北に住む人間にとって、南という方角が恐怖の対象になることが、どれほど残酷なことなのか……エルフとはいえ、満足に樹に登ることも知らぬ幼子に、そんなことがわかるはずもない。
ただ彼は、恐怖にひきつった咽喉を怯えたように鳴らしながら、その腕の中で震えていた。
うららかな陽光が降り注ぐべき南から、暗黒の絶望が燃え上がる。
誰の名を呼べば良いのか、知っていながら、幼子には声どころか、呼吸すらもままならない。
抜けるような青空も。
一面に続く黒々と深いその森すらも。
幼子には世界の果てに等しく思える、その森の南の果てから、迫る恐怖を打ち払うことはできない。
――助けて……
泣くこともできずに、心の中で絶叫する。
――助けて、助けて、助けて!


南からぎらぎらと照りつける「眼」の力に、効しきれずに息が止まる、そう、錯覚したその瞬間に、ふいと視界を闇が遮った。


泣き叫ぶ一瞬前に、ぴったりと押しつけたままの耳に、不意に力強い振動が伝わる。
これはなんだろう、と懸命に耳を押しつけて、すぐに、逆の耳からも入ってくるものだと気づいた。
歌だ。
気まぐれな風の歌のように、甲高く、極低く、自由自在に音律を変えながら、音が彼方へはばたいてゆく。
震える幼子を腕に抱いて、片腕を、登った樹の幹にしっかと添えて。
南をじっと見つめたまま、透徹な声で、歌つむぐ声が飛翔する。
はっ、と大きく幼子は息を吸った。
自分をくるむ、その人のマントは、同じ暗黒であってもまったく恐れることはないのだと、ようやっと、思い出したのだ。
吸った息を一気に吐く。
幼いながらに、想いのすべてをこめた声で。


「ちちうえ……!」


呼応するように翻った風が、幼子に覆いかぶさったマントを一気に払いのけて吹き抜ける。
眼に入ったのは、涙が出るような真っ青な空と、そこに翻る鮮やかな薄い金の髪だった。
「ちちうえぇ!」
もどかしく再び父を呼べば、片手でひとつ、大きく揺すり上げるようにして彼を抱きなおした、その父の歌が一段と高く、低く、そして強くなる。
南の恐怖を直視して。
ドル=グルドゥアと同胞の呼ぶ、あの闇に向けてなだらかに、我が子を護る壁のように、恐れることなく父は歌う。
――わたしの森……!
眼前に無限に広がる、地平まで埋めるような漆黒を、その常盤緑の瞳を見張って幼子は眺める。
――これが、わたしの森……!
幼子にとって、森の根源とはすなわち父の歌だった。
両手で必死に父の胸にしがみつき、強い風に声もちぎれながら、だが、幼子もまた、再び南の闇を直視する。
この森の民は、あの闇と戦うことで生命を費やす。
父はその森のすべてを、この声で護っているのだと、幼子は強く胸に刻み、ちちうえ、ちちうえ、と、歌に唱和するように、懸命に彼を呼び続けた。




不意に顔を叩かれて、レゴラスははっと眼を見開いた。彼の――自由の民の軍勢の中でも、もっとも恐るべき弓士と言える彼の顔を、叩くなどという偉業をしでかしたのは、人間でもドワーフでもなかった。それは、櫂がはねたアンドゥインの水の一滴だった。
レゴラスは濡れた頬をぐいと拭うと、その晴れやかな常磐緑の瞳を闇の彼方へ、大河の上流に向けてゆっくりとまたたいた。船は、河の流れに逆らって必死に進んでいた。先を見通すエルフの眼にも、戦況を読むことはできなかった。ミナス・ティリスはもう落ちたのか。明けぬ永遠の闇の中で、エルフはじっと、その明るい眼を光らせていた。
――なぜあんな夢を。
それは、彼のもっとも古い記憶のひとつと言って良かった。あの時、父が何を思って彼を腕に抱き、彼に見せるかのように、森で一番高い木に登り、南の果てを直視していたのか、幼い記憶は朧で思い出すことができなかった。
あの時、恐怖に負けようとしていたその心を護ったのは父の歌だった。ひとつの森を、ひとつの族を、ひとりの息子を護る父王。
弱気になっているのか……望み薄きこの戦いの、さらに絶望へと近づく船路の中で。
――わたしらしくない。
眉を寄せ、己の弱さを振り切るように軽く首を横に振った時、視界の端に、頑丈な兜が眼に入った。
ギムリ、と呼びかけようとして、首を傾げる。
いつも彼が見ているギムリの頭よりも、兜の見える割合が大きい。……つまり、彼はうなだれているのだった。
――無理もない。この明けぬ闇の中だし、彼らはほんの子供なのだもの。
視線をその兜から離し、アラゴルンの姿を探す。
エレスサールの名で呼ばれはじめようとしているその男は、船の舳先近くに仁王立ちとなり、心に苛立ちと戦意の焔を燃やしてミナス・ティリスの方角を睨んでいる。
櫂をこぐ者たちの、必死の形相にも焦りが見えた。
何を言い出そうとしているのかわからぬまま、レゴラスの唇がゆっくりと開く。
――子供たちよ。
呼びかけようとした時に、不意に蘇る声がある。
――あ……
はるか北方を自在に翔けた、無限に広がる魔法の声。
――ああ、そうか。
はっ、とあの時のように、レゴラスの咽喉が空気を求めて大きく吸われた。
――そうか、そうか……そうだったのですか、父上。
いっぱいに肺腑を満たした空気が、全身を心地よく震わせ、レゴラスは、己の咽喉に常ならぬものが宿ったことを自覚した。
「ドゥリンの息子よ、君の顎鬚を立て給え!」
高らかな笑声と声に、かっ、と吐かれた言葉の、その声の輝きに驚いたようにギムリが声をあげる。
きらきらと常磐緑の瞳を闇に輝かせながら、レゴラスは声も朗らかに、高らかにこう宣言した。
「こういうではないか。
 すべてが底をついた時、しばしば希望が生ずる、とね。」


歌つむぐ声が喜びとともに放ったその声は、船の隅々に響き渡る。
アラゴルンが振り返り、ややあって、「その通りだ、森の子よ、我らの兄よ」とゆったりとした王の声で唱和する。
口を開けたままそれを見上げていたドワーフが、ややあって、がらがらとした塩辛声で「そんなことは、わかっているとも」と野太くエルフに吼え返した。
声に魔力宿る歌の民の、その言祝ぎを放ってから、レゴラスは遠く、今も父が戦う北方を遠く、眺めやった。
――父上、あれは、……あの時のあれはやせ我慢だったのでしょう?
己の放った言祝ぎが、更なる喜びを引き寄せるであろうことを、疑いもせず、レゴラスは胸を張って北方を見つめる。
――あの時、あなたも、絶望に負けかけていたでしょう? 違いますか、父上? ……わたしが震えていたから、わたしが怯えていたから、あなたは戦うことができたのでしょう……?
腕の中に、かよわいものが震えている。
心弱い子供たちが、くじけてうつむき、うなだれている。
……だからこそ、大人は戦うことができるのだ。己の恐怖も、己の絶望も、忘れてただ、子らに無様な姿を見せまいと、子らの絶望を吹き飛ばしてやろうと。
――ずるいな、父上は。自分の心がくじけそうだからって、あの日、わたしを連れて行って。
心につぶやいた愚痴とは裏腹の、明るい微笑が、レゴラスの端正な口元を飾る。
――本当に、わたしはとことん、あなたの子供ですよ、スランドゥイル陛下。


ミナス・ティリスの方角から、鳥たちが鳴き交わして飛び去っていく。
激しくさえずりあうその声と、彼らを乗せる風の歌を、エルフの聡い耳が聴きつけた。
今度こそ、掛け値なしの、はっきりとした希望がエルフの胸を染める。
そして彼はしっかと顔をあげ、あの日の父がそうしたように、高らかに歌を歌いはじめた。