エルロンドは、闇の森の王子に敬意を表して館の入り口へと赴いていた。斜め後ろに、ぴったりとグロールフィンデルが控えて離れない。室内で振り回すには最適な、使い勝手の良い小剣が二振り、その背中に負われていた。
「さほど警戒するには及ばぬが……」
遠慮がちに言ってみるが、グロールフィンデルはきっぱりと、「いくら警戒しても、しすぎるということはありません」とエルロンドの顔をまっすぐに見る。
ノルドール勢と裂け谷に隔意を抱いているという、闇の森から使者が来る。それも一国の王子がだ。かの森はドル=グルドゥアに近く、どのような邪悪を植えつけられているか知れたものではない、とグロールフィンデルは主張する。
かの隠されし都ゴンドリンの轍を、二度と踏むまいとグロールフィンデルは徹底的に、エルロンドの身を護るつもりなのだ。無理もない。あの輝かしき都とその王を、彼がいかに愛していたかは、エルロンドもよく知っている。
「第一、その緑葉なる王子は500年以上もの間、スランドゥイル王が森の表にも出さなかった秘蔵っ子だと言うではありませんか。武勇に秀で、気性荒く、あの夜目利く射手たちの中でも、1000にも満たぬ若さですでに、ベレグの再来とちやほやされていると聞きます」
「……裂け谷と闇の森は不仲だ。悪き噂ばかり伝わっても仕方あるまい」
「噂だということは重々承知ですよ。だからと言って警戒せずとも良いはずがありません」
正論である。エルロンドは黙り込んだ。
ダゴルラド以来、闇の森と裂け谷は疎遠になったと言われているが、実際はそういうわけではない、とエルロンドは思っている。もともと、良いつきあいなどできてはいなかった。スランドゥイルの父オロフェアは、ノルドールがドリアスに為した業火と苦痛の所業を、決して忘れてはいなかったし、エルロンドの庇護者ギル=ガラドは、森の奥に引っ込んだきり、消極的な、森の中の平和だけを望むシルヴァン・エルフとその君主を、決して良く思ってはいなかった。
それでも、スランドゥイル個人と、エルロンド個人は、うまくやってきていたと思う。ダゴルラドの会戦の直前、「これが今生の別れになるかもしれんのでな」などと軽口を叩きながら、かの森の王――当時は王子だったが――は、身軽に馬を飛ばしてきさえしてくれたのだ。
皮肉なことに、その「寄り道」が、森エルフたちの、恐怖に負けた特攻の第一波から彼を救った。突如はじまった戦闘に、スランドゥイルがエルロンドの元から馬を飛ばして駆け戻ればすでに、そこには累々たる屍が積み重なって死者の沼地を埋め立て、そして、
……彼の父は虫の息であった。
援軍を送ることはかなわなかった。ノルドを主力とする本隊にその余裕がなかったことは事実だが、おそらく、勝手に戦端を開いた生意気なシルヴァン・エルフたちを、積極的に護る気が起きなかったのもまた、事実なのではあるまいか。
軍律を乱せば死がはね返る。正論だ。……そしてどの種族にとっても、正論と言うものは常に、残酷に人の胸を抉るのだった。
以来、スランドゥイルは心に行き場のない憤怒を抱えたまま、森の奥深く、彼の民を護って生き続けている。
立ち向かって戦え、と言うのはたやすい。実際、中つ国を己が血で護っているノルドールの同胞の行いを、中傷することなどは許さない。だが同時に、ただひたすらに、森に同化して深く潜み、生きてきたシルヴァン・エルフを、嘲ることとて許されまいと、数多くの敗戦と離別を見つめてきたエルロンドは思うのだ。
――なぜあの男の森の元に、ドル=グルドゥアは建てられてしまったのか。
因縁深きノルドールたちの元ではなく、気楽にゆるやかに、毎日を音楽と酒と踊りで笑い騒ぐあの森の民の南に、なぜサウロンは住み着いたのだ。
指輪も、力強きノルドの戦士も持たぬかの森が、それがゆえに、闇と隣合わせに過ごすことになった――それを哀れと思えばこそ、スランドゥイルのいや増す苦悩も理解でき、腹を立てる気にもならないが。
――あの誇り高い男は、そんなわたしの想いにもきっと、憤るのであろう。
エルロンドが疲れたように瞳を閉じた時、「参られました」と斜め後ろからグロールフィンデルが囁いた。
聞き耳を立てれば塀の向こう、たのしげに笑いさざめくいくたりかの声。
「双若君が、境まで迎えに出られましたので」
エルロンドが疑問の言葉を発する前に、グロールフィンデルがそう捕捉する。
だがそのグロールフィンデルも、少し意外の感を声音から隠せずにいるようだった。
無理もない。笑いさざめく声のうちの二つは紛れもなく、エルロンドの双子のものである。
「ぱっ、と前脚を上げさせてから一気に突っ込むのさ。優雅に円を描いて動いたりしちゃ意味がないんだよ」
「そうとも。いいかい、オークなんていうのは馬鹿だからね、君が体をかわして避けただけでももう、怯えて逃げたのだと思うんだ。だから、多勢に無勢だと思ったら、まず敵のど真ん中に馬を突っ込ませてしまうんだよ」
どうやら彼らは年下の王子に、オーク狩りのこつを教えているらしい。それに応えるシンダールらしい、若々しく美しい声が、はっとエルロンドに息を呑ませた。
「けれども、馬が脚を斬られるかもしれないもの、わたしはそんなのはいやだよ!」
すっかり「お兄さんたち」になついた様子の、甘いテノール。
一瞬、なぜか、胸を締めつけられるような苦しさを覚えて眉を寄せる。
なぜこんな明るい声の持ち主がそこにいる?
「ほら、ついたよ、ここがわたしたちの、そして父上の住まいだ。――父上!」
現れる、見慣れた黒髪、闊達な微笑、その、後ろから音もなく、踊るように駆けてくる――


「お初にお目にかかります、エルロンド様!」
弾む金髪、踊る緑の陽光、歌つむぐ唇が笑みの形に広がる、
これが――


これがあの男の子供なのか!?


そこに在ったのは、まるで太陽の光を燦燦と浴びて育ったかの如き、いと健やかな一本の緑の若木なのだった。


斜め後ろでグロールフィンデルが、深い歎息をひとつつく。
そして、とん、と軽くエルロンドの背を控えめに突ついた。
どうぞ、お好きなようにお話してください、とでもいったように。
「……なるほど森の緑葉そのものだ」
我に返ったエルロンドは、かろうじて、そうおだやかに声を紡ぐことができた。
「ああ、申し訳ありません、お会いできたのがうれしくって、名乗るのも遅れてしまいました」
若き森の子は、急に一分の隙もない礼儀作法を以って、「スランドゥイルの子レゴラスと申します」とクゥエンヤで挨拶をした。
さらりとノルドの言葉を使う、天性の外交上手に思わず口をほころばせ、お返しにとシンダリンで己の名を名乗る。
そして、確信を持って問いかけた。
「お父上は、どうやら、自慢の息子をわたしに披露したかったと見えるね」
「どうでしょう、わたしがあまり森の外に出てみたいとせがむから、追い出したくなったのかもしれません」
懸命に、失礼にならぬように気を遣いながらも、レゴラスは見慣れぬ館に――正確にはその周囲の木々にふらふら、ひらひらと視線を飛ばしている。
「後で誰かに案内させよう」
そう言ってやると、ばつ悪そうに肩をすくめて笑った。
この瑞々しい常磐緑の若葉を、スランドゥイルがエルロンドの元に遣わした。頭のどこかで、それが何らかの意味を持っているような気がするのだが、エルロンドらしくもなく、気持ちがはっきりと開けてこない。
エルロンドが考えに沈みはじめたのに気づいたのだろう。グロールフィンデルが、レゴラスがエルロンドの無口に気を病まぬようにと、代わりに彼に呼びかける。
「外ははじめてなのかな? 緊張したりはしませんでしたか?」
「あなたはグロールフィンデル卿ですか?」
「ああ、申し遅れたね、そうですよ」
グロールフィンデルにとってはひ孫のような歳のエルフだ。自然、子供に語りかけるような口調になってしまうのだろう。だが、レゴラスは意に介せず、目を輝かせてグロールフィンデルを見つめている。伝説のエルフに会えたのが嬉しいらしい。
グロールフィンデルも調子が狂うらしく、実はあんまり人の言うことを聞いていないのではないかと思われるこの若いエルフを、黙って見返していた。
「お二方とも、父が申しておりましたのよりずっと、実物の方が素敵だ。わたしはお二方に逢えるのが楽しみで楽しみで、緊張したりはしませんでした。昨日も、あんまり楽しみだったので、思わずいつもより5匹も多くゴブリンを狩ってしまったもの!」
あっさりと言ったその言葉に、なるほど双子と仲良くする素養はある、と深く頷きながらも、エルロンドはレゴラスの言葉の前半が気にかかった。
「お父上は、わたしのことは何と?」
するとレゴラスは、ひとしきり、鳴き交わす小鳥や落ちかかる木の葉に挨拶の素振りをしてからエルロンドを振り返り、屈託なく笑って言う。
「嫌いだと」
さすがのグロールフィンデルも少しのけぞった。エルロンドが黙って息をつめる。
「レゴラス、」
「でもね、1000年前まではそう嫌いでもなかったのだから、また、嫌いでなくなる日も来るだろう、と申しておりました。父は、しおれぬ花がないように、終わらぬ愛もなく、枯れぬ樹がないように、終わらぬ憎しみもないのだと申します」
「……君は、お父上は好き?」
エルロンドの背にそっと、控えめに手を当てて支えながら、グロールフィンデルがやさしく問う。
「嫌いですよ、わたしの隠しておいた葡萄酒を全部呑んでしまったのだもの!」
手を挙げると、弓を引き慣れているのであろう細く、力強い手に一羽のひばりが舞い下りて、たのしげにさえずった。
「でもエルロンド卿とグロールフィンデル卿のことは好きです。おやさしそうだし、わたしを甘やかしてくれそうなお顔をしているのだもの。
 それに父が、自分はノルドールは全面的に嫌いだが、わたしも一緒に嫌いになる必要はない、と言ってくれたのです」
グロールフィンデルの手のぬくもりに支えられながら、エルロンドは黙ってレゴラスが、ひばりとともにさえずるその言葉を聞く。
あの男が北の森へとこもってのち。
南への呪いの言葉を吐きながら、育てたならば。
西への怒りの言葉を吐きながら、育てたならば。
こんな伸びやかな、こんな晴れやかな緑の若葉は、育つはずがなかったのだ。
憤りを胸に抱き、恐怖と戦い、嘆きを呑み込み、あの男は、常磐緑に輝くこの宝玉と向き合い、……そして、こうもまっすぐに育てることができたのだ。
――世を疎んでおるばかりでも、なかったぞ。
そう言って、あの斜に構えた、唇の端をつりあげるような笑いを、浮かべたスランドゥイルの顔がふと脳裏を過ぎった。


「……そんな第一印象をエルロンド卿に押しつけていたなんて、全然知りませんでした」
エルフの石の色の瞳を丸く見開き、本気で驚いているレゴラスを見て、グロールフィンデルはやれやれと肩をすくめてみせた。
「警戒して出迎えてみれば、君のように春風駘蕩な、頭の中にまで春風が吹いていそうなめでたいエルフが来たものだから、わたしは随分と拍子抜けしたものだよ、坊や」
「それはいくらなんでもひどいですよ、わたしだって、苦労がなかったわけではないのだから」
口を尖らせるレゴラスが、座っている場所はグロールフィンデルの足下だ。なぜか、長椅子に腰掛けるグロールフィンデルの、更に足下の床に座り込み、目の前の膝に頭を持たせるようにして寄りかかっている。さもそれが当たり前のように、そこで本など広げているものだから、グロールフィンデルも、あるいは時折その被害に遭うエルロンドも、つい、「椅子に座ってはどうかね」などと言葉をかけるタイミングを逸するのだった。
口には出さないが、グロールフィンデルは、これは絶対、父親がこうして傍らに、無造作にレゴラスを置いて育てたせいではないかと思っている。父のように慕う相手には、こうするのが当たり前なのだと、レゴラスは思い込んでいるらしい。
あのいかめしい仏頂面の王の膝に背を預け、幼い頃のレゴラスが、ちょこんと足下に座り込んで時間を潰すさまを想像し、グロールフィンデルはつい笑ってしまう。
レゴラスはそれを別の意味にとったようだった。
「ああ、本気にしていないのですね? 本当に、幼い頃は苦労したのだから!」
「たとえばどんな苦労をしたのかな?」
白金の頭を見下ろして、適当に編み髪をひっぱってみる。エルロンドに比べて、文字どおり「黄泉還り」を果たしたグロールフィンデルは、体の若さが精神に影響するのか、レゴラスに対しても言動が若い。
いたいよう、とひとしきり抗議してから、レゴラスはふと、眉を寄せてグロールフィンデルの膝に頭を乗せた。
「緑葉くん?」
「昔、父の膝にずっと、黙ってこうしていたことがあります」
「ずっと?」
「一日かな、二日かな、よく覚えていないのですけど。
 ただ、父はずっとわたしの肩を、砕けそうな力で掴んでいた。わたしは父の膝に、ずっと、頭を乗せて静かにしていた。
 それだけ覚えているんです」


広い部屋の長椅子に、南を見据える王が腰掛け、じっと何かに耐えるように、ただ、幼い息子の肩を掴んで沈黙している。
足下に座る息子はじっと、その膝にやさしく寄りかかり、王が肩を放すまで、その唇に歌もなく、眠るように動かない。
あの広大な、昏く寒い北の森の、岩屋のもっとも奥深くで。そうして親子がふたり、耐えるだけで過ごした一日も、あったのだ。
その風景を、眼によらず見つめ、グロールフィンデルは、軽くレゴラスの頭をかきまわした。
「苦労したんだね」
「そうですとも」
明るいあどけない笑い。
「その割りに、能天気だね」
「そうですと――じゃ、なくて。どうしてそこに帰結するんです!?」
グロールフィンデルは、伸び上がるレゴラスの額に音をたててキスをすると、笑って彼を抱きしめて言った。


「いつまでも、能天気のままでいてほしいからですよ、緑葉くん」


灰燼と化す都の記憶も、
泥濘を這う敗戦の傷も、
数千年の憎悪の因縁も、
本当は、ない方が良いに決まっている。


苦しい、苦しい、とばたつく体を、やすやすと押え込んで窒息させながら。
このすこやかな、奇蹟のような緑の若木が、近く起こるであろう大乱においてなお、すこやかで在りつづけることを、彼は強く、強くエルに祈った。