燦然と輝く鎧の列の中に、エルロンドは仁王立ちとなり、火を噴く山をねめつけていた。
彼はいまだ心若く激しきペレジルであった。その身の半ば以上を占めるノルドの血は、彼をふつふつとたぎらせた。ギル=ガラドからの号令はまだ下らない。瞳の奥に輝くシルマリルの光が、エルロンドをましろき光に包ませた。まさしく闘気が白炎と決して、滅びの山の黒煙を打ち払うかのようであった。
上級王ギル=ガラドが、護り通してきた秘蔵っ子を、満を持して戦端に押し出してきたは、まさしくこの裂帛の白炎のゆえであったか。
畏れの想いすらこめて、周囲のノルドールたちが彼を振り仰ぐ中、ふと彼は、はやるその瞳を、異なる空気を感じる方角へと向けた。
口元がかすかに綻ぶ。
「相変わらず、ノルドの輩の血なまぐさきことよ」
山の鳴動で、蹄の音もかき消されたと見えて、獣と親しき森エルフの王子が寄せた馬に、ノルドールたちは誰一人気づかなかったのだ。
最低限の馬具を無造作に乗せただけのその、裸馬に等しい気安さは、白金の髪の王子のまとう、鎧の軽さとあいまって、輝けるミスリル鎧の中ではひどく貧弱に映った。だが、さほどそれを気にした様子もなく、血塗られた抜き身の剣をひっさげ、王子はエルロンドへと馬を寄せる。
鎧の軽さ、帯びる金属の少なさは、森林での戦いに慣れた者の証だ。彼は、ノルドールを避けてシルヴァンの森に潜んだシンダールのひとりであった。
「スランドゥイル殿」
エルロンドはおだやかに目礼した。スランドゥイルは馬上で軍礼を返す。
「伝令の帰り道に寄ったのさ。ケレボルンの知己なら我の知己のようなものだからな。これが今生の別れとなるかもしれぬし」
「何をおっしゃるか。不吉なことを」
「我らシンダールも、シルヴァンも、そなたらのように人殺しを得意とはしとらんのだよ」
いちいち、周囲のノルドール勢の神経を逆なでする物言いをしてみせる、このどこか暗さを孕んだ皮肉屋の年上の王子が、エルロンドは嫌いではなかった。尊敬するケレボルンの旧友として、いくばくかのつきあいがあったためでもある。
「エリン=ガレンとロリナンドの双王は如何に?」
「さて」
スランドゥイルの目元がわずかに曇る。
エルロンドに促されて重い口を開いた。
「我が戻るまで戦端を開くことなかれ、と進言はしたが。戦に慣れぬ森の民を、まとめておくのはむつかしゅうてな。恐怖に負けて、やぶれかぶれの突撃などせねば良いのだが……」
「そなたは落ち着いておられる」
「我らシンダールはそなたと同じさ。負け戦を知った身だ」
スランドゥイルは、小さく鼻で笑って滅びの山を見上げた。表情を隠したのかもしれない。
ともに、ひとつの都が業火に滅びる様をつぶさに見て来た身であった。たしかに、今更いくさを怯えるいかほどのものもなかったかもしれない。
「……お偉いノルドの方々が、華々しい武勲を上げるその屍に、俺の民の無数の屍が積み上げられて踏みつけにされるか。万骨枯るとは良く言ったもんだぜ」
ぽつりとスランドゥイルは、人の子の下々の者とさほど変わらぬ口調でつぶやいた。
「スランドゥイル殿――」
エルロンドは視線を伏せる。
たったひとつの暴言が、シンダールの怒りに火を点けたのだ。エルロンドは知っていた。平和を愛し、ひっそりと森に生きるシルヴァン・エルフやシンダール・エルフに、「中つ国を護ってやっているのは、我らノルドールの剣なのだぞ」と言った貴族がいたことを。
ロリアンのアムディアと、エリン=ガレンのオロフェアの出陣には、「血を流すことがそんなに偉いのか!?」という無言の怒りがこめられているのかもしれない。
周囲の軍勢に、スランドゥイルのつぶやきは聞こえなかったようだ。ただ、エルロンドだけがそれを聞き取り、黙って、己が胸に手を当てる。中つ国に平和を取り戻すために、己の血を惜しむことなく流す、それは、確かに立派だ。
だが……それは、血を流さないことが立派ではない、ということとは決して同義ではないのだと、エルロンドは知っていた。……他のどの同胞が知らずとも。
スランドゥイルはすぐに、気を取り直したように小さく笑ってエルロンドを振り返った。
「そこで『そんなことを言うなら、とっとと兵を率いて森へ帰れ』と言ったりせず、真面目に哀しむそなたは、さすがかの上級王の傍らに侍るにふさわしい、良き男だ」
エルロンドが、喪われていく無名の、無数のシルヴァン・エルフの命を哀しむ者であるかどうか、スランドゥイルは試したのかもしれない。
そして、
「――さすが、かのおてんば姫の子だ」
業火に沈むメネグロスから、わずかな臣下に護られてたったひとり、落ち延びていった少女の姿を、スランドゥイルは思い出しているのかもしれない。
その連想か、不意にスランドゥイルは、その薄い色の瞳にからかいの色を浮かべてエルロンドを、斜めに眺めた。
「なぁエルロンド殿よ、そなた、この戦が終わったらどうするのだ、どこぞの見目良き姫を娶って気楽な隠遁生活にでも入るのか」
「考えてもおりませんよ」
「声が上ずったな。さては想う姫がいたか」
からからと笑う森の王子に一矢報いたくて、
「そういうスランドゥイル殿こそ、ケレボルン殿とさほどお歳も変わらぬというのに未だ妻帯せず、お子もなさらない」
言い返すとスランドゥイルは苦笑して、小さく首を横に振る。
「想う女がいないわけではないが、……どうも、まだだ、という気がしてな。その女もそう申すので娶りはせぬ」
「まだ?」
理解できず繰り返した瞬間、エルロンドの内に流れるマイアの力が、不意に鎌首をもたげて揺れ起きた。
「……ああ、」
ぽつり、と歎息して頷く。
「まだであろう?」
そう繰り返してスランドゥイルは少し笑った。
エルロンドの眼の奥に射し込む緑の光。
凍えゆき枯れゆく、黄昏の時代にゆっくりと目覚め、ささやかに双葉を伸ばす、遅く生まれた、最後の冒険をする若いエルフ――
その時にこそすべては終わるだろう。エルフの時代の扉を閉める、その時代こそ、エルロンドもすべてを精算する時代になるだろう。
「まだですな」
厳粛にエルロンドは頷いた。そして、
「……ですが待ち遠しい」
滅びの山を前にして、
恐怖と嘆きを脇に置いて、
エルロンドは素直にそう言って明るく笑い。
彼に一瞬射し込んだ緑の光を、見るまでは決して死ぬまいと心に誓った。


不意に喚声と地鳴りが遠く軍勢を襲い、彼らは愕然と辺りを見回した。
スランドゥイルが一声、もはやノルドールには聞き取ることもかなわぬシルヴァンの言葉で高らかに叫ぶ。
その声にこもる絶望に驚いて、エルロンドが音の方角を――死者の沼地の方角を見る。
あがる戦火と、天を覆う殺気。
「勝手に戦端を開くとは――!」
味方の誰かがうめいたが、エルロンドは言葉もなく、スランドゥイルが手に双刀をひっさげて馬を飛ばし遠ざかる、その後ろ姿を見送った。






「――――ッ!」
跳ね起きた瞬間、スランドゥイルは己が寝台の上に在ることに気づいた。
人の子が見るものよりもずっと生々しく、現実にほぼ等しいと言われる、エルフ特有の「夢」が、彼の身を訪れていたのだ。
夢から現実への、急激な移行に目眩を覚えたか、額をきつく押さえて意識を浮かび上がらせる。
血臭すら鼻腔に残るかと錯覚する――今でもまざまざと恐怖の蘇る、火を噴く山の裾野、熱き灰に咽喉を焦がし、ひりひりと傷む眼から血涙を流して、駆けた、王の、父の骸すら引き取ることができずに、片手に女を抱いてただ逃げた――……
「チッ」
震える己の手をきつく、もう片方の手で握りしめる。
あの時、恐怖を分かち合った、支え合った女はもう、スランドゥイルの腕の中にはない。
ぎらぎらと光る蒼き瞳を、南に向けた時、ふと、夢の残滓が何か、残り香のようなものを彼に伝えた。
しばしこめかみを押さえ、苦痛と恐怖に耐えて、先ほどの夢を掘り返す。
そしてぽつりと呟いた。
「……貴様の夢か……エルロンドよ」
拡大した上古のシンダールの意識は、距離を超え、一瞬の――ほんの一瞬の記憶の共有をもたらしたらしい。
いや、それはむしろ、神の血を継ぐペレジルの見た夢が、眠るシンダールを一時、誘い込んだのかもしれなかった。
エルフのためか、己が領地のためか、それとも、奇特なことに「中つ国のため」なのか――……今でも、拗ねこもる森の民とその王にすら、律儀に使者を送り、挨拶を欠かさない男のことを、森の王は思う。
スランドゥイルにとっては主筋であるが……ただ主筋であるというだけでもない因縁が、彼我の間には作られてしまっていた。
それでも稀に――同じシンダールと、テレリと名のつく、その血がそうさせるのか、もはや数少なき上古のエルフたちの間には、時折こうした、言葉に説明しがたい一瞬が存在する。
――判っておる。
苛立ちに荒々しく髪をかきあげ、スランドゥイルは心に呻いた。
――おお、判っておるとも。どの悲劇も、誰が悪いわけでもなかった。あるいは誰もが悪かったのだ。そんなことは百も承知よ。……承知してなお、一歩を踏み出すことができぬ愚かさを、貴様は笑うかエルロンドよ。
ドワーフと殺しあい、ノルドールと殺しあい、闇に堕ちた人間と殺しあい、そして、その総てに負けて逃げて、逃げて逃げ延びてここまで来て、拗ねこもった自分はひとりの穴熊だった。
だが――
「……いかがした」
部屋の外で慇懃に控えた女官に、スランドゥイルは低い声をかける。
「緑葉の若君が参られました」
「……レゴラスが?」
エルフには昼も夜もない。だが、スランドゥイルが就寝していることを、息子は知っているはずだった。
「すみません、父上」
女官の後ろから気軽に入ってきてしまったレゴラスが、のんびりとした声をかける。
「あまりすまんとは思っておらんな、その顔では」
それでも傍らの足台を指差せば、レゴラスは子供がするように、ひょいとその足台に腰かけた。
「何用か」
「ひどく怖い夢を見ました」
「……なぜわしに言う」
「内容を覚えていなくって」


「でも、父上と同じ夢のような気がしましたから。何だか父上のことが気になって」


「……覚えておらんとは、未熟者め」
鼻で笑いながら、スランドゥイルは乱れた己の髪を丁寧に、きちんとまとめあげて姿勢を正した。
「父上も、怖い夢を見はしませんでしたか?」
「あれは裂け谷のペレジルの夢よ。己ひとりが怖い想いをしたくなくて、我ら親子まで巻き込んだと見える。今頃、ロリアンの王も震えて飛び起きておるやもしれぬぞ」
「それは光栄だなぁ」
素直に喜ぶ我が子にもう一度、鼻で笑って寝台を降りる。
だがふと、先ほどの己の卑屈な想いを思い出して、腰かけたままの我が子を振り返った。
ドワーフと、ノルドールと、闇に堕ちた人間と――


……その何者とも殺しあったことのない……日々は生死の境にあれど、それでもどこまでも、何の宿命も背負わぬ若い、シンダールが目の前にいる。
それがどれほど素晴らしい、在りえないことなのか、本人はわかっているのだろうか。ただ伸びやかに、双葉を伸ばして自在に歌って、日々を暮らしているけれど。
――さてもこの身に授かった我が子の、稀有なる定めよ。
今更ながらにそれを思い知り、スランドゥイルは手を伸ばして、目の前の我が子の薄い金の髪をひとふさ、掴んだ。
「父上?」
さえずる若い声。
「そなた、裂け谷に行ったことはなかったな」
「残念ながら、霧ふり山脈の向こうには、まだ一度も」
「行ってこい」
「え?」
「我は、お偉方やお高いノルドの顔など今更見たくもないが。そなたはそなたで、好きなものを好きになって生きていけば良い。どうせ重荷の少なき身よ」
「……裂け谷へ?」
「ペレジル殿に言ってやれ。奥方を喪ってよりのち、悪い夢ばかり見ておるならば、添い寝のひとつもいたしましょうか、とな」
そんな、下手な冗談のひとつも言ってから、スランドゥイルは軽やかですらある足取りで、女官のもとへと歩み寄った。
「着替えを。我のは常の服を、あれのはせいいっぱいまともに見える旅装を」
一生行くことが許されるはずもないだろう、と思っていた裂け谷への道が、唐突に開けてしまった。そのことに呆然としていた王子が、はっと気がついて周囲を見た時には、死んでも逃がすものかといった気合十分の女官たちが、美しい着替えを携えて、じりじりとにじり寄っていたところだった。






夢の中に、己の視点でないものが刹那、割り込んでいたような気もした。エルロンドはルシアンの忘れ形見とも言われるその端正な眉をひそめ、寝台を降りるとゆっくりと、涼風射し込む窓際に歩み寄った。
彼にとっては父の面影――明けの明星が、東の空に輝いている。夜明けが近い。空は深い藍に染まり、薔薇色の女神の訪れを待ち望んでいるように見えた。
訪れる悪夢を、分かつ相手はもういない。半身とも言うべき兄弟も、半身となってくれた妻も、それぞれの在るべき場所へと去っていった。息子や娘に、この恐ろしい幾多の記憶を植えつけることなど、あってはならぬことだった。
父に母に、問い掛けようとも……星は答えを返さない。
――闇は日々濃くなりまさりゆくというのに……美しき、賢き者たちは去り逝くばかりか。
それとも、美しきものが去り逝けばこそ、闇の威勢が強くなるのだろうか。
年を経るごとに重くのしかかる己の定めに、だが、何も憤りを表わすことはなく、ただ静かに瞳を閉じた時、不意に風が吹き込んだ。


ヴァラールの御歌が世界を震わせたその日より、絶え間なくこの地にありながらなお、風は常に若々しく、澱みと停滞を振り払う。
その風に、夜闇の髪を乱させながら、エルロンドは瞳を閉じたまま、じっとそのみずみずしい緑の香を味わった。
「北東よりの風か……」
魂にかすめるようにして、予感が彼に吹きつける。
上古の幾多の種族のような、まばゆく輝く存在の予感ではなかった。逆に底知れぬ暗黒というわけでもなかった。中つ国の、悠久たる時の流れの中では、ちっぽけな、ささやかなものとの出会いの予感であった。
それでも、エルロンドはその口元にわずかな笑みをのぼらせた。
あの日――親しく言葉をかわすことも最後となったあの大戦のさなか、感じた「何か」が、もう少し確たる形をとって、エルロンドの鬱々と傷む心を慰める。
何かが、はじまったのだろう。……歴史の中ではささやかな、だが、幾人かのエルフの運命を、やさしくかなしい方向に変えることあまりにも重大な、何かが。
「……客が、来るやもしれぬな」
そうつぶやいたエルロンドの瞳を、最初の曙光が洗い、物静かに細めさせた。