シンダールのつむぐ歌を聴くのは、ひさしぶりのことだった。闇の森のシンダールは、本当にもう、数えるほどしかいなかったから、レゴラスは同族の歌を聴く機会はほとんどなかった。
父の歌う歌は好きだった。だが父は、歌つむぐ民シンダールであるにもかかわらず、滅多に歌を歌うことはなかった。
「王も、昔はよく歌われたものです」
ひとりの年経た森の民が、そうひっそりとつぶやいたのを、レゴラスは知っている。
「そう、よく歌われるお方だったのです、この森に参られた頃はまだ。若く力に満ちて、よく歌われたものです……
 奥方とご一緒に」
レゴラスは、ダゴルラドの戦ののちに、己を産んでからマンドスへ去ったという母の顔を知らない。父と並んでベレグに弓を教わり、アムロスやケレボルンと酒を飲んでは歌い騒ぎ、けど、メリアンがシンダールの女性にあまねく教えたレンバス作りの技だけは、呆れるほどに下手であった、そんな、変わり者の母であったという。父は、エルフの中では一風変わったレゴラスを指して常に、「母の変人の血が濃く現れたらしいな」とひどいことを言ったものだ。変人というなら、父とて負けてはいないとレゴラスはその度に思うのだったが。
妻を変人扱いしつつも、父は歌を慎んだ。レゴラスは、その一事だけで充分、父と母の絆を感じ取ることができた。幼い頃から、母のことを聞きたがれば必ず父は、ただ一言で片づけてきた。
「しあわせな女であった。……それ以外のことは知られずとも良いことだ、とあれは言うたのでな」
レゴラスに母が残したのは、その一言だけだったのかもしれない。ならばそれだけで良いのだろう、エルフらしく達観した面を持つ幼少のレゴラスは、それ以上母のことを聞くことはなかった。


「レゴラス殿、」
声をかけられてゆっくりと視線を上げる。自分は夢の小道へ分け入ってしまっていたらしい。
目の前に膝をついて自分を覗き込んでいたのは、この森に入ってから特に仲良くなった国境警備兵――ハルディアだった。
「わたしは眠っていたようだね、ハルディア」
「どうぞそのまま。眠っておられるとは気づかず、声をかけてしまいました」
「うん、ありがとう」
ふわりと身に軽い毛布が手渡される。暖をとるというより、肌触りを楽しむためのものだ。レゴラスは心地よさそうにそれに包まると、ごろりとタランの上で転がった。くすくす笑って猫のように伸びをする。
「少しでも、明るい顔をされるようになったのは嬉しいことです」
ハルディアは真似をして、毛布に包まり隣になつっこく寝転がってきた。レゴラスほどではなくても、若いエルフなのだと思われた。広いタランのあちこちで、歌を歌ったり、酒に酔ったり、思い思いに夢の小道にさまよったりと、エルフたちは好き勝手にそれぞれの時間を楽しんでいる。こんなゆったりした時間が、あちこちのタランで繰り広げられているのだった。
だがこれは、能天気な闇の森のエルフであるにも関わらず、ミスランディアを喪ったことによって悲嘆に歌もつむげないほどに、胸を痛めていたレゴラスを、元気づけるためにつくられた雰囲気なのかもしれない。ハルディアは随分と、こまごまとレゴラスの面倒を見てくれたものだ。
「なつかしい歌を聴いたから、なんだかとても安心できたんだよ」
「ああ、この地にはいまだ、ケレボルン様とガラドリエル様につき従う歌の民が多く在りますから」
「うん……わたしの森の同胞は随分と少なくなってしまった。わたしの森は、シルヴァン・エルフのものだから、シンダールはもともと少なかったしね」
闇の森のシンダールは、ダゴルラドの会戦において、シルヴァン・エルフたちの先頭に立って戦ったのだ。彼らには、己がシルヴァン・エルフたちの兄姉であるという自覚があったのかもしれない。そして、シルヴァン・エルフよりもシンダール・エルフの方が、元から低い生殖率が更に低く、そして、西方への憧れや、中つ国への絶望も、彼らのほうが早かった。
当時闇の森の王は、スランドゥイルの父オロフェアであり、ロリアンの王は、アムロスの父アムディアであった。共に、ドリアスより落ち延びたシンダールであった。
(死んでいったさ、皆。ぼろきれのように引き裂かれてな)
レゴラスの耳に、父のその声と共に甦るのは、常に、夜光の杯の砕け散る硬い音だった。無表情なおもて、瞳だけが凄惨な光をたたえて、父はあの言葉とともに杯を床に叩きつけた。レゴラスはその足下で、じっと父の膝に頭を預け、砕けた杯が灯りをゆらゆらとはじいている姿を、じっと、言葉なく静かに眺めていた。
たった一握りの、わずかなシンダールだけを引き連れて、あの広大な森に落ち延びた父と祖父。
吟遊詩人たちが歌に歌うような、名だたる勇士は闇の森にはいない。一行の詩にすら、謳われることのない無数の死。父はその無名の死に憤っているように思えた。輝かしい神話の中の、無名の、無数の、とるにたらぬエルフたちの死に……
「……悲しそうな顔をなさいますな」
ハルディアが髪を撫でて来る。疲れたように嘆息し、レゴラスはおとなしく床に伏せ、人の手になつく野の獣のように、ひととき瞳を閉じて、年上のシルヴァン・エルフの手に己の髪をゆだねた。
レゴラスほどに若いシンダール・エルフなど、もう、中つ国には見られないかもしれない。スランドゥイルと「同世代」のアムロスに子はなく、ケレボルンにいたっては、孫すらレゴラスより年上だ。そしてその孫に子供はない。
それでも、久しぶりに聞く同胞たちの言葉は、この闊達な、だが今は悲歎にくれる、若い王子の心を慰める。
「……ありがとう、ハルディア」
「いいえ、このぐらいなら――……?」
不意にタランが静まり返ったのに気づいて、レゴラスとハルディアは同時に視線を上げた。
そして驚いて身体を起こし、その場に膝をついて坐りなおす。
「そのままで構わぬよ」
小さく笑って、タランにゆるやかに昇ってきたエルフは片手を挙げてみせた。
「……ケレボルン様」
驚いたようなささやきがタランに広がる。
「楽しい宴の邪魔をしてしまっただろうか。余はこう見えても歌つむぐ民のひとりだ。歌を聴くとつい、こうして出向きたくなってしまう」
レゴラスを緊張させまいとしてか、ケレボルンはやわらかく言葉をつむぐ。
だが、中つ国にはもうほとんど見られない、上古のシンダールの姿に驚いたシルヴァン・エルフたちはすっかりかしこまってしまった。
ハルディアとて例外ではない。
困ったように眉を寄せたケレボルンに、思わずレゴラスは小さく声を立てて笑った。
「ケレボルン様はいいなぁ、わたしの父などは、とてもじゃないけどこんなに敬われてはいないのだもの!」
「おや、スランドゥイルは軽んじられているのかね」
物怖じせぬ――この空気を砕こうと、敢えてそういう態度をとってもいるのだろうが――若き王子の言葉に興味を覚えたらしく、ケレボルンは歩み寄って、レゴラスの隣に座り込む。
森の王の、思いがけぬ態度に驚いたシルヴァン・エルフたちも、話題にひかれて王と王子の周りに集まってきた。
「だって、わたしの森では何かちょっとしたお祝いでもあると、すぐに王が宴を開くものだから。毎日が無礼講なんですよ」
「なるほど、我が旧友はちっとも変わってはおらぬようだ」
「もうずっとお逢いしていないのですねぇ、父もこの森に来ることができたらよいのだけれども」
「すべてが終われば、再び相見えることもできよう。
 あの広大な緑森の中心で、すべてが終わったら出会おうと、約束したのが昨日のことのようだ」
「そんな約束をしておられたのですか」
「メネグロスの輝きが我らを満たしていた頃から、我らは友であったよ。わたしは先にドリアスを去り、かの都の陥落には立ち会っていないが、アムロスやスランドゥイルは、それぞれの親や家族と共にこの地へ落ち延びてきたのだ」
そこまで話してから、ケレボルンは、レゴラスが幼子のように目を見張って、じぃ、とその話を聴いていることに気づき、目元にやさしい微笑を浮かべて立ち上がった。
「宴の場に出ると、年よりは昔語りをしてしまって良くない。良ければ余のタランへ参られよ。余もスランドゥイルの話が聞きたいものだ」
「喜んでうかがいます」
「ああ、でも、宴が一段落してからで構わぬよ。ハルディアが淋しがるであろうから」
「王よ!」
赤くなったハルディアをはやして周囲がくすくすと笑いを立ち上らせる。
「ハルディアは、言うことを聞かなくなった弟どもの代わりができたようで、嬉しいのであろう」
「よいよい、我らは君の恋路を邪魔したりする気はないよ、ハルディア」
「い、いい加減にしてください、他国の王子の前で!」
年上の者たちにからかわれて、跳ね起きるように立ち上がるハルディアを、レゴラスはふわふわと笑って見上げていた。彼の父王が見たならば、「この孺子は、甘え気質にも程がある」と後ろ頭を小突くような、そんな瞳をして。


エルフに時間の感覚は希薄だ。待ち合わせをすることも少ない。レゴラスはゆるるかに途切れることなく続く宴から、ハルディアと一緒にこっそりと抜け出し、ケレボルンとガラドリエルのタランへと向かった。
「そういえば、ケレボルン様は随分と、あなたの短剣にご興味を示されたようでした」
ふたり連れだって、音もなく、タランからタランへと張り巡らせた綱を渡る途中、ふとハルディアがそんなことを言い出す。
レゴラスは「そうなのかい?」と首を傾げてから、彼が持つ短剣が、スランドゥイルから与えられたものであったことを思い出した。
弓はさすがに携えていないが、短剣は戦時中の常として傍らに必ず帯びている。闇の森のエルフにとって、それはすでに癖のようなものであったから、ガラズリムたちはそれを許した。
「……ハルディア、一緒に来てもらってもいいかなぁ? わたしはこの短剣を持ったまま、ケレボルン様のところにお伺いしようと思うのだけれど」
「構いませんよ。送りましょう」
ドワーフに潔く頭を下げた態度も、カラス・ガラゾンへ赴くまでのてきぱきとした心配りも、レゴラスに、このシルヴァン・エルフを好もしく思わせるには充分だった。レゴラスはハルディアに身を寄せて、安心したように再び歩を進めた。


レゴラスはタランの下にとどまり、ハルディアに先に、ケレボルンへと短剣のことを伝えてもらった。ハルディアは降りて来て屈託なく、レゴラスと場所を替わって言った。
「スランドゥイルの子なら縁者のようなものだから、構わずおいでなさい、とケレボルン様はおっしゃいました」
「ひとりで?」
「久しぶりに同族にお会いできて、嬉しいのでしょう、あのお方も。特に北の森からは、アムロス王の件があって後、ほとんど客も見られなくなりました」
「ハルディアはアムロス王を?」
「……立派なお方でしたよ」
「そう……」
いとしいニムロデルを連れ、大海の向こうへ平和の国を求めて、このロリアンの地を去った、アムロス――ガラドリエルとケレボルンがこの地に来る以前の、シンダールの君主。
ハルディアは、モリアの悲劇があってもなお、ロリアンを動くことを選ばなかったシルヴァン・エルフなのであろう。この地を去ったアムロスへと抱く想いは、複雑なものがあるに違いない。
だが、
「あなたは、歌つむぐシンダールの、あのきれいな声でとてもやさしく、アムロスと哀れなニムロデルの歌をうたってくださった。
 その時よりわたしは、あなたのためなら大抵のことはしてさしあげたいと、思っているんですよ」
「……ありがとう、ハルディア」
「お礼を言うのはわたしの方でしょう」
互いの頬にキスをして、にこりと控えめに笑い合い、そしてレゴラスはタランを昇ってケレボルンの個室へと上がっていったのだった。


ケレボルンの傍らに座し、低い声で語り合っていたガラドリエルが、目元におっとりと笑みをはいてレゴラスを振り返り、頷いてみせた。
レゴラスは、まるで頭の上がらぬ親戚の家に来た人の子のように、少しぎこちなく頭を下げて挨拶をする。
「おくつろぎのところ、誠に申し訳ありませぬ、光の奥方様――」
「そのようにかしこまらずとも良いのです。スランドゥイル殿のように、『おったのか、光の君よ』で構いませぬよ」
「と……とんでもない」
蒼ざめて言葉もないレゴラスを、面白そうに見つめるガラドリエルと対称的に、気の毒げにケレボルンは苦笑する。
「参られよ、スランドゥイルのめぐし子殿。かくも年経るまで余の元に遊びに来てもくれぬとは、そなたは大層な箱入りと見えるよ」
「一度来てはみたかったのです、それは本当ですよ」
「わかっておる、昨今は往来も楽ではなくなった」
ケレボルンはレゴラスを手招く。同時にガラドリエルが立ち上がった。
「シンダールの殿同士、積もるお話もおありでしょうから。わらわは少し外しておりましょう」
「すまぬ」
「いいえ」
タランの降り口で振り返ったガラドリエルは、不思議そうに目を見張って自分を見返すレゴラスの、その常磐緑の瞳をじっと覗き込み、しばしたたずむ。
だがやがて、いつくしむような、やさしい微笑がその唇にほの見えた。
「そなたのまなこは澄んでいます。まことエルフの石の、緑葉の光の如くわらわには映る。
 そなたならば、他種族の者と長くともに在るこの旅においても、まなこが曇ることはありますまい」
ゆっくりとその瞳を伏せたガラドリエルに、遠い郷愁と、わずかな悲歎が浮かんでは消える。輝かしき黄金の森の奥方は、一時、ひどくか弱い、やさしい存在に見えてレゴラスはひとり、首を傾げた。
「まこと、シンダールとは優にたおやかな種族です。……そなたや殿を見ていると、わらわはそう思うのです」
ノルドールの激情を秘めた、女神に等しき上古の女は、そうおだやかに囁いて、ゆっくりと階段を下って行ったのだった。


しばらくそれをぼんやりと見送るレゴラスを、しばし見てケレボルンは、「こちらへ」と、先ほどまでガラドリエルが座っていた椅子を指差した。
我に返ったレゴラスが慌てて椅子に腰掛けると、ゆっくりと瞳を覗き込み、「いかがしたかね?」とやさしく尋ねる。
どこか、幼い子にでも問うようなまなざしは、だが、ケレボルンとレゴラスの年の差を考えれば、そう不思議なことでもなかった。
レゴラスは小さく首を振る。
「なんでもないんです。ただ……」
「ただ?」
「父のことや、森のことを思い出していて」
レゴラスは森を長く空けたことがない。淋しい以上に、彼は不安だった。……置いてきた森が、帰る頃に廃虚になっていないと、誰が保証してくれるだろうか。
「この森は安らかですね。わたしの森は、わたしという小さなひとりのシンダールがいないだけで、闇が深くなってしまうような、そんな、はかない森なのです」
ガラドリエルは、レゴラスを迎えるためにケレボルンの元を訪れていたらしい。彼のための新しい杯がきちんと、目の前にはすでに置いてあった。ケレボルンはそれに薄めの蜂蜜酒を満たし、レゴラスの前に置いた。
「わたしの森の民はみな、がさつで、乱暴で、喧嘩っぱやくて、歌もこの森の民ほどにうまくはありません。大蜘蛛を追い払うことすらできない。
 ……けどわたしはなぜか、そんな森が大好きなのです。この森のようになってほしいとは、別に思わないのです」
「それは、そなたがシルヴァンの中で生まれ、育ったシンダールだからなのだよ」
ケレボルンはレゴラスに蜂蜜酒を持たせた。レゴラスは両手でカップを包み、それを一口飲んで吐息をついた。暖かさが喉から胃を満たしていった。
「そなたは、森の息吹の中に育った純血のシンダールだ。ドリアスを知らず、西を知らず、だが、シルヴァン・エルフそのものではない。シルヴァン・エルフを、兄のような眼でいつくしむことも知っている」
レゴラスは子供のようにあどけなく目を見張る、先程と同じ表情でケレボルンを見上げていた。ケレボルンの脳裏に、同じ瞳をしたひとりの若者のことが自然と思い出された。
それは白金の髪をした青年だった。スランドゥイルやケレボルンよりは、少しだけ世代が若かった。ドリアスが炎に包まれたあの日、父に連れられたあの青年は、スランドゥイルがそうであったように、西の港へは赴かず、ドワーフ道を遠く、一握りのシンダールだけで落ち延びていった。
血と炎と黄金に彩られた、華やかな歴史の表舞台に倦み疲れ。彼らは森の、シルヴァン・エルフの暮らしを望んで去っていったのだ。
ケレボルンの推測が確かなら、レゴラスの母となった女性は、ドリアスを落ち延びた時すでに、スランドゥイルに付き従っていた女性であろう。スランドゥイルは婚姻しようとはしなかった。彼に残る予見の力は、陰鬱な何かをスランドゥイルにもたらしていた。彼は頑なに、血筋を残そうとはしなかった。
すべてのシンダールが倦み疲れた、この第3紀に入ってから、彼が子を為すなど、誰が思っただろうか。あの斜に構えた、皮肉屋がまさか、と誰もが驚いたものである。
対称的に……同じように落ち延びていったあの青年は、どこか夢見るような瞳をした、まっすぐな、曇りのない泉のような青年であった。
異種族に対する偏見もなく。シルヴァン・エルフへの優越感もなく。
……シルヴァン・エルフの乙女に、身を滅ぼす恋をした、甘い瞳のやさしい青年……
「……アムロス」
ぽつりとつぶやいたケレボルンに、不思議そうにレゴラスは眼をまたたく。常磐緑の、緑葉の瞳を。
「ケレボルン様、」
「いや、……その、」
そういえばスランドゥイルに付き従った女は、アムロスの遠い縁者かと思い出す。もっとも、そう言うならば、彼らシンダールはみな、どこかで血が繋がっているのだが。
言葉につまったケレボルンは、ふと、レゴラスの腰の短剣に目を留め、そしてそれに手を伸ばした。
「……ケレボルン様?」
「やはりそうであったか、この剣は」
おとなしく剣を預けたレゴラスの目の前で、ケレボルンはすらりと鞘を払い、灯りにその刃をかざす。そして銀の握りの透かし彫りをじっと、確かめるように何度か握り、眺めた。
「エルロンド卿は何もおっしゃいませんでした」
「エルロンドは何も知るまいよ」
「何かよくないいわれの剣でしょうか」
レゴラスが少し眉を寄せる。その表情から、彼がこの短剣を愛していることがよくわかった。
ケレボルンは安心させるように笑ってやると、かちり、と元通り鞘に剣を収めてレゴラスの膝の上に置いてやった。
「それは、昔はこのロスロリアンの剣であったのだよ。わたしがスランドゥイルに贈ったものだ」
驚きにはっ、と息を飲んだレゴラスから剣に視線を落とし、低い声で言葉を継ぐ。
「アムロスが、ここを去る時に残していったドリアスの品だ」
「……アムロス王の……」
「そなたはスランドゥイルに、アムロスの歌をせがみはせなんだか?」
レゴラスが断片のみを歌ったアムロスの歌は、このロスロリアンの地より、細細と闇の森に伝えられた歌とは少しだけ違っていた。ケレボルンはそこに、スランドゥイルの歌う歌の癖を見た。
最近は歌うことも滅多にないと聞くあの気難しい王が、レゴラスにせがまれて歌ってやった歌が、アムロスとニムロデルの歌だったのだろう。
スランドゥイルが何を想って、その歌を歌ってやったのか。レゴラスの若い心にはその頃、同じ森のシルヴァン・エルフの乙女に、淡い初恋を覚えたことなどがあったのかもしれない。父と同じ境遇の王について、レゴラスが知りたがったのかもしれない。
ケレボルンはノルドの姫と恋に落ち。スランドゥイルはシンダールの女を傍らに置き。
そしてシルヴァンの乙女に命を捧げたアムロス。
「そなたは、まっすぐな眼をしている。そこが、アムロスに似ているのであろうな」
ケレボルンはレゴラスの膝の上の剣を、やんわりと叩いた。
この緑の若葉も、苦しい恋をするのだろうか。曇りのない眼は、想ってはいけないものを、一心に想うのではないだろうか。
ロリアンのアムロスが死んだと聞いた後。ガラドリエルは、モルドールへの備えとして欠かせぬこの森を重んじたがゆえに、この地に赴いたが。
ケレボルンが赴いたのは、それよりもまず、ここが旧友の地であったからだ。
人づてにこの剣をスランドゥイルに贈ったのは、甘い感傷の為せる業だったかもしれない。ダゴルラド以来、行き交うこともなくなった旧友へ、とにかく、なにか繋がりを持っていたくて、そんな自己満足で贈ったものであったかもしれない。
それをスランドゥイルが、我が子に持たせ。持たされた我が子は、アムロスの愛したニムロデルの川を渡ってこの地へやってきた。エルフならざる者たちに、ニムロデルの歌を歌って聞かせ。父の弓を背に負って。
長い、長い時がたったのだ。彼らシンダールの身の上に。
「ケレボルン様」
ドリアスに彼があった頃の彼より、さらに若い緑の若葉が、ぎゅっと、膝の上の剣を握ってケレボルンを見上げる。
ケレボルンが見返すと、途方に暮れたような緑の眼がゆっくりとまたたいた。
「ケレボルン様、わたしは何をしたら良いのでしょう?」
あまりにもまっすぐな質問に、つい、口元がゆるみ、手を伸ばして髪を撫でてやる。
「わたしは、シンダールとは名ばかりの、小さな第3紀のエルフに過ぎず、グロールフィンデル卿がされたように、バルログに立ち向かうこともできず、ただ震えているだけだったのです。
 父やあなたや、亡くなったアムロス王のような、大きな立派なエルフではない。どうして、わたしがエルフの代表に選ばれたのでしょうか?」
不安でいっぱいの胸の中を覗き込み、ケレボルンはその若さに今更ながらに、己の内がほのあたたかくなる感触を覚えて笑みを深めた。
絶えず髪を撫でながら、じっとその瞳を覗き込み問う。
「そなた、ドワーフは好きか?」
「ドワーフ?」
意外な単語に眼を瞬いて、だが、レゴラスは、撫でる手に心地良く髪を預けて素直に応える。
「最初は、好きではなかったのですけれども。今はよくわかりません。確かにドワーフはおかしな種族だけど、父が言うほど、憎しみに満ちているわけではないような気がする。
 特にわたしの仲間のあのギムリを見ていると、わたしはとても不思議な気持ちになるのです。もっと見守っていたいような、もっといろいろと知りたいような!」
「それこそが、そなたが選ばれた理由ではないのか?」
「え?」
髪から手を離し、父と母(であろう女)のもっとも良いところを受け継いだような、その顔に手を添えて、緑の瞳に見入る。
「わたしも、スランドゥイルも、エルロンドも、グロールフィンデルも、……我が室ガラドリエルも、遠い西方のキアダンも。
 すべて、そなたが『立派なエルフ』と呼ぶ者たちは、過去に囚われて生きている。人の数え方で数千年、下手をすれば一万年近く昔の過去を、いまだに引きずり、身動きできなくなるまでに背負って生きているのだ」
ケレボルンはわかりやすい喩をしばし考え込むように視線をさまよわせ、苦笑とともに頷いて言葉を継いだ。
「つまり、わたしはドワーフは嫌いだし、スランドゥイルはノルドールが嫌いなのだよ。それを改めるには、わたしたちが今迄生きてきたと同じ程の時間を必要とするであろう」


レゴラスは、父が抱く無数の葛藤のことを思い出して視線を伏せた。
ダゴルラドの怒り。冥王への恐怖。遠いドリアスの悪夢。死んでいった多くの友。……先に旅立った女。
「そなたがまっすぐに育ったのは、父上が、己の過去をそなたに押しかぶそうとはなさらなかったからなのだよ、レゴラス」
父はドワーフを嫌いだと言ったが、レゴラスに、ドワーフを嫌いになれとは言わなかった。父はエルロンド卿に隔意を持ってはいたが、レゴラスに、エルロンド卿とつきあうなとは言わなかった。
闇の森のただ中で。大蜘蛛のすぐ傍らで。奇蹟のように伸びやかに、若き緑葉は育ったのだ。
「このロスロリアンを出て、そなたは遠くゴンドールの地へ赴くことがあるかもしれない。ベルファラスの、ドル=アムロスの港まで、赴くことがあるかもしれない。
 だがそなたの眼は曇りなく、すべての生き物に等しく注がれて偏見を注ぐことはあるまい。なぜならそなたは若いのだ。あの日、アムロスがそうであったように……
 そなたにしか見えぬものが、遠く、地の果てまで広がっているに違いないのだよ」


レゴラスは子供がするように、種族の中では中つ国の最年長に属する、遠い同胞に腕を伸ばして抱き着いた。
「ケレボルン様、」
「良かれあしかれ、これはわれらの最後の戦いとなるであろう、北の森の緑葉よ。
 わたしも、スランドゥイルも、……マンドスにいますアムロスも、アムロスの父上も、そなたの母君も、そなたの祖父君も。
 中つ国のエルフの最後の冒険を、シンダールの者が成し遂げることを、喜んでいるに違いない。
 そなたはためらうことなく、後ろを振り返ることなく、定命の子を援けて前へ進みなさい」
「はい……はい、ケレボルン様、必ず、」
何度も頷くレゴラスの、その背を撫でさすりながらケレボルンはひとり、ひそやかにつぶやいてそして笑った。


「……息子というのも、良いものだな」


そうやもしれぬ、とでも言いたげに。
乗り出して抱き着いたレゴラスの膝から、やわらかく滑ってアムロスの短剣は、かたり、と床に落ちついた。