで抱えられてぶらぶらと脚を揺らしている。
しばらくスランドゥイルは黙っていたが、やがて、小さく肩を竦めた。
「つい手に馴染んでおったので忘れていたぞ。まぁ良い、ついでだ。持っていこう。レゴラス、短剣は持ったか」
「もってますー!」
元気の良いお返事がかえってくる。「そうか」と無感動に頷いて、スランドゥイルはレゴラスを、左小脇に抱えたまま歩きはじめた。
スランドゥイルの視界の端で、ちらちらと白金の髪が揺れる。
「ちちうえ」
「何だ」
「どこへいくのですか?」
「裂け谷というお綺麗な土地だ」
「おきれいなのですか?」
「色々な意味でな。我のような者には気がつまる地よ。ロリアンほどではないにせよ」
馬がいつのまにか寄り添って来て、スランドゥイルの隣を歩いている。
スランドゥイルは無造作に左手を振った。
「わあっ」
ぼん、と放り投げられて小さなレゴラスが馬の上に落ちる。
もがきながらも、息子が馬の背にきちんとまたがったのを確認してから、スランドゥイルもまたひらりと馬に飛び乗った。
「行くぞ」
「はい!」
こうして、伴の者ひとりなき、父王と王子の二人旅は唐突にはじまったのである。
スランドゥイルは、闇の森と呼ばれるようになってしまった己の森に、できるだけ多くの勇士を残した。伴の者などつけては、かえって目立つ。エルフの気楽な親子連れとでも見られれば良い。
指輪の力で裂け谷を護るエルロンドは、遠く闇の森まで出歩くことがかなわない。スランドゥイルは渋々ながら、己も滅多に空けることのない闇の森を、空けて裂け谷へと赴かざるを得なかった。
「馬鹿にした話よ。かの半エルフが館に居座ったまま、我が闇の森からはるばる出向かねばならぬとはな」
レゴラスに聞かせているようにも、ひとりつぶやいているようにも聞こえる口調でスランドゥイルは言う。
「でもちちうえはあんまりくやしくなさそうです」
不思議そうにレゴラスが、馬上で振り返って背の父王を見上げた。
「悔しいなどと、思うがまさしく悔しきことよ」
子供にわかるはずもない、そんな謎かけで答えたスランドゥイルは、ふと、馬のたてがみに手を置いた。
それだけで馬はぴたりとその場にとどまる。
「……さていかがするか?」
「ちちうえー?」
じっと見下ろされてレゴラスは首を傾げた。
「馬上での戦いは、武器を持たぬ側よりの攻撃が不利だ。今の我は盾を持たぬ」
レゴラスに構わず、淡々とスランドゥイルは言葉を継ぐ。
よくわからぬままに「ふりなのですね」とレゴラスは頷いた。
その動きやすげなスーツのベルトをむんずと掴み、スランドゥイルは持ち上げながら命じる。
「剣を抜いて上段突きの形に構えよ」
「はい」
レゴラスは父の言に逆らわない。聞き返しもしない。大抵、「なぜですか?」と聞いている内にとんでもない事態に放り込まれるのがオチだからだ。
3年ほど前など、「眼を閉じてしばし息を止めておれ」と命ぜられて「どうして」と聞き返そうとした時にはすでに、自分の身体は荷物のように放り出され、黒い水の流れるあの川にどぼん、と落とされていたのだった。
つまりレゴラスは、父の言をいちいち聞き返しなどしていたら、自分は確実にマンドス行きなのだということを、身にしみて教わっていたのである。
「そのまま決して構えをゆるがせるな」
「はい」
ふわりと身体が浮いた、と思った瞬間、
「これでもくらえ!」
心なしか愉快そうな父王の気合が響き渡り、レゴラスは宙を飛び、現れた一匹のオークの顔面へと力任せに激突していた。
父の力と剣の鋭さは、狙い過たず、オークの眉間を貫いた。
「ちちうえ、ちちうえ!」
「後は逃げ回っておれ」
レゴラスがオークごともんどりうって倒れても、振り返りもせぬ父王は、すでに二匹のオークを馬上から斬り捨てている。
「ちちうえぇー!」
逃げ回っておれ、と言われても、目を剥いて絶命しているオークの顔を大写しで見てしまったレゴラスは、その場にへたりこみ、恐慌状態に陥って金切り声で父を呼ぶことしかできない。
他のオークの手が伸びる。
瞬間、父王の叱咤が飛んだ。
「立て!」
シンダールの声が放つ檄だ。骨の髄まで父の荒療治を叩き込まれたレゴラスが、とっさに「はいっ」とその場に跳び上がる。
「走れ!」
「はいっ!」
伸びるオークの手から、レゴラスは自分でも意識せぬほどの驚くべき素早さで飛びすさり、血にぬめる手で短剣を再び構えた。
背後から影。
振り返る間もなく、前に出た父が残りのオークを片っ端から斬り捨てる。
そして、剣が取り上げられて荒っぽくレゴラスの服で拭われ、鞘へと叩き込まれた。
スランドゥイルはそうして己の剣はそのままに、片手でレゴラスのベルトを再び掴んで馬上に放り投げる。
そして己も馬に飛び乗りざま、一声うたうように馬に呼びかけた。
馬は奮起してその場を駆け出す。
「レゴラス」
「はい」
茫然と、だが反射的に返事をしたレゴラスは返り血塗れだった。
「これが現実よ」
「げんじつ」
「嘆いたとて怯えたとてはじまらん。図太くやるしかあるまい」
「よく、わかりませぬ」
「……つまり、」
珍しく、父王はレゴラスの為に言葉を噛み砕く様子を見せた。
「泣いても喚いてもオークは襲ってくるのだ。
なら泣き喚く前にとっとと返り討ちにして、残りの時間を有意義に使った方が良かろう。
世の中とはなべてそんなものよ。何が起ころうと、そんなものか、と思っておればさほど苦にもならぬ。
……そうでなければ、我が森の民が、あの戦であれだけ死んだ時点で。我らはみな絶望に後を追っておろうよ」
「……はい」
やっぱりよくわからない、と思いながらも、レゴラスは父の言葉を胸にしまった。
血まみれの剣を手にさげたまま、血まみれの息子を前に乗せて馬を悠然と走らせてくる闇の森の王に、出迎えに出た双子は絶句した。
「スッ、スランドゥイル様、それは、それは一体――」
「説明するも煩わしいことよ。どうせそなたらの父の前でもう一度説明してやらねばならん。さっさと向かうぞ」
「ちちうえ、このひとはだれですか? どうして同じ顔をしているのですか?」
「エルラダンとエルロヒアだ。どちらがどちらかは知らぬ。なぜ同じ顔をしているのかと問われれば、それは、彼らの父親が、違う顔で作るのが面倒くさくて二人とも同じ顔で作ってしまったのだ」
「めんどうくさかったのですか!」
「そなたがそんなに造型に恵まれたのは、父が気合いを入れて作ったからだ。父に感謝せよ」
「はいっ、ちちうえにかんしゃします! ……おふたかたはおかわいそう」
あわれみの眼で返り血塗れの子供に見つめられ、エルラダンとエルロヒアは天を仰いで慨嘆した。なるほど、世の中には「説明するも煩わしいこと」があるものだと、彼らは悟ったのであった。
「スランドゥイル殿、それは、」
裂け谷の館の前まで、王号を持つものへの敬意として迎えに出ていたエルロンドは、スランドゥイル王の小脇に当たり前のように抱えられたレゴラスに、絶句まではせぬものの、眉を寄せた。
背後の侍従に湯殿と手当の用意を申しつけている間に、双子に剣を預けたスランドゥイルは、ふむ、と考え込みレゴラスを見下ろす。
「レゴラス、裂け谷のご領主殿が、何があったのかとお尋ねだ。再現してやろう。剣を構えよ」
「はいっ」
幼いレゴラスに否やはない。え、とエルロンドが振り返った瞬間、スランドゥイルがエルロンドに向けて大きくレゴラスを振りかぶる。
「これでもくらえ、エルロンドよ!」
「なっ――」
矢のような勢いで飛んで来た、短剣つきレゴラスを、エルロンドは必死の思いで刃を避けながら抱きしめた。
「な、……な、何をするスランドゥイル殿!」
こんな時でも敬称を忘れない律義な半エルフをつくづくと眺め、それから溜息をついてスランドゥイルは息子を呼ぶ。
「レゴラス、裂け谷のご領主殿を仕留めるにはまだ、我ら親子は精進が足りぬようだ」
「ええと、その、わたしもがんばります」
仕留めていいのかな? と一応悩みながらも、レゴラスはエルロンドとスランドゥイルを交互に見上げてそう言った。
「がんばらずとも良い――レゴラス?」
「はい」
さりげなく短剣を取り上げながら、名を呼んでみたエルロンドに、レゴラスは返り血の飛沫がべったりとついた顔を上げ、素直に返事をする。
エルロンドは眉を寄せて、レゴラスを抱き上げて立ち上がるとスランドゥイルを正面から見つめた。
「オークが?」
「息子は一匹仕留めたぞ。見事な突きであった」
さらりと言ったスランドゥイルに、エルロンドの眉と眉の間の皺は深くなる。
「スランドゥイル殿。斯様な幼子にさせることではあるまい」
「裂け谷では、オークは幼子を避けて通るのかね?」
「親が子を護ればすむことではないか」
「夫は妻を護らなんだか?」
黙って聞いていた双子がそれぞれ、剣の柄に手をかける。
「ちちうえぇ?」
絶妙のタイミングでレゴラスが不思議そうに、スランドゥイルを呼んだ。
スランドゥイルの口元にわずかな笑みが浮かび、双子たちに向けて軽い一礼を持って謝意を示した。
「双子の若君らよ、残念ながら、闇の森の親はそなたらの親ほど立派な力を持っておらんのでな。その分、子が早い内からしっかりしてもらわねば困るということさ」
大きな緑の瞳を見張って大人たちを交互に見るレゴラスに、エルロンドは視線を落とす。
双子たちは一瞬視線を見交わせ、そして黙して語らぬ父の背を見た。ややあって、剣の柄から手を放して礼を返す。
「レゴラスよ」
「はい」
「明日からそなた、その双子の若君らのオーク狩りについてゆけ」
「はい」
「ちょっ、ちょっと待ってください、スランドゥイル様――」
「ああ、死んでも文句は言わぬよ、普通に扱えば良い。今日のことで少しは度胸もついたであろう。エルロンド殿、本題に入ろう」
「いってらっしゃいませ、ちちうえ!」
「おう。そなたは湯に入っておれ。それ以上そのままでおると臭いが移るぞ」
エルロンドの手許に手を伸ばし、スランドゥイルはいともたやすくレゴラスを引っこ抜くと、地面に降ろした。
これは何を言っても無駄だ、と悟ったエルロンドが溜息をついて、スランドゥイルを誘って執務室へと去っていく。
取り残された双子は、よいしょ、と立ち上がった血まみれのレゴラスを見下ろし、そして、同じように溜息をついたのだった。
「大変だねぇ、レゴラス、あんな父君だと」
くしゃくしゃと髪を拭いてもらいながら、レゴラスはぱちぱちと不思議げにまばたきを繰り返す。長いまつげがきらきらと白金に光をはじいた。
「ちちうえはたいへんなのですか?」
湯上がりでレゴラスはご機嫌であった。双子の苦労など知りはしない。
「だって、わたしたちでさえ、こんな小さな頃からオーク狩りはしなかったからなぁ」
「でも、森のけものはみな、ちいさい頃から狩りのれんしゅうをしています。それに狩りのしかたを知らないと死んでしまうのです」
大きく目を見張って、お兄さんたちに講釈するレゴラスを、まぁそれはそうだけど、と双子は顔を見合わせる。
「それにちちうえは投げかたがとてもおじょうずだし、いつもわたしをかかえて持ってあるいてくださるので、わたしは死なないでいるんですよぅ?」
「……そもそも投げるなって思わない?」
「でも、なげないとちちうえは片手がふさがってしまいます」
あどけなくレゴラスは首を傾げ、とんとん、と耳の中の水を抜いた。
「わたしの森は、いつもたたかって森をきれいにしていないと、すぐにみな死んでしまうそうなので」
双子はレゴラスの頭の上で再び顔を見合わせた。最小限の唇の動きだけで意思を伝え合う。
(ちょっとシャレにならんな)
(ああ。どうやらドル・グルドゥアは勢力を広めているらしい)
語り合いながらも、双子の手はてきぱきと動いてレゴラスの髪をとかし、新しい服を着せてやる。
「こういうおようふくは始めてです」
はしゃぐレゴラスの頭を撫で、「夕ご飯になったら、父君とわたしたちの父にもまた逢えるからね」と顔を覗き込む。
レゴラスは「ああ!」と嬉しそうに破顔した。
「やっとわかりました。あのエルロンドというお方が、お二方をつくっためんどうくさがりのお人なのですね!」
「……父上、すいません」
小さくつぶやいてから双子は投げやりに、「そうだよ、あの人面倒くさがりなんだ」と言ってレゴラスの左右の手を握り、歩き出した。
灰の一対の瞳と蒼の一対の瞳が、地図の上をさまよっている。指が一点を指し、するりと動き、低い声で言葉が交わされた。
「……確実に、闇の領域が広がっておりますな」
「左様……我が森の力を総動員しても、この線までが限界であろう」
どちらかというと虚栄心の強いスランドゥイルの、あまりも率直なその言葉は、現状がいかに厳しいものかを物語っていた。
「例の指輪は?」
「いまだ見つけられた気配はない。見つかっておれば我が森は、とうの昔に滅んでおろうよ」
「ふむ……」
エルロンドが常のように眉を寄せて皺を作っているのを、片眉を上げて見守っていたスランドゥイルは、不意に窓の外に視線を向けた。
「相変わらずお綺麗な空気だ」
「かの君の残されたお力のおかげですが」
ギル=ガラドの風の指輪のことを直接には言わず、エルロンドはそういう言い方をやんわりとして共に窓の外を見た。
「そんな力など、本当はいらんのだよ」
スランドゥイルの頬のあたりに硬さがある。
「ただ在るがままに在れば、死ぬか生きるかは何ぞ別の者が決めるのだ。滅べと言われれば、足掻きつつ滅べば良い。生きろと言われれば、笑い騒げば良い」
それを貫いた闇の森の民が、その代償に、実に全戦力の3分の2を喪った――死なせたという事実が、スランドゥイルの頬のあたりに浮かんだ硬さのゆえであったろうか。
だがすぐにその硬さは消え、
「……と、言うても、光り物を、幾多のエルフの宝の代わりとするかのように、あほうのように求める我が言うたとて、詮なきことか」
何事もなかったかのように、王は地図に視線を戻した。
「いえ……森の民だけがもつことを許される、強きお言葉かと」
「それでも子は護れと?」
「当然です」
「あれで萎れるガキが、この第三紀を生き抜けるものか。……どうせいつかは、最後の同盟に等しき大いくさをせねばならぬ」
お互い多くの者を喪ったいくさであった。ふたりの古きエルフはひととき、それに思いを馳せた様子で沈黙する。
「……裂け谷でお預りしてもよろしいが?」
この地に留め置けば、少なくとも、死ぬ確率だけはぐんと減る。
それを鼻で笑って、スランドゥイルは肩をすくめた。
「森で育たぬエルフが森に帰ってきたとて、役にはたたぬよ。
心配は要らぬ……レゴラスは第三紀の、新しきエルフ。緑葉の名は瞳の色ではない。あれには森の、命の強さが満ちておるのだ」
すぐにスランドゥイルは、からかうような光を浮かべて自分を見やったエルロンドから視線を外し、ややいまいましげな表情を目の端に浮かべて沈黙した。我ながら、らしくないことを言ってしまったと、思ったのに違いなかった。
「父上、おゆうはんのしたくができたそうです!」
転がるように飛び込んできたレゴラスに、冷静に一言「ノックをいたせ」と言い渡してから、スランドゥイルはエルロンドに、顎で戸口を指した。行かぬか、と誘ったのであろうが、この館の主はわたしではなかったか、とエルロンドはややしぶい顔で考えた。
するとレゴラスが、父王の左腕に抱えられながら不思議そうにエルロンドを覗き込む。
「……どうした、レゴラス?」
やさしく尋ねてみると、レゴラスはさも驚いた、といった様子で指摘した。
「こわいかおをしてらっしゃいます、ひたいにしわが寄っています!」
「ああ、それはな、レゴラス」
エルロンドが答えるより早く、スランドゥイルがちらりとエルロンドを振り返って人の悪い微笑を浮かべる。
「この御領主殿は、苦虫という、それはそれは不味い虫を食うおかしな癖を持っておってな。常にそれを噛み潰しておるからあんな不味そうな顔をしておる」
「にがむし?」
「口が曲がるほど不味い虫だ」
「スランドゥイル殿……」
疲労しきった声のエルロンドを、まさしく「変な人でも見るような眼で」眺めるレゴラスの、脚が父の脇でぶらぶらと揺れる。
「そんな虫は、たべないほうがよいと思います」
「……いや、食っておらぬから……」
弱々しく反論したエルロンドは、仕方なく、努力して少し、にこり、とレゴラスに微笑みかけてやった。
ク、とおかしげにスランドゥイルの喉が鳴る。
「そんな顔もできるのではないか。例の大戦からこちら、我らの一族を見るたび眉間に皺を寄せおったが」
「……それは、」
あなたが、ずっと裂け谷を、ロスロリアンを、三つの指輪を、そしてノルドールという種族そのものを。敵意の瞳でみていたからではありませんか。
そう言い返そうとしてエルロンドは沈黙した。この、大真面目に与太を飛ばして遊んでいるようにしか思えぬ森の王は、彼なりに、この新しいエルフの命の誕生を契機に、過去の何かを捨てて一歩を踏み出そうとしているのかもしれない。
「ちちうえ、しわがなくなりました!」
「騙されるな息子よ、それは、御領主殿が、そなたの見ておらん内に顔にこてを押し当てて伸ばしておるのだ」
「いやぁー!」
「スランドゥイル殿ッ!」
……やっぱり、息子とエルロンドを使って遊ぶ方が、面白いと言うことに気づいただけなのかもしれなかったが。
ところで指輪戦争当時、レゴラスはロスロリアンを訪れたのがはじめてだ、と言っているが、それは妥当な表現ではない。
レゴラスは裂け谷のエルロンド卿のもとを、父王とはじめて訪れた後、ロスロリアンの森の入り口までは、双子に連れられて訪れているのである。
だが、ここがロスロリアンの森だよ、と双子が一歩森に踏み込んだ時、このあどけないエルフの幼子はこう言ったのである。
「ああ、ぞんじております、がらどりえるさまは光かがやくおくがたさまで、とてもまぶしいお方なんですよね! ちちうえが、そうやって白く光って『しゃ』をかけないとそろそろごまかせんとしなんだ、とおっしゃってました!」
双子はレゴラスをひっかかえて一目散にその場を逃げ出し、今後1000年間は、決して闇の森の者はロスロリアンの地に足を踏み入れぬようにと、厳重に森の王へ申し入れたそうである。
だが、この逸話がエルフの歴史書にすら残されておらぬその理由は、他の当事者は黙して語らず、いまだ幼かった緑葉は幸運にも覚えておらず、当の森の王は、
「古馴染みのケレボルン殿が気の毒でな」と笑って、それきり、この話題は外に出してはならぬ、と悠然と他人顔をしたことが原因ではないかと、伝説はほそぼそと伝えているのみである。