闇が果てなく続くかと思われた。時真昼と見えながら、太陽の光は南の闇に覆われて光の欠片すら落とさなかった。
「陛下、ぶなの西森に火の手が上がりました!」
「叫ぶな、聞こえておる」
樹上からの見張りの声にそう言い返すと同時に、スランドゥイルは無造作に弓を射放した。
ゲッ、ともギャッ、ともつかぬ悲鳴とともに闇の向こうでオークが一匹、どさりと倒れる。
闇の森の王族は、その死の瞬間までも最前線に立つべし。それはスランドゥイルの父オロフェアが定めた、絶対にして厳然たる掟だった。もっとも、現王スランドゥイルも、そしてその王子レゴラスも、その掟に異を唱える心地など、微塵も持ち合わせてはいないのだったが。
「オークどもめ。小癪にも持ちこたえるものよ」
「向こうもそう言っておりましょうな」
「違いない」
側近の軽口に頬の端をひきつらせるようにして短く笑い、スランドゥイルは弓を捨てる。
「やはり弓は性に合わぬ。我は剣が良い。オークめ、近づいてくれて有難い限りよ」
「弓では奥方や殿下に勝てぬからでは?」
「我に殺されるひとりめのエルフになりたいか?」
すらりと双の小剣を抜く。確かに、弓の腕では、亡き妻や我が子の方が勝っていた。だが剣では未だに一本も取らせはせぬ、という確たる自信が王にはある。
森の民らしく金属の鎧をほとんど纏わぬその姿で、無造作に突撃するとオークの只中に飛び込んだ。
「王よ!」
「とっとと来い」
「い、いかん、皆の者王に続け! ていうか誰か止めろ!」
「またかよ!」
最後に思わず叫んだ者の声を、しっかりと耳に刻んでスランドゥイルは闇覆う樹下を駆け出した。
不意に傍らに何かが飛び降りてくる。
「陛下!」
樹上にいた見張りの者か、と声で検討をつけるまでもなく「いかがした」と走りながら問うと、ぴったりと傍らを併走するエルフはくるしげにうめく。
「第三弓隊、全滅……!」
その手が漆黒に塗られた矢を差し出した。
樹上の見張りに向けて、弓隊の最後のひとりが、全滅を報せるために射掛けたものだった。
「なに?」
心澄んだ時であらば、スランドゥイルはこの森で起こった異変なら、たとえどんなに小さくとも感じ取ることができる。だが、戦に閉ざされた今の状況では、とてもその異能を発揮する余裕はない。
スランドゥイルの眉間に怒りの閃きがぴしりと皺を作る。
「ええい、レゴラスは何をしておるか!」
併走者は、王の怒声にやはり! と首を縮めた。
「はっ、も、申し訳ありま――」
とっさに謝りかけて、ん? と首をかしげる。かしげながらも弓を射放しオークを撃ち抜きはしたが。
スランドゥイルがぴたりと歩を止めた。
「……あのぅ、王よ、」
おそるおそる、といったように周囲の兵が声をかける。
「わかっておる」
「その、レゴラス様は今モルドールに――」
「ええい、皆まで言うな!」
八つ当たりで、その場の最後のオークを二つに切り下げた王の、声に微量の照れが含まれていることを感じ取り、エルフたちの周囲に短く笑いが咲いた。
焼かれる木々の悲鳴の中で、増える同胞の屍の傍らで、それでも、エルフたちは苦笑と共に刃を構えなおす。
「いないものは、仕方ありませんな、陛下」
「我らで何とか、穴を埋めますゆえ、お怒りを納めてください」
「きっと美味い酒を担いで、じきに戻って来られますよ」
「……いや」
ひゅん! と両手の双剣を振って返り血を振り飛ばし、王の眼は新たな獲物を探し、その口元は笑みを刻む。
「元はと言えば、あの小僧めがぐずぐず手間取っておるから、こうもオークふぜいに遅れを取るのよ」
「はぁ、まぁ、でも、相手はあの『眼』ですからね、そう王子におっかぶせるのも申し訳――」
「決めたぞ」
「は?」
「この戦いが終わり、闇の森などという名をきっぱり返上する日が来たら。
 森の名は『緑葉の森』としてやろう」
緑葉の森。
森の中で彼らがもっとも愛するものの名を、彼らは舌の上で転がして、そして、はじけるように笑い出した。
「いいですね、エリン=ラスガレンですか!」
「それは王子嫌がるだろうな、恥ずかしいとか何とか言って!」
「今から想像できますね、『やだよそんなみっともない!』と顔を真っ赤にして怒る坊やの顔が!」
「どうだ良い名であろう」
王の耳が、森を無粋な音を立て踏みしだく新たな敵の足音を聞きつける。同時に、その場のエルフたちが一斉にそちらの方を向いた。
「良い名です」
「本当に、王の親ばかっぷりが未来永劫残りますよ」
「よくぞ申した。そなた、この戦が終われば1000年の間、便所掃除に回してやるぞ」
「ひぃ! オーク10匹狩るから許してください!」
「ふ、」
しゃり、と双剣がこすりあわされて鞘走るような音を立てた。
「まずは生き残ってこそよ」
「まったくです」
「要するに、この戦ってのは我らの愉快な改名運動ですね!」


そしてエルフたちは一斉に走り出した。
3000年前から変わらぬように、彼らの王を筆頭に立て。








豪雨はやみ、厚くたれこめた雲の切れ間から黄金の陽光が覗いていた。
その陽光に照らされるように、白金の長い髪を乱してレゴラスは乱戦の中を戦っていた。
「ああ、髪が引っかかる! 結んでおいたのにいつのまに!」
「そんなこと言ってる場合かね!」
隣で斧を振り回すギムリが呆れてレゴラスを見上げる。
「だって、敵から痛みを受けないのに、自分の鎧から痛みを受けるって馬鹿みたいじゃないか!」
至極大真面目にそう言い返したレゴラスが、ふと、何かに呼ばれたかのように、天を――正確には、北東の方角を眺めやる。
「どうしたね?」
ギムリの声にも反応しない。一瞬、完全にその姿は隙だらけとなった。
「レゴラスっ」
どこかでエルロンドの双子の声がした。
ギムリの眼に、きりきりと弓を引き絞るひとりの東夷の姿が映る。
「レ――」
絶叫しかけた時、ギムリは信じられないものをそこに見た。
ぎゅっ、とレゴラスが眼をつぶったかと思うと不意に身体を折り、


くしゅんっ!


大きなくしゃみの音と、一瞬前までレゴラスの頭があった場所を、矢が飛び抜けたのは同時だった。
「……は?」
エルフのくしゃみなど見たこともない――当然である、彼らは風邪もひかず毒にも強いのだから――ギムリが、思わずその場に呆然と立ち尽くす間に、レゴラスは何事もなかったかのごとく、頭を上げると同時に一本の投げナイフを東夷に投げつける。
そして短剣をくるりと構えなおして、ギムリを見下ろした。
「だめだよギムリ旦那、ぼんやりしてちゃあ!」
「……それはこっちの台詞だよ」
ため息をついてギムリも斧を構え直す。
「鼻がむずむずする」
心配して駆け寄ってきたエルロヒアとエルラダンに、レゴラスはとりあえず鼻をすすりながら訴えた。
なんだそりゃ、と呆れ顔の双子はそれでも、律儀に返答する。
「戦場は砂塵と血臭のごった煮だ、むずむずしたってしょうがないさ。あるいは――」
「誰かが噂してるとか」
「あ、」
レゴラスはくすん、と鼻を鳴らして再び、北東を見た。
「そうか、……きっとそうだ」
その声にかすかな湿りを感じて、ギムリはああ、と同じように北東を見た。
「そうだよ、レゴラス旦那、きっとあんたの故郷で今頃、放蕩息子がいつ帰ってくるかって噂してるのさ」
本当は、そんな呑気な噂話をしていられる状況とは思わないけど。
もしかしたら、絶命する瞬間の民の悲鳴が、レゴラスに届いただけかもしれないのだけど。
自分がはなれ山の民を思うに、しめつけられるこの胸を知っているから、そう、言わずにはいられない。
「……無事だよ」
「ああ、無事だ」
それぞれ北に故郷を持つ双子と、レゴラスと、ギムリはそう言ってうなずきあい、そして、それぞれの武器を構えて再び、散っていったのだった。