シリオン川の傍ら、力強く大地を蹴って神の猟犬は疾走する。せせらぎの移りゆく方角とは逆走しながら、だが、かの猟犬は、その川さえ従えて走るようにも見えた。
何者の束縛も受けつけぬその、優雅にして獰猛な体躯が躍動する。だが、彼はその背に、自ずから望んで受けた戒めをひとつ負っていた。
つややかな白銀の毛皮の上に、工人アウレが心血を注いで彫り上げたかのような、美しい手が拳を作っている。それはしかと、鳴動する毛皮を握りしめていた。
半ば横たわるように、必死に彼の背にしがみついてくる、やわらかな身体。疾駆するそのあまりの速さに、空気がごうごうと耳元で鳴ってなお……そのやわらかな身体が、伏せてなお、キッと顔を上げて前方を見ていることを、彼は確信していた。
「あッ」
小さな悲鳴と同時に、頭上でばしり、と何かがぶつかる音がした。
彼は背中のやわらかな重みを振り落とさぬよう、大きく円を描くようにして回りながら速度を落とし、止まった。
「ああ、フアン」
降りなさい、とやんわり身体を揺すれば、しがみつくようにして、ふらりと音もなく降り立ったのは……その歌声をティヌーヴィエルと褒め称えられる、ドリアスの宝、シンダールの姫。
ほっそりとしたその脚に、はいているのは室内でしか役に立たぬような、軽くやわらかな靴ひとつ。それでも、地面の固さに耐えてしっかりと立ち、ナルゴスロンドより逃れ出た姫はフアンの頭をそっと撫でる。
その額から、一筋の血が流れていることに気づき、フアンは姫の服の袖を軽くくわえ、せせらぎの音の方角にしずかに引いた。
「わたくしは大丈夫、飛んで来た虫に当たってしまっただけなのですよ」
だがフアンはここぞとばかりに、耳に心地良きシンダリンも理解できぬかのような顔で、ただ、姫の袖を引いて川べりへと歩み寄った。
「フアン、……ねぇ、お願い、わたくしは本当に大丈夫なの……」
さえずる小夜啼鳥の声に、隠せない疲れがある。フアンは、いまだサウロンの島に侵されることもなく清流を誇るシリオンの傍ら、水飛沫の跳ねるすぐそこに、ぺたりと腹ばいに寝そべった。
つられるように、隣に姫も屑折れる。全シンダールの憧れたる、その美貌を、彼女は緩慢に身を伸ばすことによって水に映した。
「……まぁ、ひどい顔」
埃と血に汚れたその顔を、見て姫君はそれでも少し笑った。
フアンは咽喉の奥で小さく、嘆息に似た唸り声をたてただけで、それ以上の反応はしなかった。彼は、水に映る姫君の顔を、ひどいとは決して思わなかった。
ぬばたまの髪は、埃をかぶってなお、絡みもせずにまっすぐに伸びてそよいでいた。埃まみれの顔は青ざめ、きっと唇は引き結ばれ、その中できらきらと、灰青の瞳が輝いていた。それは夕闇の空の最後の残光だった。ただひとりだけを追い求め、映す、その瞳の美しさは、埃にまみれ、旅塵に疲れたほうがきわだって美しかった。
人間の、皮一枚の美しさなど、獣であるフアンには関係のない次元の話である。彼が愛したのは、姫君の魂の輝きだった。それがその瞳には現れていたのだった。


心地よい冷たさを姫が顔に受ける間、フアンは水を一口飲んでからはじっと、彼女を護るようにその場に伏せて動かなかった。
「ねぇ、フアン、見て、あれはわたくしの故郷ドリアスなのですよ」
姫は川から振り返り、遠く、黒々と続く森林を指差した。
「あの森にわたくしのお父様と、お母様がいらっしゃるの」
フアンがのっそりと顔を挙げて、律儀にそちらを向けば、姫君はものがなしくやさしく笑う。
「あなたはご存知かしら、お二方とも、とても立派な、美しい、そしてわたくしには大事なお方なのです……あの日までは、世界でもっとも大切なお二方でした」
姫君は、粗末な衣服の膝でいざり、フアンの傍らに座り直してそっと、その毛皮にもたれかかった。
フアンが軽く鼻面を押しつければ、手を伸ばし、やわらかくその顔を抱いて頬を埋める。
「あの日、わたくしは終わってしまった。シンゴルとメリアンの娘としてのわたくし、エルフの姫としてのわたくし、憂いなく、さかえとやすらぎの内にいたわたくし……
 それがすべて、死んでしまった。いなくなってしまいました」
フアンの愛する、輝ける灰青の瞳が閉ざされる。
「ねぇ、フアン、わたくしはあの方を助けに行っているはずなのに、なぜかしら、自分が助かるために赴いているような気がするのです」
人の言葉を解しながら、だが、言葉を返すことは許されていない心やさしい獣は黙って、はたり、はたりと尻尾を振る。少し、ばら色の唇はほころび、疲れたように閉ざされたままの瞼の端が、なごんだ。
「ナルゴスロンドの主フィンロド様も、あの方を助けて共に赴かれたと聞いています。どんなお気持ちだったのかしら。わたくしと、同じようなお気持ちをされたのかしら。
 ねぇ、フアン、わたくしにはわかるのです、わたくしはもうすぐ死ぬのでしょう。今、わたくしは死に向かって赴いています。サウロンに殺されるのではありません。
 わたくしは、出会ってしまったわたくしの運命に殺されるのだと思います」
閉ざされたままの瞳から、つぅ、と一筋、透明な流れがしたたった。
「あの方にお逢いしたいのです。少しでもお傍に近づきたい。あの方を、助けるために参るのではありません。離れていることに、わたくしが耐えられないだけなのです。
 もうすぐ亡くなってしまう……定命のお方だというのに。ここでわたくしがお救いしたとて、本当に……すぐに亡くなってしまうお方なのに!」
幼い少女のように、エルフの気高き姫はいとしい猟犬の首にかじりつき、顔を埋めた。
「わたくしにはわかります。これがエルフの死なのです……エルフを真に殺すものは、悲歎でもなく苦痛でもなく、何かに出会ってしまうことなのです……わたくしたちはいとしさに耐え切れずに死ぬのです」
フアンは首にかじりつかれたまま、鼻面で器用に、姫の滝なす黒髪をつついた。彼には、姫を抱きしめる両腕は存在しなかった。それは獣の形をとったまま、今は、堅実に地面に伏せた身体を支えていた。
彼にはまた、姫にくちづける唇も存在しなかった。気高い忠誠心に支配されたこの猟犬に、そんな願望はなかったにせよ、慰めの言葉を吐く唇がないことは、かなしむべきことに思えたかもしれない。
だからただ、彼は姫の体重を受け止めたまま、巨岩のようにじっと、その場に伏せて動かなかった。姫の細い肩から、少しずつ震えが去っていくのを、彼は待っていた。最後に、姫が顔を上げ、涙に濡れた瞳でにっこりと笑えば一声、驚かせぬ程度にかろやかに吼えてやり、頭を垂れて姫を背に乗せた。
「わたくしはおろかな女になってしまいましたね、フアン、あなたこそ、ご主君に背いて心を痛めているでしょうに」
フアンは小さく鼻を鳴らした。彼は、己が正しいことをしているという自信があった。彼の主君が本当に彼の主君たりうるエルフの殿であるならば、彼は許されるだろうと思っていた。許されざる時は……彼の主君が、主君たりえなかったということである。
ただフアンは、しがらみや重みを吹っ切るように、それでいて姫を落とさぬゆるやかな加速で、再び風の如くに走り出した。


「ねぇ、フアン」
ごうごうと耳を叩く風の中でも、流線としか認識できない景色の中でも、ティヌーヴィエルたる姫の声ははっきりと、フアンの耳に滑り込んだ。
「わたくしがおろかな女だと思うことはね、もうひとつあるの」
ひたっ、ひたっ、と力強くなおやわらかい、背は揺れもせぬフアンの躍動の中で、姫はささやく。
「あの方に別れを告げる時、わたくしの命も終わるでしょう。本来なら、シンゴルとメリアンの子として長らく、お二方の喜びであったはずのわたくしも、お二方をこの上なくかなしませるという不孝をおかすことになるでしょう。
 でもね、フアン、わたくしが悲しいのはそのためではないの」
川が不穏な気配をはらみはじめる。ベレンの捕らわれし地、サウロンの本拠地が姿を顕わしつつあることを、フアンは感じ取った。
「あなたを、フィンロド様を、お父様とお母様を、こうしてわたくしたちの運命に巻き込み、その運命に暗い翳りを落としてなお、死んで行くわたくしなのに。
 悲しいのは、死んで、あの方と同じ場所にやすらうことができない、そのことだけなの」
フアンは四つ足をふんばり、その場に立ち止まった。
ティヌーヴィエルのさえずりが降る。
「……こうして、心がせいてせいて、あの方を、あの方だけを求めて、あの方だけで心が裂けてしまいそうに満ちているわたくし。それでも、生きている間しか、あの方にはお逢いできない。死んでしまえば、近づこうとせくことすらできないの。
 どれだけの人を不幸にしても。……もう、わたくしが悲しいのは、それだけなのです。
 そしてそれが……しあわせなの。とても……もう、不幸だとも思えないのです」


フアンは遠く、陰陰たる気配を放つサウロンの小島を視野にいれ、黙って、しっかりと地を掴み立ち尽くしていた。
それ以上、小夜啼鳥の姫も声をかけはせず。堂々と、むしろしずしずと、歩みを進めるフアンの背に、腰をかけたまま共に進んだ。
一歩、一歩。踏みしめて、神の猟犬は天を見上げる。
その身がすでに神に等しいこの神獣に、ゆっくりと、運命の啓示が落ちかかっていることを、姫は知らない。


フアンは進む。
いまや彼は知っていた。
己が、このふたりのために命を落とすであろうことを。
そしてそれを、彼自身が望んでいるであろうことを。
彼にとっての、「出会うべき誰か」――それに出会ったがゆえに命を落とす、運命そのものの存在に等しい、いとしすぎる何かとは、この姫と、そしてこの姫が愛した男であろう、ことを。


彼が甘んじて背に乗せた、おろかなそしていとしい娘。
彼がまだ見ぬ、だがきっと一目で惹かれる、おろかなそしていとしい男。
その生涯に三度しか語ることのできぬ彼が、その三度の稀有な瞬間を、すべて捧げてしまうであろう、二本足の、恋に全てをつぎ込んで死んでいく、流星のような短き命ふたつ。
そんな命がどうしようもなくいとしく。
主君を裏切り、
声を与え、


命まで与え尽くして死ぬ己の姿を、予見によらず確信し、それがゆえに、神のように気高く堂々と、アルダに比類なき美を背に乗せた獣は敵地に向けて、歩むのであった。