「緑葉の王子」
「緑柱石の瞳」
「陽光の君」
「王の末の宝」
いくつもの形容で、彼を呼ぶエルフの歌声が森から森へと、人伝い――いやエルフ伝いに伝播してきた時、レゴラスは陽光を浴びる大樹の頂上近くでまどろんでいるところだった。
いくつもの、彼の名を呼び交わす妙なる声に誘われて瞳を開き、するりと枝の上に立ち上がる。
「誰かわたしを呼んだかい?」
枝の上からよく通る声をかけると、森のあちこちから一斉に声が返ってきた。
「「「「緑葉の王子よ、王が岩屋でお待ちです!」」」」
「父上が?」
肩に愛用の弓を引っかけたまま、ひらり、と枝から身を躍らせる。
まるで階段を駆け降りるように他愛なく、枝から枝へと飛び移ると闇の中へと踏み入った。
傍らにいくつもの気配。
「逃げやしないよ」
うっそうと茂る枝枝の狭間に、張り渡され結び合わされた細い丸太を、いともたやすく走り渡り、レゴラスは枝を揺らしもせず、枝の上を走り続ける。
「そんなことを言って、もう何年、王の顔を見ていないと思っておられるのです」
「そう、一度森をさまよえば10年戻ってこないことすらあるあなた様、」
「今日こそは王の元へきちんと帰っていただきますよ」
「信用がないね!」
声を立てて笑うと、遠く闇の中、びくり、と何かが震えて逃げる気配。走りながら、目にも留まらぬ速さで弓に矢をつがえた、と思えばすでに射放している。
「せっかくわたしが珍しく、おとなしく父上の顔を見に行こうとしているっていうのに! 疑われると行く気がなくなるよ」
もんどりうって落ちた大蜘蛛には目もくれず、レゴラスは周囲を遅れずついてくる気配に声をかけた。
「で、父上のご用は?」
「例のゴクリなる者の件だとか」
「ゴクリ? ……あの逃げたおかしな生物?」
立ち止まりかけるレゴラスに、慌てたように声は投げられる。
「裂け谷へのご用だとも」
レゴラスは完全に立ち止まった。その細い眉の辺りには、珍しくやや深刻げな色がたゆたっていた。
「レゴラス様?」
「……いや。うん、行こう」
とん、と枝を蹴って再び跳ぶ。
『レゴラス、緑葉のレゴラスよ』
脳裏に、聞き慣れた人の子の声が甦る。
『深くは言えぬが、くれぐれも気をつけてくれ、悪しき生物ではあるのだから』
ふむ、と枝を跳びながら顎を撫でる。
正直、お世辞にも気持ちの良い生物だとは言えなかったし、いっそ逃げてくれてせいせいしているほどではあるのだが、王に拝謁してのちのアラゴルンの、くどくどとレゴラスに頼み込んだあの態度は気になった。
何より、同胞が幾人も、そのゴクリのために殺されている。それでも、「厄介な生物押しつけやがって」と、文句をたれないのはエルフの気高い一面だった。ミスランディアとアラゴルン、かの名高きふたりに頼られたのであれば、せいいっぱいそれに応えるべきだと、エルフたちは考えたのである。
――裂け谷に謝罪と報告に行かされる、といったところか。
その役は確かに、ミスランディアともアラゴルンとも、そしてエルロンドとも親しいレゴラスには似合いの役目ではあった。


謁見の間に入りかけて、レゴラスは従者のひとりに袖を引かれた。
「こちらです」
王の私室のひとつを指され、おやおや、と眉を寄せる。
今更逃げるわけにも行かず、従者が扉を開くのを待って、部屋の中に足を踏み入れた。
魔法の灯りに照らされた瀟洒な室内に、ごく低い長椅子といくつものクッションがあった。王は長椅子の背にもたれて腰掛けていた。片手に大ぶりの金剛石をもてあそび、それを眺めてぼんやりと何かを考えて込んでいる。
その横顔をしばし眺め、レゴラスは「父上」と呼びかけた。
宝石から目を離さぬまま、父王は片手を伸ばし、無造作に椅子の下のクッションを指差した。
レゴラスは招かれるままに近寄り、父王の斜め前にあるクッションをかき集めて足を投げ出し、座る。長椅子に肘を突いて父を見上げた。
「これをどう思う」
「綺麗ですね」
「……そなたはいつもその一言ですませるな」
いかにも興味なさげな王子の返答をおかしんだのだろう。低く笑って、王は文机の宝石箱に、金剛石を放り込んだ。
この人は、とレゴラスは心にふとつぶやいた。この人は、おそらくは本当に宝石に執着しているわけではないのだろう、と。
酒を楽しみ、宝石を集め、時に戦の矢面に立ち。妻が旅立てしのちも、悠然とこの森に憩っている。遠くシンゴル王の下に在ったという、伝説の時代を知る遠い人。
レゴラスは、この、慈悲深くも見え、暴君にも見え、欲深くも見え、淡白にも見える底の見えない父親が、決して嫌いではなかった。
「そなた、裂け谷に行ってもらうぞ」
「やっぱり、謝りに行かないとまずいですか」
「まずかろうな」
他人事のように言ってふと、父王は手を伸ばし、床のクッションの上に座って顔を寄せている息子の顎に、手をかけてぐいと上げさせた。
「父上?」
「エルロンド卿とアラゴルンとやらと、ミスランディアと、誰に逢えるのが一番嬉しい」
物怖じせぬ息子は、父と母の良い所をすべて受け継いだような顔を傾げ、一瞬のちに笑って答えた。
「アラゴルンかな? 一番早く死ぬ人だから、たくさん逢っておきたいですね」
「なるほど」
親指の腹で唇を辿られ、「ン、」と小さな声が漏れる。
このエルフの王は、レゴラスに対して父親としての愛情を注ぐことはあまりない。彼は宝石を愛でるようにレゴラスを愛でる。そしてレゴラスは飄々としてそれを受け入れた。
「そなた、この森を出れば100年は戻って来ぬな」
「そんなに?」
気まぐれにこの、息子とよく似た唇が吐く言葉を、レゴラスは突拍子もなければないほど、信用するようにしている。この父王には上古の力が未だ宿っている。シンゴルの妻が、シンダールの一族に与えた力だ。
レゴラスと王の間には5000年以上の時の隔たりがある。神に愛でられし証である異能の力の差は、天と地ほどに大きい。
「そなたの顔に出ておるわ。癪に障る。裂け谷行きは取りやめて、地下の石牢に閉じ込めてしまおうか」
顔を近づけ目を細め、息子の表情を観察する父王はたのしげだった。
「父上がどうしてもとおっしゃるならば、一晩ぐらいは入っても良いけど」
肩をすくめて、親をからかうようにその頬にくちづける。
「二晩以上は死んでも御免ですよ! 時の長いエルフが言うのだから間違いはない」
「ならば、そなたの放浪が一年を越えたら兵を差し向けるとしよう」
「どこへ?」
「決まっておろう。裂け谷よ」
「は?」
「そなたがどこにおっても、裂け谷に兵を向けようぞ。裂け谷に迷惑をかけたくなければ、一年のうちに森に戻ってくるが良い」
「……卑怯な人だなぁ!」
「シンダールの血よ」
「そんな話は聞いたことがありませんよ!」
抗議しながらレゴラスは笑い出す。
父と子のようでいて、王と従者のようでいて、また、狩人と獲物のようでいて。
頼ったり、甘えたり、すがったり、そういうことは期待できぬ関係ではあるけれども。それはそれで構わない、とレゴラスは思う。おおよそ、エルフというものは個人主義で、親子の間は乾いているものだ。
レゴラスは、こうしてこの父と駆け引きを楽しむ反面、己がエルロンドに父親としての一面を深く求めていることには、気づいていなかった。
「いいですよ、そのおっしゃりようを覚えておくよう努力はします。覚えていれば、帰って来ますよ」
「それはあてにならん話よな」
ひょいと立ち上がった息子の手を、繊細な手からは信じられぬ膂力で掴んだままの父王は軽く膝を叩いて従者を呼ぶ。
部屋に入ってきた従者に、息子を顎で指し、
「飾れ。裂け谷に送っても恥ずかしくない程度にな」
「父上!」
「エルロンド卿に、息子をろくに扱っておらんと思われるのも癪な話よ」
「普段着でいいです! ええそりゃあもう! 孔雀の羽根さしたカササギみたいになるのがオチですよ!」
「下がって良いぞ」
「父上ったらー!」


晴れやかな使者のいでたちは、レゴラスにはよく似合っていた。居心地悪そうにマントをひっぱったり、髪飾りを揺らしてみたりしながら出て行ったレゴラスを、見送ってスランドゥイルは低く笑った。
「世界が動くか」
瞳を閉じ、闇の森の地に、空に、水にしみこみつつある闇の胎動を感じ取る。
「……闇が動き、光も動く。……我も動くか」
ゆっくりと瞳を開く寸前、王のその目蓋の裏に、遠い、遠い都の幻が浮かび上がる。
口元で笑って玉座から立ち上がり、傲然と顎を上げてスランドゥイルは音を立ててガウンの袖を払った。
「戦の支度をいたせ。……最後の戦いが、はじまるであろうぞ」
(そうだろう、エルロンド。はじまるのだろう。そして我が子はその中心に在るのだ)
遠く裂け谷に在る、さほど疎遠ともいえぬ友に向けて、王は咽喉の奥で語りかけた。


エルロンドの目蓋の裏に、矢の如く馬を駆けさせる若きエルフの王子の姿が浮かび上がる。
それは闇の森の一羽の隼が伝えた幻だ。
「やはり、レゴラスが来るか」
バルコニーに立ち、遠く滝の音を聞きながらエルロンドはつぶやいた。
「あなたの森のことは、あなたに任せたぞ、北の王よ」
レゴラスという妙なる人材が欠けたまま、ドル・グルドゥアとの戦端を開くことは、闇の森には痛手であろう。だがスランドゥイルは敢えてレゴラスを送ってきた。
たかが息子一人いなくとも、この森は充分に護れるという気概の表われか。
それとも、この、エルフの有終の美を飾る戦いの中心に、溺愛する我が子を置きたいという親馬鹿の表われか。
生き生きと馬を走らせる、エルロンドもよく知る、ひどく貴重な、瑞々しく若き、悲嘆の影薄き緑葉のエルフ。
「……わたしとあなたの決断は、緑葉を悲嘆に枯れさせるかもしれぬよ。スランドゥイル」
エルロンドは知っている。定命の子らと親しくつきあうエルフが、身に負わなければならぬ宿命を。
あの若くたおやかな心が打ちのめされる日を、今から思って胸を痛める己が、もうひとりの親馬鹿であることを、エルロンドはよく知っていた。


闇の森で、裂け谷で、ロスロリアンで。
戦いがはじまる。
エルフの時代に止めを刺す、エルフたち自身の戦いが。