エルフの敏感な鼻には、耐え難いほどの臭気であった。暗黒の凍れる炎が消え去ったとは言え、この瘴気が癒されるまでには、人の子の寿命に換算すれば、「長い」と言っても良い時が必要であった。
その臭気と瘴気の中を、一艘の小船がゆっくりと、葬列のように重くゆっくりと進み行く。船の下にあるのは沼地のはずだ。頼りない細い竿一本で、船の上に佇むエルフが、押してとおれるものではない。ないはずだった。
だがその新雪のように白い小船は、沼地の上を沈む様子もなく、重くはあるが確実に、佇むエルフを乗せて滑りゆく。
ただの小船ではない。
それは、光の奥方の、愛と祝福を受けた小船なのだった。
ほっそりとした身体のどこに、そんな力があるのだろうか。旅装の上にマントを羽織り、深くフードをかぶったエルフは、この沼地に辿り着くまで、イシリアンからはるばると、たったひとりで船を担ぎ、あるいは獣に曳かせ、そうして旅を続けてきたのだ。
この沼地を渡るために。
最愛のドワーフすら伴わず、たったひとり、胸中を誰にも明かすことなく。
常に闊達なこのエルフに、そんな、呪われた地への情熱をかきたてた原因は、実は、彼の大切な友人たるひとりのホビットであった。
ギギ、と竿が重く泥に突き立ち、そして、また船はずるりと滑る。エルフが舵を取るまでもなく、黄金の森の奥方の、力の偉大さを示すかのごとく、彼を、望みの場所へと連れて行く。
だがその偉大な奥方は、すでに、この国を去って常世へ旅立った。
彼へこの情熱をかきたてた、心優しく気高いホビットも、また共に。
世界から、美しいものが喪われて行く。
そんなことを、胸中に思い巡らせながら、また、ずる、と力を込めて竿を引き抜き、エルフは輝く瞳で遠くを見はるかした。
エルフの名をレゴラスという。
この地は、彼が生まれる幾千年も前に、彼の祖父を奪った因縁の――ダゴルラドの会戦の跡地なのであった。




レゴラスがそのことに気づいたのは、新王エレスサールの膝元で、思い思いに絨毯に座り、会話を楽しんでいたその時だった。
「フロド、私の顔に何かついていますか?」
会話の途中で不意にそう呼びかけられて、フロドは驚いたように、己の胸に手を当てた。その仕草は、フロドが辛い旅の中で負わされた、悲しい癖のひとつだった。すぐにフロドは手を下ろし、困ったように笑い返して首を振った。
「何でもありません、少し考え事をしていて」
「レゴラスの顔を見て考え事というのも、めずらしいね」
「私ひとりだけ高い所に座るのはいやだ」と、子供のように駄々をこねたエレスサール王――アラゴルンが、仲間たちと同じように行儀悪く座り込んだまま、口淋しげに髭を撫でる。
このように、一同が床に円座となって仲良く並ぶまでは、「君だって一国の王子じゃないかレゴラス」「フレトではみんな床に直で座っていたよ、王子だって王女だって!」「よしわかった、いっそロリアン流に全員床に座ろうじゃないか」という、他愛ないやり取りがいつものように、彼らをほがらかに笑わせていた。だが、フロドは不意に笑いをおさめたかと思うと、どこか愁うようなあの静かな眼差しで、しばし、レゴラスの横顔に視線を留めて、じっと考え込んでいたのである。
「どうしたんですフロド、腹に溜まったことはちゃんと言わないと、食べ物の入る場所がなくなってしまうって言うじゃないですか」
「だからって、君みたいに何でもかんでも口から飛び出させてしまうのは考え物だよ、ピップ」
メリーとピピンの軽口に笑って、だがフロドは、レゴラスが生真面目に、そしてどこか心配そうに眉を寄せて自分を見つめていることに気づき、ぽつり、とつぶやいた。
「ああやはり似ている」
「似てる?」
「誰に?」
口々に、フロドの周りにホビットが群がる。ギムリは髭をしごいていた手を止めて顔をそちらに向け、ガンダルフは物思いに沈んでいた顔を上げ、そしてアラゴルンとレゴラスは、ぐぐ、とフロドに身を伸ばすように顔を近づけた。
「ああ、そんな、……ごめんなさいレゴラス、たぶん、あまり似てると言われて良い気持ちのする相手じゃないんです」
自分の言葉にひどく後悔した様子のフロドが身を縮める。するとレゴラスが、真面目な顔をしてぱちぱち、と常磐緑の瞳をまたたき、尋ねた。
「オークとか?」
「それは、フロドの旦那の審美眼、ちゅうものを馬鹿にしてらっしゃるだよ、レゴラスさん」
「そうですよ、いくらレゴラスだからってオークと比べるのはねぇ」
憤慨するホビットたちの台詞の中に、微妙に失礼な言葉が混じっていることには気づかなかったのか、指摘するのが面倒くさかったのか、レゴラスはただ、フロドを促す。
「かえって気になってしまいますからね、できれば教えてくれると嬉しいんだが!」
フロドはうつむき、そしてなぜか、ちらり、とサムを見てそして、またうつむいた。
うつむいたまま、ぽつりぽつりと言葉を継ぐ。
「死者の沼地で、」
「……?」
紡がれた不吉な名に、ガンダルフがわずかに眉を上げる。
ガンダルフの視線の先で、フロドは不意に顔をあげ、レゴラスをじっと見上げて言った。
「死者の沼地で。あなたによく似た、美しい顔を見ました。エルフにしかないような、綺麗な銀髪でした。水草が王冠のように、その髪を飾っていました。……私があの苦しい旅の中で見たように、本当に、つる草が森の王冠のようだったのです」
フロドは、その顔が美しいままに腐敗を進め、腐臭を放っていたことは言わなかった。まったく、今思えばそれは思い違いだったのではないかと思えるほどに、思い出の中のそれは美しい顔なのだった。
「私によく似た……銀髪の?」
なぜかひどく胸をつかれた、といった様子でレゴラスは、ふと言葉を喪い、視線を背けて嘆息した。
「レゴラス、すみません、」
「いいえ、……いいえ、フロド、私は君に礼を言うことこそあれ、君が私に謝ることは何一つない」
最初こそかすかに震えた声は、すぐにしっかりと、喜びと悲しみをたたえるシンダールらしい、輝きを伴って放たれた。
それを支えるように、ガンダルフが声をかける。
「緑葉の森に栄誉あれ! 森の王は死してもなお、草木を従え冠をその額に戴いておられるのじゃ」
「森の王……?」
「ありがとう、フロド」
レゴラスはフロドを抱き寄せた。
「ありがとう……! 死者の沼地は、かつてダゴルラドの戦に敗れ、あの地に果てた者たちの顔が映るという。
 ああ、ドリアスよりはるかふたつの山脈と大河を超え、森に溶け込んだ末路が沼地の底とは、聞くも哀れな話だとは思っていたけれど。その沼地の底にもなお、森の息吹が届いたというなら、それは、そのエルフはたったひとりしかありえないよ!
 それは森に融け、シルヴァン・エルフの民に融け、きらびやかな飾りを捨てて、花冠を額に戴いた、緑森大森林を統べた王、戦刃に果てた私の祖父……




 スランドゥイルの父オロフェアだ!」




己の声の残響が、耳を打つ。
夢の小道より、ゆっくりと揺り起こされてレゴラスは視線を上げ、竿が流されかけていることに気づいて手許に引き寄せた。
「……オロフェア」
ぽつり、その名を護りの呪文のように唱えた時に、はっと顔を上げた。
小船が、止まっている。
ガラドリエルの御手の置かれた、その小船が止まっている。
抗いがたい誘惑がレゴラスを不意に捕らえた。
吸い寄せられるように、視線がゆっくりと横に揺れる。
彼の右脇。
空中に、ぼう、と燃える緑の炎。
「……オ……」
なぜその名を呼びかけたのか、自分でも理解できぬままに、炎に向けてレゴラスは囁く。
シンダールらしくもなく、かすれた声で。
「オロフェア、……おじい、さま」
指輪の誘惑すらものともしなかったエルフが、たったひとつ、視線を下に動かすという誘惑には抗することができない。
いつしか崩れるように膝をつき、レゴラスは船べりに手をついて、身を乗り出して沼地のそのおもてを見ていた。
沼のおもてに、映るものがある。
銀髪の、かなしげな、ひっそりと顔をうつむけた、それは、あまりにもレゴラスに似すぎたそれは――


「レゴラス!」


シンダールの耳には耐え難いはずの、荒いがらがら声が響き渡ったその瞬間、レゴラスは、己が両手を沼地に突っ込んでいたことに気づいた。
「ギムリ!」
そんなはずはない、と思いながらもその名を呼び、手を引き抜こうとしてがくんと身体を傾げさせる。
「ギムリ、ギムリ、手が抜けないよ! 何か掴んでる!」
「死んでも引っ張るんだ、あんたまでこの沼地に明りを灯すつもりかね!」
「死んだら引っ張れない!」
どこか間の抜けた会話をかわしながらも、レゴラスは、声の方角に顔を向けることすらできず、自分を引っ張る力と格闘し続ける。
それは、死者となってなおこの地に囚われた魂が、仲間を増やそうと引きずり込むのか。
それともこの地の死者を食らう忌まわしい古代の何かが、餌を求めて引きずり込むのか。
「竿だ、竿で突くんだよ!」
「だから両手とも抜けないんだって!」
「沼の中に何かないかい!?」
その言葉が天啓のようになぜか、レゴラスを打ち据える。
レゴラスは何かに引っ張られたままの手を、必死で揺さぶって寄る辺を求めた。
その手が何か、しっかりとした感触を掴む。
「あった!」
レゴラスはその感触に両手ですがりつき、そして、魔力宿すその声で高らかに叫んだ。
「エルベレス ギルソニエル!」


生き物のように「それ」は跳ね。
沼の底で鼓膜をかきむしるような絶叫が聞こえたかと思うと、レゴラスの手は「それ」を握りしめたまま、いきなり引き抜けて空中に躍り上がっていた。




反動で、船上に尻餅をついたレゴラスの耳に、やっと、彼を呼ぶエルフ語の叫びが聞こえてきた。
「若君! レゴラス様!」
泥だらけの手を船べりについて、ぐったりと身体を起こしつつ見れば、彼のものと同じ白の小船に、どっしり座り込んだドワーフと、その後ろ、必死に竿を動かすひとりのエルフの姿が目に入った。
「あ……」
父の側近であるそのシンダールの姿を、まさかこの死者の沼地で見ると思わず、ぽかん、と口を開けて眺めていると船が彼の船の隣に並ぶ。
「まったく、あんたときたら、ねぇ! どれだけ友達を心配させたら気がすむっていうんだい!」
怒りと心配と安堵に髭を震わせて、ギムリは腹の底から大喝した。びりびりと沼地の空気を震わせるその声に、レゴラスは汚れた手では耳を塞ぐこともできず、半べそをかいてへたりこむ。
「ま……まったくです、イシリアンでは救助隊を組もうかという騒ぎですよ! よりによって死者の沼地とは!」
さすがにドワーフの大喝には耳を冷やしたのか、こちらは素直に耳を両手で塞ぎながら、側近もまたくどくどと若君への説教をはじめた。
疲労と混乱でふらふらしながら、レゴラスはそれでも蚊のなくような声で、「悪かったよ」と素直につぶやいた。
「悪いのは当然です、いいですか、父王君もそれはそれは心配され――」
なおも言い募りかけ、ふいに、側近は断ち切られたように言葉を飲んだ。
「……どうかしたかい?」
これ以上説教の種が増えてはかなわないと、レゴラスは恐る恐る問う。
「その剣は?」
何かを畏れるように、父王スランドゥイルとまでは行かずとも、年を経たシンダールは声を低めて尋ねた。
「剣?」
不思議そうに首を傾げ、そして、レゴラスは己の手許に落ちたままの「それ」を見た。
「ああ……剣だったのだねぇ」
それは長らく、沼地の汚濁にさらされてなお、曇りひとつない一振りの剣であった。
ぴたりと説教を止めてしまった側近を、やや薄気味悪そうに、レゴラスとギムリは観察する。
その視線にすら気づかぬ様子で、不意に側近は船上で跪き、胸に手を当ててじっと、その剣に向かって祈りを捧げた。
「……ねぇ、いったい、」
「ドリアスの流れ正しき、我らが森の王に誉れあれ!」
側近は顔をあげた。
その瞳にきらきらと、言い知れぬ感動が浮かんでいることに気づき、ギムリは、それが、あの日のレゴラスの瞳と同じであることに気がついた。
「それはオロフェア先王陛下の御剣です、若君。
 祖父王君が、君をお護りになられたのです」


レゴラスは黙って、剣を抱いた。
三千の時を経て、やっと継がれるべき者の手に、剣は戻ったのだ。
「……よかった」
剣に向けて囁く。
「もしかしたら、あなたが私を引き込もうとしたんじゃないかって、私はとても心配だったんですから」


ゆるやかに、小船が滑り出す。
ここで彼らが成すべきことは終わったのだ。
連れ帰るべき者を乗せ、小船は重く、ゆっくりと沼地を進んで行く。
そして誰も、何かを悼み、敬うように、決して言葉を放つことはなかった。




「どうして私がここにいるってわかったんだい?」
「最近、あんたの様子がおかしいと聞いていたのでね。どこかへ出かけたら、私にも早馬を出してくれるようにと、イシリアンのエルフの衆に頼んでいたのさ。だが途中で見失ってしまってね、私も皆もそれは焦ったもんだった」
舌が擦り切れるほどの謝罪の言葉を吐かされて、それからやっと、仲直りをしてもらったレゴラスは、泉の中でじゃぶじゃぶと体を洗いながら、その言葉に首を傾げた。
「見失ったのに、私の居場所がわかったのかい?」
「君のお父上から、手紙が届いたんだよ」
「父上から?」
意外な言葉に頭を跳ね上げると、金髪が見事に水滴を散らしてギムリの顔をしかめさせた。
「……困ったエルフだよ、まったく」
「父上が何だって?」
無頓着なエルフはふたたび体を洗う作業に戻りながら、無邪気に尋ねる。ギムリの災難には気づかなかったらしい。
ギムリは溜息をつくと、その場に座り込んで言った。
「死者の沼地の夢を見た、とね。それ以上のことはおっしゃってはいなかった。それで、ああそういえばあんたはフロドの話を気にしていたな、と思い出したのさ」
「そうだったのか……」
スランドゥイルの夢枕にも、父たるオロフェアは立ったのだろうか。上古の力を色濃く残した、今は亡き、魂はマンドスにあるべき祖父の、何か強く残った力が若き緑葉を引き寄せたのか。
それが決して、負の感情ではないことを、レゴラスは強くエルベレスに祈らずにはいられなかった。
「ねぇ、ギムリ、祖父の魂はもしかしたら、マンドスに行かずにあの中をさまよったままんじゃないだろうか」
つぶやくように、吐息と共に落ちたその言葉に、ギムリはしばし、即答を避けて物堅く考え込んだ。彼にとってエルフの生態というものは想像がつきがたく、ゆえに、そういう事態がないとは決して言い切れないのだった。
「……たしかに、そうだったのかもしれないがね」
ギムリはそう答えて、レゴラスの瞳をかげらせた。だが続く言葉は、レゴラスの予想もしないものだった。
「だが、考えてご覧よ、レゴラス旦那。あんたはちゃんと、あんたの祖父君を連れて帰ってきたじゃないか。
 あんたの祖父君は、きっと、あんたに連れて帰って欲しくて、あんたをあそこに呼んだんだと思うよ」
「私が?」
濡れ髪の狭間から、きょとんと見返す常磐の緑。
「あんたさ。引っ張りあげたじゃないか、あの剣を。あんなに広い沼地の中から、たった一本の剣を、あんたは間違えずに探し当てたんだよ」
「……あれが……」
言いかけて言葉にならず、レゴラスはじっと己の手を見る。
「……そう……だったのかな?」
エルフらしくもない、曖昧な頼りない言い草にギムリはきっぱりと頷いた。
「そうだとも」
「そうかな」
「そうさ!」
「そうだね!」
不意に晴れやかに笑って、濡れたままの身体でレゴラスはギムリに抱き着いた。
「何をするんだレゴラス!」
「ギムリ、ギムリ、エルフを言い負かしたドワーフなんてきっと君ぐらいさ!」
笑い騒ぐ彼らの声を、探し当てたか口々に、レゴラスを呼ぶ配下のエルフの声が重なって聞こえ始めていた。




王の御前に剣を捧げ、退出する側近を眼でしばらく追うもすぐに、スランドゥイルは膝の上に横たえられた、抜き身の剣に視線を落とした。
父によく似ている、と言われた、炯炯たる蒼の瞳が、痛みを覚えたように細められる。
剣を覗き込む為に、顔がうつむかれ、重く金髪が垂れて彼の表情を、外気から隠してしまった。
わずかに見える口元がつぶやく。
「よくお戻りを……」
震えるようなその唇の動きが、ひどくゆっくりと、三千年、呼ばずにあったその呼称を囁いた。
「……父上」


父はきっと、孫の姿が見たかったのだろう。
帰りたかった、救われたかった、そんな気持ちは微塵もなかったに違いない。
ただ、闇に閉ざされた森に伸びやかに、奇蹟的に自由に自在に育った、あの、シンダール族の末子の姿を一目、見たかっただけなのだ。
身体はいまだ沼地の底で、ひっそりと、水草の冠を纏う姿に成り果てても。
「あなたも、大した爺馬鹿と見える……」




いまだ曇り一筋見えぬ、かなしく澄んだその刃を撫で、それを最後とスランドゥイルは立ち上がった。
未だ戦陣に在る彼の子に、その剣を届ける使者は誰が良いかと――
彼の側近を、呼び戻して問うために。