「東へ行く」


そう告げられた時、すでに若き公子は抱いた酒瓶を放り出して立ち上がっていた。
「ご英断だ、親父殿」
「そう言いつつ、そなたの眼は待ちくたびれたと語っているようだが」
「俺はあの森を見たのでな。どうしても待ちきれんのだよ」
その物言いに、オロフェアはその藍色の眼差しをふと見開く。リンドンへ落ち延びてより、鬱々と酒瓶を抱き、ごく少数の友を除いては誰とも会おうとすらせぬこの若き末の子が、これほどまでに素直に何かを焦がれる様を見るのは実にひさしぶりだった。
「――あの森は私の森ではなくそなたの森なのやもしれぬな」
「森は森のものさ。俺のものでも親父殿のものでもあるまいよ。で、いつ発つ」
「すぐにでも」
父の即答に、子は片眉を上げてみせる。
「……またノルドの輩と何ぞやりあわれたか。俺の父ながら短気は直られんな」
「同じ空気を吸うも汚らわしき輩よ」
「天が下、空も大気もみなひとつだ。その大気を拒めば死ぬだけだろうに、いっかな丸くならんお人よ」
息子が生意気にも、軽口にかこつけて「憎悪を捨てないといつか死ぬぞ」と忠告したことに、父は気づいていた。気づいていたが、その言を受け入れるつもりはなかった。ドリアス創建の頃より王とともにあったオロフェアにとって、そのドリアスを奪った者たちが許せるはずもない。ナウグリムしかり、ノルドールしかり。そのノルドールと同じ街に住まねばならぬこのリンドン暮らしは、古参のシンダールたちには耐えがたき屈辱ととれるのだろう。
「この際ゆえ言っておく、我が子よ」
オロフェアはスランドゥイルに指を突きつけた。
「憎悪を捨てることと、憎悪から逃げることはまったく違う。そなたはシンダールの恨みの声を背負うことから逃げておるだけだ」
しばし無言の時間があった。だがやがて、スランドゥイルは「ああ」と、同意とも嘆息ともつかぬ声を漏らして緩慢に、床の酒瓶を拾い上げた。殆ど中身も残っておらぬ酒瓶が、拾い上げる手にはひどく重たげであった。
「……多分、親父殿の言うことは正しいのだろうよ。今までも……これからもな」
清廉潔癖たる文官のオロフェアの主張は、確かに常に正しかった。彼は自分にも他人にも平等に厳しく……それがゆえに許せないものを多く持ちすぎていた。その、取りつく島もない冷たさが、時に、シンダールらしからぬ荒き魂を傷ませるスランドゥイルに、言いようのない息苦しさを感じさせるのだった。
「私に何を期待しているのか、我が子よ。他所の親御のように、べたべたと甘やかして育てて欲しかったのか」
「やめてくれ、気色の悪い。笑み崩れる親父殿など想像もつかん」
「当たり前だ、我が子よ。私はそなたに甘えのひとつも許すつもりはない」
「……だろうな」
尊敬もし、嫌いでもないのに、時折、スランドゥイルはオロフェアに、突き放されたような距離を覚えることがある。天邪鬼なこの男は、それでも決して弱音を吐くことはなく、甘えもせず、その斜に構えた軽口を投げつけるだけではあったのだが。
酒瓶に鬱々たる眼差しを向けている息子に、オロフェアは鋭く舌打ちをひとつ飛ばして言い放つ。
「そなたが生まれた時、今は亡きそなたの母は言ったのだ。
 この子は長き闇と孤独の中に置かれるでしょう。それに負けぬ強さを育てなければなりません、とな」


森へ落ち延びて後も、覚悟せよ。
そう言い残すと、オロフェアは袖を払ってスランドゥイルの部屋を出て行った。


酒瓶を片手にぼんやりと、その背を見送るスランドゥイルの唇から、ここしばらく忘れていた笑みがふとこぼれる。
「……不器用なお人だな、親父殿」
きっと、我が子の強さを育てるのに、厳しさ以外の手段を思いつけなかったのだろう。
そう思えばそれもわずかに心さびしく、だがやはり、スランドゥイルにとって、あの堅物な父が敬愛の対象であることは変わらぬのであった。


馬には鞍をつけずに行こう、とアムロスは主張する。早くも森のエルフの流儀に親しんだそのやり方を、仏頂面を崩さぬまま、それでもスランドゥイルは結構面白がって真似てみた。
どうせ、馬に頼めば喜んで体を支えてくれるのである。鞍などなくても大した違いはなかった。
二人、ひらりと、まるで1000年もそうして馬に乗っていたかのような顔をして、騎上の人となる。
望む森は峻烈な山脈を二つ越え、滔々たる大河を四つ越えてやっと、その偉容を彼らに許す、はるか遠方の東の地だ。だが森を恋うる若き二人のシンダールの視界には、危険な旅の果てに出逢った蒼き森の姿がくっきりと焼きついて消えようとしない。
「ああ、森が私たちを呼んでいるよ、スランドゥイル」
「急くな。そなた一族郎党すべて置き去りにするつもりか」
「そう言いながら、君だってほら、馬が勇み足を」
見渡す限り広がる、北の霧にけぶる淡い藍と、その地で出逢った朗らかな民を思い出し、二人、気は急いて子供のように馬上でじゃれあう。
「戦いは遠いよ、スランドゥイル。私たちは、あの地でいと久しく平和に暮らすのだよ。憎しみからも、光輝からも、逃れて薄暮にやすらうのだ」
「アムロス、……」
――逃げておるだけだ。
友の甘く輝く声に、父の硬い声が重なってスランドゥイルは瞳を閉じる。
どれほど逃げても、きっと、憎しみも光輝も、それに伴う闇も必ず追ってくるだろう。
そして彼の父は敢然と、滑稽なほど生真面目に、その闇と憎しみに立ち向かう。かつてドリアスがそうであったように、頑なに森を閉ざしてしまえば、わが身ひとつの平穏は守れようとも。きっと父はそうせずに、その頑なさで、その責任感の強さで、我が身を滅ぼしてしまうのだ。
だがその愚直さを、子は嘲ろうとは思わない。
「……アムロス、友よ」
瞳を閉じたまま、はるか東の息吹に耳を傾けて、スランドゥイルはひっそりと囁いた。
「なぁに」
「もし我らがあの森で、まかり間違って子などというものを設けた時には……それは何のしがらみも、憎しみも負わずに生まれてくる子であろうか」
「スランドゥイル……」
言葉を失った友を、瞳開き、やるせなく斜めに眺めやってスランドゥイルは再度問う。
「我らは良い。どうせ因業に塗れた身よ。されど、生まれ出でた子らまでもが、生まれながらに何かを憎むことを定められているものだろうか?」
故郷すでに亡く。
幾千歳を経てやっと、この世に産声を上げてなお。
「我らの子もやはり、我らと同じものを憎んで育つか?」


アムロスは唇を開きかけて、不意に雷鳴の如く直感した。
何気ないこの問いに対する、己の答えこそが、幾千歳先の、何かとても――とてつもなく大きなものの運命を左右するのだということを。
「わからない――けど」
それでも、アムロスは己が常日頃そうであるように、恐れなく、まっすぐに答えるしかなく……また、そのまっすぐな答えでなければ、スランドゥイルは納得せぬだろうという確信があった。
「けどね、スランドゥイル、私は思うのだよ。
 子が何を憎むかは、結局のところ、親が何を憎ませるか――なのではないか、と」
「……親が」
「うん、親が」
おそらくスランドゥイルは今、己の親の姿を思い浮かべているのだろう。有能な、なのに頑迷な、気高い文官肌の、上古のシンダール。
「――親とは、責任の重い生き物だな」
「人生をひとつ産むわけだからね」
「俺にはとても、勤まりそうにない」
つい気が緩んだか、成人もせぬ若き頃の口調に戻って一言、弱音を吐いたスランドゥイルがおかしくて、アムロスは軽やかに声を立てて笑った。
「何を笑う!」
「だって、まだ子供が出来たわけでもないのに」
「出来てから案じても遅かろうが!」
「……そうかな? スランドゥイル、私は思うのだよ。君はそんなに思い煩わずとも、きっと存外、良い父親になるんじゃないかとね」
私自身は子を作らぬような気がするけれど、という続きは言葉にせず、それきりアムロスは、馬のたてがみに優しく手を置く。
「『存外』は余計よ。――待て!」
「行こう、森へ行こう、スランドゥイル! あの森がきっと、君の子を育む揺籃となるのだ!」
一族の者を待つことにも焦れたのか、アムロスは軽やかに馬を走らせる。
行く手にゆったりと、視界の限りに横たわるエレド・ルイン。その峰峰にすらこだまするかと思われる、美しく通るシンダリンでアムロスは叫んだ。
「森へ行こう、私の森へ、君の森へ!」
甘やかに歌い上げられるその声に、なぜか一瞬、スランドゥイルは、胸の痛みを覚えて馬上で眼を伏せた。




エルフの世界の中心に立ち、その黄昏を一望の元にするケリン・アムロス――だが今佇んでいるのはロスロリアンの高貴な若殿や姫君ではなく、朗らかな北の森の若者と、そして……斧を携えた無骨なドワーフだった。
「ご覧ギムリ、かつてこの地にアムロス王が住んでおられたのだよ。だが今や丈高き館は塚と変じ――この塚の下に王はおられない」
「あんたが歌ってくれた、ニムロデルの歌に出てきた王様だね」
「そうとも、美しく気高い、愛を恐れぬお方だったのだ。……私の父とも親しかった」
「エルフの時の流れには、何度話を聞いても慣れないよ、レゴラス旦那。千年も昔にみまかられたお方が、まさかあんたの父の友人とは!」
二人は低い、優しい声で言葉を交わした。そのような声を使わねばならぬ静寂と、厳粛さがその丘にはあった。金と銀に覆われた、森を愛し森乙女を愛した王の塚。レゴラスにとっては母方の遠い縁者でもあるらしかった。
人の子のものよりわずかに尖ったエルフの耳は、今、この世ならぬ、何か気高く美しいものの声に耳を傾けているかのようだった。ドワーフが声をかけることをはばかれば、その端正な唇から、他ならぬそのドワーフの名を呼ぶ、歌つむぐ声がすべり落ちた。
「ギムリ、ドワーフ君……この丘に立ったドワーフはきっと、この三千年で君ひとりだろう」
夢見るように、その輝ける常盤緑の瞳を、西はるかの空に向けてレゴラスは呟く。
その言葉に何の他意もないことは知っていてなお、ドワーフの眉は気難しく寄った。
「……あんたは、そのぅ……、こんな大事なところにドワーフが踏み込んで、けしからんとは思わんのかね」
「『けしからん』? なぜ? 森を統べるお二方に、ちゃんとお許しを得たのに」
まぁそりゃそうなんだが、と、口の中で――というか、髭の中でもごもごと呟いて、それから物堅いドワーフはエルフを見上げた。
「ここは割とドワーフに好意的だからありがたいが、あんたはあのスランドゥイル王の息子じゃないか」
「ああ、そういうこと!」
レゴラスはドワーフを見返して、それから軽やかに声を立てて笑った。丘の下に立ち働くシルヴァン・エルフたちが、一瞬はっと振り仰ぐほど、それは……誰かによく似た、朗らかな笑声だった。
笑い収めて、エルフの公子は身を屈め、ドワーフの眉の下の、ぎょろりとした眼を覗き込む。
「ギムリ、友よ、わたしの父は一度だって、自分と同じものを嫌いになれとは言わなかったのだよ。その言葉でも、その態度でも、伝える歌のひとひらでさえも!」


そのきらきら光る緑の瞳の中に、どんな喜びと誇りを見たものか。
そうかい、と穏やかに頷いて、それきりギムリは懸念の言葉を吐くことなく、また、言葉少なに丘の風景を語り始めた。




その丘が戴いた名の王が、かつて、レゴラスの父と交わした会話を、彼らは知らない。
だが、交わした会話は、その名を冠した丘の上で、今、ひとつの実を結んだのだった。