うつくしい女を、見た。
だが彼は、それが、創造の御世から末期の一瞬を通して、世界でもっとも美しい存在を生んだ女だとは夢にも思わなかった。
喪に服すような黒に身を包み、荒々しく心身を乱す風に裾を長く長くなぶらせて、その女はたたずんでいた。
天には重く雲がたちこめ、地は鳴動し、西方に時折、不吉な稲光が閃いている。
河の流れは早く、川岸の女の足許には、時折、冷たい飛沫がうちかかる。だが、女は揺るがない。ただ、粛々とそこにたたずんでいた。その瞳に、何を映しているかは知る由もない。
男はゆるやかに続く土手を登り、だが、失礼にあたらぬよう、女と距離をとって朗々と呼びかけた。
「ご婦人よ、とく立ち退かれるが良い。じきオスシリアンドは怒りと焔に満ちるであろう。されどそれは災いを焼くための焔である」
黒に包まれた女は、薄いヴェールでその顔すらも覆っていた。男の言葉に、返答はない。
オスシリアンドの誇る七本の大河、南の境たるアドゥラント川は、この地で二筋に別れ、下流でまた一筋へと合流している。古来、この地に住む者たちは、この地を引き裂かれた恋人たちの枕詞として歌に歌ってきたものだ。ひとたび引き裂かれてなお、アドゥラントの流れがそうであるように、また、運命の奔流は二人をふたたび引き合わせるだろう――と。
だがそれは、この地に流れる川の形だけのことではない。二筋のアドゥラント、その狭間には緑に囲まれた美しい島がひっそりと横たわっている。その名をドル=フィアン=イ=グウィナール……
「生ける死者の国」。
女は黙って、黒の中に埋もれて川の向こうを眺めている。だがやがて、ゆっくりとその顔を男の方へ向けた。
「……そなたは、去られませぬのか」
夢のような声だ、と男は思った。不思議なことに、聞いたばかりのその声を思い返そうとしても、高い声なのか、低い声なのかさえ思い出すことができないのだった。
自然と礼をとり、男は一度、胸に手を当ててから答えた。
「私は、この地を護らねばならぬ。まだ女たちが逃げ切ってはおらぬのだ」
あなたも、そのうちの一人だ。そう言われて、女はゆるやかに首をかしげた。少し、身をまとう黒がやわらかくなったように、男には思えた。
「わらわのことは、心配いりませぬ。そなたの護るべき者たちを、護るがよい」
夢幻の声を持つ女は、そう言ってまた、遠く川の向こうを見つめた。男はふと、眼前の女がまるで、空の灰色に融けて消えてしまうのではないかという錯覚を覚えた。それほどまでに、女は希薄だった。まるで……
そう、まるで、悲歎のあまりに肉体を抜け出て、魂のもやと化したエルフのように。
「ご婦人っ……」
呼びかけて、男は土手を駆け上がり、剣もて一族を護るその手を伸ばし、まるで自ら死に行く者を引きとめようとするように、彼女を捕らえようとした。
だが、まるでそんな彼我の狭間を隔てるかのように、不意に起こった暴風が、信じられぬ素早さで川のおもてを叩いた。
跳ねかかる水を避けて顔を背けたその次の瞬間、伸ばした手は空を切る。
「な……っ」
呆然と、土手の上に立ち尽くすのは――……男ひとり。
先ほどまで物憂くそこにたたずんでいたモノクロームの女は、そのまとう黒のひとひらさえ、その場に残してはいなかった。
少し、眼差しがあの男に似ていたかもしれない。先ほどと同じ姿でたたずむ女は、ふと、男のことをそう思い返した。
――人の世に、美と喜びと希望を与え……わらわに、絶望を与えた者よ。
女は思い出す。はじめて、その若者をきざはしの上からまざまざと見つめた時のことを。
ほまれ高きバラヒアの嫡子、その眼に想像を絶する試練と使命と、そして愛に囚われた者特有の狂熱を浮かべていた青年の姿を。
もしや先ほどの男は、エダイン三家のうち、ベオルを始祖とする、かの一族とえにしがあったのやもしれぬ。それならば、似ているのも道理だ。それとも、何かを護ろうとする人の子は、皆、同じ眼をしているものなのだろうか。
――わらわの喜びを……奪った者よ。
沈鬱なる物思いにふける女を護るように――力づけるように、生い茂る緑が、さやと揺れる。
灰色の空の下でも色あせぬその緑をゆっくりと見渡し、女は、力失せてなお美しい声でそれらに呼びかけた。
「墓守たちよ。もうじきこの地を、ヴァラールの御威光が灼き尽くされよう。逃げるすべなきそなたらが、わらわは気の毒でならぬ」
ざわめく緑が、不意に森閑たる静寂を取り戻した。
「されどわらわの喜びのすべてが去って久しく、それは即ち、わらわの力のすべてが去って久しいということである」
一歩、一歩と女は進む。木の根は地に潜り、絡み合う枝はほどけ、奥津城を隠せし木々はそうして速やかに、女に道を譲った。
女の進む先に、蔦に覆われ木々の根の食い込んだ、朽ちかけた一軒の館があった。
その館の前に立ち、女はそれ以上進むことなく、じっとその場に立ち尽くす。
「……時は進む」
黒いヴェールの下で、女はそっと瞳を閉じた。
「わらわの喜びのすべてが去ろうと、変わらずに時は進み、朝が来れば日は昇る」
かつてこの館には、一対の男女がひっそりと、世を隠れるように住まっていた。与えられた試練と苦痛、それに耐えて打ち立てた輝かしい伝説に対して、あまりにも短い、安らぎと平和に満ちた二人の生活が、いかなるものであったか女は知らぬ。
ここに住まっていたのは、女の喜びの半ばを占めた娘であり、その娘が愛し娘を愛した男であった。
「草は伸び風は吹き、人の子は命を受け継ぎ、戦いが起こり平和が訪れる、されど」
己のヴェールを静かに上げる女の両手が、かすかに震えている。だが、それを認めたのは、周囲に傅き、女の宝の過ごした地を護りつづけてきた緑だけであった。
「されど……わらわの世界はもう、終わってしまった……」
ヴェールに隠れぬ女の、蒼ざめた美貌。
かつて全シンダールの敬慕を一心に受け、己の魂を変質させるほどに愛した夫の傍らに座していた頃の、慈愛に満ちた華やかさはもはやそこになく。
それは大理石の彫像のような、淋しく冷たく悲しい美貌であった。
夫は冷たい地の底で殺されてマンドスに。
娘は世界の終わりを超えても会うことのできぬ幽冥の果てに。
その息子は同族たるエルフに殺されてマンドスに。
その息子たちは生まれ育った森の奥に捨てられてマンドスに。
その妹は追われつづけて疲れ果てて西の果てに――
「わらわの喜び、わらわの希望。
たとえ世界が続こうと、尊き血がそのおかげで継がれていこうと、
……わらわの世界はもう、喪われて戻らない……」
すべての行いが、全知全能たるイルーヴァタールの掌にあり、すべての行いあるからこそ、歴史が織り成されていこうとも。
彼女から始まり世界の終わりまで続く彼女の血脈が、受けた悲歎と苦痛に、いかに意味があろうとも。
「あの子のいない歴史など、わらわは……わたくしは欲しくはなかったのよ……!」
天を見上げてそう叫ぶ女の瞳に、水晶の如く光を反射する雫が浮かんでそして散る。
どれほどの歌を織ったことだろう。
魔法をかけて、日々喜びに満ちてそれを紡いで、森のすべてを輝かせて、それもすべて、最愛の夫との間に生まれた唯一の宝のためだった。
星が輝きつづけるようにと、風がそよぎつづけるようにと、アルダと呼ばれるこの大地が、とこしえに美しくあるようにと、その祈りもすべて、すべてはたったひとりの娘の為。
彼女が護り、愛した世界は、「夫と娘のいる世界」だったのに。
それはもう、世界の果てまで探したとて見つかることはない。二度と。……もう二度と。
肉体を持つ存在の中でもっとも美しい女が、浮かべた涙。
その悲痛な祈りを聞きつけたのは、天に浮かぶ気まぐれな銀盤だった。
心優しい月の御者は、巡る風の従者たちに願い、ヴァラールが戦陣を組んでより厚く垂れ込めて引かぬ雲を、渾身の力をもってこじ開ける。
かつて「生ける死者の国」と呼ばれ、その者たちも真の眠りについてよりは静寂のみが支配するドル=フィアン=イ=グウィナールを、突如まばゆいばかりの銀光が照らし出した。
天を見上げる女に、降り注ぐ月光。それが、その涙を銀に輝かせる。
そして露を抱いた緑の木々もまた、無数の宝玉を散らしたようにきらきらとまたたいた。
その自然の与えた宝玉のすべてよりなお輝かしい、女の瞳が天を仰ぐ。
こじ開けられた雲のその果てに、去り行くイシルと、そして、天空の女王ヴァルダの愛でた星の宝冠が輝いていた。
いつかは海に還り、また海から旅立つすべての清き水の流れを、統べる王――ウルモがその強大な手を伸ばした時、女はただ、静かに岸辺に佇んでいた。
気がすんだか、と問いかければ、敬虔に一度膝をつき、また立ち上がる。
『では戻ろう』
中つ国にて苦しみ抗うすべての命を愛する、海の王は、女をそっと掌中に抱き取って西を目指した。
その形なき腕の中で、女は、遠ざかる風景を振り返る。
一筋の帯のように、島を照らす銀の月光。
もうじき引き裂かれて大海の下に没するであろう、彼女と、彼女の夫と、彼女の娘が生きた大地。
海の王の腕の中で、女は遠ざかるその景色を見つめつづけていた。
たとえ海に沈もうと、その海の底で砕けようと……その大地に、彼女の喜びのすべてと幸せのすべてが、たしかに存在したのだと。