びっしりと揃えられた槍の穂先は、黄金色に輝く小麦畑のようだった。非現実的なまでにきらきらと、眩く光を反射しているその輝きを、しばし、黙然とスランドゥイルは眺めていた。
「……本当に……」
同じように、現実感を喪失してしまったのだろう。どこかぼんやりと、傍らのアムロスがつぶやく。
「本当に、ノルドールは同胞を殺すのだね……」
暗闇のエルフなど、輝かしい光のエルフたちは同胞と見なしていないのかもしれない。そう思ったが、スランドゥイルは答えなかった。
まさか、と誰もが信じまいとしてきたことだったのだ。大宝玉シルマリルが、同じエルフの手にあってさえ、ノルドールがそれを取り返しに来るなどとは――しかも、干戈をもって奪い返しに来るなどとは。
「――この様子では、海の同胞をのきなみ殺して回ったというのも、あながちただの噂ではなかろう」
アムロスは、否定しようと口を開きかけて、だが、言うべき言葉を失ったといったように絶句した。今は亡きシンゴル王が、ノルドールとの交流を断ち、その言葉の使用すら禁じたのは、あの噂が出回ってより間もない頃のことだ。
結局、アムロスの開いた唇が、押し出したのはこんな一言だけだった。
「ケレボルンが……悲しむね」
「悲しむだけの余裕があるとは、羨ましいことよ」
ここが生死の境と思えば、ノルドールの姫と共に、淋しく東の辺境へ身を引いたケレボルンのことを、スランドゥイルはそう怨みたくもなるのだった。それは、あの穏和な年上の友への甘えでもあり……もう今生では逢えぬやも
しれぬ、ということへの空しさだ。それも、理由が「ノルドールの姫と暮らす為」だとあっては。
「我らは悲しむ間もなく――虫けらのようにここで死ぬのだ。同族に殺されてな!」
スランドゥイルは、己の立つ枝を軽く脚で蹴りつけた。
「スランドゥイル」
それは激しくはなかったが、強い声であった。ぐ、と唇を引き結んだスランドゥイルの眼の奥に、たぎるような怒りがある。暗く激昂する血は、オロフェア譲りのものであろう。文官たるオロフェア、武官たるスランドゥイル、親子の勤めはかけ離れてはいたが、情に篤い反面の激しやすさは、同じ長所であり、同じ短所であった。
「スランドゥイル、神々から頂戴した声で、死ぬなどと言うものではないよ。
むしろ我らは生き残るのだ、と言いなさい」
ケレボルンがいたら言っていたであろう言葉を、アムロスは至極穏やかに告げた。「フン」と唇は引き結んだまま、だが、スランドゥイルは視線を逸らした。
「――で、どうするのだ」
不器用に話題を替えたのは、彼なりの反省の態度であろう。アムロスはそっぽを向かれたままの顔に笑いかけて、困ったように首を傾げた。正直に言えば、今はまさしく彼らの国の運命の尽きる時であった。戦上手のノルドール勢に、ろくに剣も扱わぬシンダールが、どうして適うはずがあろうか。
アムロスの窮したような沈黙が、かえってスランドゥイルを落ち着かせたらしい。彼は、隣り合う枝の上に佇んだアムロスを、振り仰いで言った。
「我らが王が無事退かれるまで、やる気のある者で持ちこたえるしかあるまい。真面目な話、森に暮らしている者たちは兵の数に入れん方が良いだろう。むしろ積極的に逃がしてやらねば」
「父たちが、避難の指揮を執っているそうだから、大丈夫だよ」
スランドゥイルの父オロフェアも、アムロスの父アムディアも、特に森に親しんだシンダールだ。自然、彼らの子らもまた、メネグロスより森を闊歩することを好んだ。それがゆえに今、こうして森での迎撃をディオル王から仰せつかっている。
ちらほらと、散開して枝の上に待機している同胞たちの姿を認め、スランドゥイルは重く嘆息した。
その嘆息を読み切ったアムロスが、苦笑して隣の枝に囁く。
「――生きている者たちだけで、何とかしなければならないよ」
スランドゥイルが、先のナウグリムとの戦いで死んだ多くの将兵――特にマブルングが、メネグロスにいてくれれば、と思ったことを、アムロスは理解していたのだ。それは、アムロスもまた、この森に今、朗らかに笑い軽やかに弓引く強弓のベレグがいてくれれば、と思ってしまったがゆえであった。
近づく敵の姿を眺めやったまま、スランドゥイルはぽつりとつぶやく。
「死んだ者はいつも……生き残った者に、厄介な宿題を押しつけて逃げる」
その言葉を聞いたアムロスは、スランドゥイルの横顔を見つめた。瞬間、彼の背を寒気のような「何か」が駆け上った。駆け上ったそれは、アムロスの知らぬうちに、彼の口を借りていともたやすく、スランドゥイルに向けて飛び出した。
それは予見の言葉だった。
「わたしも、」
スランドゥイルが、その蒼い瞳を見開くようにして、彼を振り返ったのを、アムロスは見た。
「わたしも――いつか、君やケレボルンに、宿題を残して逝く――」
「――の、かな」
最後にアムロスが己の言葉を捻じ曲げたのは、スランドゥイルの瞳の奥の、絶望の深さを見たからだった。
凍るような一瞬の沈黙ののち、スランドゥイルは顔をそらし、「知るか!」といまいましげに吐き捨てる。
恐らくスランドゥイルには、今の言葉の意味がわかってしまったのだろう。だがそれでも、互いに互いの死の時を語り合うには、眼前の光景はあまりにも――生々しく、死をつきつけ過ぎていた。
気まずい沈黙を振り払うことができず、ふたり、黙って敵を睨む。
だが、
「男衆というものは、存外、余計なことまで気を回されるものですな」
図太いほどに落ち着き払った声が、スランドゥイルの立つ枝の下、地上から放たれて二人の沈黙を救った。それは女の声であった。スランドゥイルは下を覗きこみもせずに、ぶっきらぼうに地上に言葉を投げつけた。
「そなたもとっとと逃げろ」
「さて」
その一言だけで、死んでも逃げる気はありません、と雄弁に語った女は、男二人から少し離れた枝を身軽によじ登り、男にはやや柔いその弓を、試すように一度きりきりと引き絞った。
「民は散り散りに逃げておりまする。御子はそれに紛れ、それぞれメネグロスを退かれました」
「父は」
「じき、迎撃に加わられるかと」
女の答えは落ち着いて揺るぎがない。眼前の、すでに森へと分け入ってきたノルドール勢など、何の脅威とも思っていないかのようだった。
「女君は、余計なことを考えられぬ分、恐れを知らぬものなのかな」
その豪胆さが不思議なのか、アムロスが笑って尋ねる。
女は弓を引き絞ったまま、しばし首を傾げる。それが、敵の斥侯に狙いをつける為であったのか、アムロスの問いに考え込んだ為であったのか、どちらであるのか、男二人が理解するよりも前に、一の矢は風を切って放たれていた。
喉を射抜かれて倒れたエルフの姿を見て、女は視線を落とす。エルフがエルフを殺す。迎え撃ってのこととは言え、それは女の心に重くのしかかったのだろう。
一体、この森で「敵」を待ち受けるシンダールたちのうち、引いた弓を射ち放すことのできる者が何人いるだろう。そもそも、自分はこの弓を引くことができるだろうか――……気の優しいアムロスは、己の手の内の弓を見て溜息をついた。
「おそらくこれは、罪なのでしょうな」
すでに二の矢を引き絞りながら、女は感情をうかがわせぬ声でつぶやいた。
今度は、盾に身を隠した一団が、枝を切り払い、道を作りながら進んでくる。それを眺めて、女はアムロスへの答えを紡いだ。
「ですが……女とは視野狭き生き物なれば、わたくしが思うはただ、愛しい者を生かす術だけです」
二の矢が放たれる前に、女より弓勢の強い矢が、盾の間に吸い込まれる。アムロスの傍らの、気難しい顔を崩さぬ男が、次の矢を矢筒から引き抜いたところだった。
「それに――」
それをちらりと見て、敵に視線を戻すついでのように、女は低い声でつぶやく。
「多分、わたくしは母になるまでは死にませぬので」
アムロスもまた、スランドゥイルをちらりと見た。
「――なぜそこで我を見る」
ムッとしてスランドゥイルが言い返す。
アムロスの見るところ、婚姻をしておらぬだけで、スランドゥイルとこの女はすでに、互いを伴侶と見なしているようなのだが、スランドゥイルは、それを頑なに否定したい理由があるらしい。
肩をすくめて、アムロスもまた、己の弓を引き絞った。
一瞬、手がひきつるように震えるが、それを意志の力で抑え込む。
「ねぇ、スランドゥイル」
「黙って戦え」
「お互い――
死ぬまでは、共に生きていたいね」
貴方を先において逝く、罪深いわたしではあるけれど。
せめて死ぬまでは、ずっと共に、ずっと貴方の味方でいようと思う。
同じ敵に弓を引き、同じ喜びに笑い、同じ悲しみに涙する――
ビン! 僅かに乱れた弦音を立てたのは、アムロスの弓ではなかった。
「ちぃッ」
盾に弾かれた矢の行方は見送らず、スランドゥイルは再び矢筒から弓を引き抜く。
「お前のせいで、的を外したわ」
「それはお気の毒さま」
少し強張った笑いを向けて、だが、アムロスはその矢をしっかりと、敵に向けて射放した。
「これでわたしも――罪人だ」
「一蓮托生、という奴ですか」
「せいぜいが、共犯者といったものであろうよ」
しん、と一瞬の沈黙の後、三人の声が綺麗に和する。
「魂よ――」
これから己を殺すやもしれぬ敵――これから己が殺す敵に、三人はともに、一瞬の祈りを捧げた。
そして枝を後ずさり、跳び移りながら、メネグロスから離れた方へと誘うように、激しく弓矢を射掛けはじめた。
この戦いで、彼の友と、彼の妻となるべき女は、彼を置き去りにして死ぬことはなかった。
のちに多くの戦いを共にする彼らが、スランドゥイルを独りにしたのははるか数千年後――
まるで、かの緑の若葉の誕生とすれ違うかのように、二人は相次いで旅立ったのであった。