気がつくと、傍らに女がいて剣を磨いていた。
追い払うのも面倒くさく思われて、女がこちらに眼もくれず、一心不乱に布を持つ手を動かす、その姿を一瞥するにとどめ、再び天井を見上げる。
窓の外は明るい。光がともされている時間なのだ。だがそれは自然の光ではない。太陽と月と星の光は、さすがに、このメネグロスの奥津城まで入り込むことはなかった。
――緑が見たい。
だが、そのために、この寝台から起き上がって身支度を整え、外に出て馬を駆ることなど、わずらわしくてやっていられない。
要するに彼は――ドリアスの貴族とは名ばかりの、怠惰なこのスランドゥイルは、やや深刻な無気力と憂鬱の中に閉ざされていたのである。
レンバスの材料をもてあそぶよりも、弓や剣をもてあそぶ方を喜ぶこの変わり者の女は、そのスランドゥイルの憂鬱を知ってか知らずか、たまに来てはこうして傍らで己の作業を黙々とこなし、そして、ふいと去っていく。ついでといったように、彼の身の回りを整えて。
――何が目的だ。
と、聞いてみたいような気もしたが、そんなこともどうでも良く、また、聞いて次の日から来なくなったらそれはそれで癪に障る――結果、スランドゥイルはそれを放置して、この異性の友人の訪れを、拒みも招きもしてはいないのだった。
聞き慣れたノックの音がする。
女がちらりとスランドゥイルを見た。
面倒くさげに顎で扉を指すと、頷いた女は低い声を扉にかける。
「入られよ――アムロス殿」
スランドゥイルの憂鬱を知っているのだろうか。ひそやかに、物腰たおやかなシンダールにしてもなおひそやかに、そっと扉を開けて入ってきたのは、旅装の青年だった。
女は黙ってアムロスに一礼し、剣を抱えていつもの通り、部屋から出て行こうとする。
「おい」
スランドゥイルは寝転がったまま、物憂い声を女にかけた。
「何か」
女のやわらかさを残してなお、剣戟を奏でるこそ似合う所作で、女は振り返った。
「茶ぐらい出していけ」とスランドゥイルはアムロスを顎で指す。
しかし女の返答は、実に人を――いやエルフを食ったものだった。
「わたくしよりアムロス殿やケレボルン殿の方が、ずっと美味い茶をお入れになる。
アムロス殿に出していただきなさいませ、その方が楽しめますゆえな」
ではのちほど、と優雅に一礼して女は扉を閉めた。
苦虫を噛み潰したようなスランドゥイルの顔を見て、アムロスは朗らかに声を立てて笑う。
その笑い声がわずかながら、スランドゥイルの中の靄をやんわりと押しのけて払った。
「確かに、かの女君はとてもではないが、そんな細かい作業を器用にされる方ではないよ、スランドゥイル」
「わかっておる」
「というか、あちらだって君にとっては客人だろうに。もう家内のような扱いをしているんだね?」
言われてスランドゥイルははじめてそれに気づき、少なからず自分でも驚いて黙り込んだ。
性別にかかわらず、大切な友だとは思っていたが、かくも身近に置き続けると、空気のような存在になってしまっているのかもしれない。
アムロスはくすくすと笑いながら、寝台の端に腰かける。
「ずっと沈んでいるそうだけど。少し気晴らしに外に出てみないかい? わたしの馬に仔が産まれたのだよ。今度こそ、君の馬とつがいにしようよ」
「面倒くさい……」
ため息をついてスランドゥイルは寝返りを打ち、頑固に天井を見上げた。
ぬっ、とその視界をさえぎるように青年の姿が眼に入る。シンダールによくある白金の髪は、今は動きやすく後ろで結い上げられていた。青とも緑ともつかぬ深い色の瞳が、じぃ、と自分を覗き込んでいる。
不思議な既視感を覚えて、スランドゥイルはその瞳を見返した。
「わたしがどこへ旅をしていたかも、聞いてくれないんだね?」
闊達なシンダールの若君は、ひとなつっこく眼を細めてスランドゥイルに手を伸ばし、己とよく似た色の髪を軽く撫でる。
「言うたぞ、面倒くさいと。話したいなら勝手に話せ。咎めはせぬ」
ふいと手を払いそっぽを向いた。
「何だ、拗ねていたの?」
しつこく手を伸ばしなおし、髪を撫でてくる手を今度は振り払う気にもなれず、スランドゥイルは再び黙り込んだ。
確かに、彼は拗ねていた。ケレボルンは、この都では風当たりの強いノルドの姫と、ふたりで暮らすために都を出て遠く、北のリンドンの地に旅立った。くさくさしているうちに、今度はアムロスが旅へ出て行ったという。もう帰ってこぬのやもしれぬ、と思うにつれ気が滅入り……そう、彼は拗ねていたのである。
「ねぇスランドゥイル、この都も随分と淋しくなったね」
性根の良い獣にするように、辛抱強く髪を撫で続けながら、スランドゥイルの顔を覗き込んでアムロスはやんわりと呼びかける。
ケレボルンと、スランドゥイルと、アムロス…………ベレグ。
世代は、一番若いアムロスと、一番年上のケレボルンでは一世代ほども違っているやもしれぬけど。彼らは基本的に、互いを対等の者とみなして言葉を交わしていた。
「歌声は消え、花のおもては翳り、鳥は声を潜め……」
「当たり前だ」
いらいらとスランドゥイルは言葉をさえぎる。
「ルシアン姫のおわさぬ都に、光など二度とさすまいよ!」
「……そしてベレグのいない都に」
アムロスの声が歌うようにつむがれるまま、沈む。
友であった。かけがえのない友であった。尊敬すべき、弓の師であった。いかなる時も絶望せぬ、朗らかに笑う男であった。
敬慕する姫と、敬愛する友が、どちらも、人の手に奪われたのだ。
くそっ、と口の中でつぶやいてスランドゥイルはかたく、かたく拳を握りしめた。
その髪を撫で続け、アムロスは少し悲しそうに笑って言う。
「スランドゥイル、……ねぇスランドゥイル、わたしはエレド・ルインを越えて来たよ」
「……なに?」
スランドゥイルは思わず、アムロスの顔をまっすぐに見上げる。
深い海色の瞳でスランドゥイルを覗き込むアムロスは、やっと、スランドゥイルが己を見たことにかげりなく眼を笑ませ、言葉を継いだ。
「ノルドの民が一度も踏んだことのない地であったよ。見渡す限りの草原が広がっていたよ。ああそれに森! 果ての見えぬ森!」
引き込まれるようにスランドゥイルが息を呑む。
「テレリの子たちが森の民になって、静かに、やさしく暮らしていたよ、獣と戯れ、木々と語り、そうして長く、長くやんわりと暮らしていくのだよ。そこには争いも何もないのだよ。ノルドの民も、人の子も、誰も、気にも留めぬ深い森なのだよ」
「深い……森」
「そうだよ、わたしや君が、そう、わたしと君は誰よりも、ケレボルンよりも、ベレグよりも、いいや、シンゴル王そのお人よりも、ずぅっと! 森を愛しているのだったね、ねぇ、スランドゥイル、」
甘いアムロスの瞳が、恐れを知らぬ若い闊達な声が、次に何を言うか、スランドゥイルは感じ取って心臓が跳ねるその音を聞いた。
「スランドゥイル、森へ行こう、旅立とう、エレド・ルインを越えて遠く、東の辺境を越えて遠く。
誰もいない地へ行こう、そして……そこで、平和に、静かに暮らそうよ……」
スランドゥイルは声を出せず、ただ、かなしく甘いアムロスの瞳に見入っていた。
アムロスもしばし黙って、スランドゥイルの薄い瞳を見つめていたが、やがて、優しいままの声で、静かに囁いた。
「ベレグはもういない」
「……アムロス」
「ルシアン姫も去った」
「……」
「ケレボルンはガラドリエル姫と共に旅立ち。メリアン様の嘆きは晴れない」
アムロスの両手が伸び、スランドゥイルの両頬を包み込むようにしてそっと、撫でる。
「スランドゥイル、この都に冬が来たのだよ……
……君はそれを、感じ取って、こんなに悲しんでいる、そうではないのかい」
スランドゥイルは何も言わず、アムロスの肩を掴んで己に引き寄せ、その背を抱いて瞳を閉じた。
いとしい者が、去っていく。
人の子に、ノルドに、運命に、奪われてこの、最愛の都を去っていく。
「我らも、去る時が来たのだよ、スランドゥイル」
悲しみを閉じ込めてなお優しい、アムロスの声がスランドゥイルの胸を痛ませる。
「森へ、彼方へ、……我らも去ろうよ、スランドゥイル、この都はあまりに……
淋しすぎるのだ」
長い、長い沈黙の抱擁が続き。
どれだけの悲嘆をやり過ごしたか、スランドゥイルのほの暗い声が答える。
ドワーフの元を訪ねておられる我らが王が、戻られたなら、
父と共にいとまごいをしよう、と……
気がつくと、傍らに少年がいて彼を見つめていた。
スランドゥイルはしばしぼんやりと、生真面目に自分を覗き込んでいる少年の顔を見返していた。
ややあって、寝起きの少しかすれた声で問いかける。
「何をしておるか」
「父上と、お話をしたくて来たのに、父上は寝てらっしゃるから」
「……それで」
「起きるまで待っていました」
寝台の傍らに膝をついて、寝台の上に肘をついて、少年はこくりと首をかしげる。
スランドゥイルは混乱を振り払うように軽く首を振り、重い身体を動かして天井を見上げた。
「……夢か」
「何の夢を見ておられたのですか」
あどけなく眼を見張って少年は――彼の息子は、伸び上がるようにしてスランドゥイルを覗き込む。
答えず、じろりと横目で少年を見やり、スランドゥイルは言い返した。
「何の話がしたいのだ」
「歌を教えていただきたいのです」
「……歌は好かぬ」
「裂け谷からの使者が参られた時」
誰に似たか知らぬが、どこまでも人の話を聞かぬやつよ、とスランドゥイルは眉を寄せる。構わず、少年はスランドゥイルを覗き込んで話を継いだ。
「ノルドの、黒髪の双子の殿。エルロンド卿のご子息だったそうですけど、わたしはまだ子供だからって、父上は紹介してくださいませんでしたよね」
「……乳臭いガキを宴に出せるか」
「わかってますよ。ただ、そのお二方のお歌がとても上手くて、わたしは驚いたんです。そうしたら、本当は父上の方がずっと上手い、と皆が申すではありませんか」
「……で?」
「わたしはシンダールなのに、シンダールの歌を全然知りません。父上ぐらいしか教えてくれる人はいないのに」
「アムロスに、」
教わって来い、と言いかけて言葉を呑む。
「……アムロス王に?」
少年はおっとりと、純緑の瞳をまたたかせて問い返す。
「いや……」
スランドゥイルは眼をそらした。
眼をそらす一瞬前のスランドゥイルの表情を、見たのだろうか。少年は黙って、寝台のシーツに頬を押しつけてすり寄せている。こういうあたりで黙り込む所は母親に似ている、と、ふとスランドゥイルは苦く笑って、片手で少年の腰帯を掴んで寝台に引きずり上げた。
「父上?」
不思議そうに呼びかける少年を無視して、己の腹の上にぺたりと少年を置いて寝かせる。逆らわず、身を伏せて父親の心臓の音を聞いている少年に、父親の表情は見えず。父親に、少年の表情は見えない。
「……聴かせてやろう。これはかのロリナンド(ロリアン)より伝わった歌よ」
「はい」
「二度は歌わぬぞ」
「はい」
スランドゥイルは天井を見上げたまま、静かな声で歌い始めた。
ロリナンドのシルヴァンの乙女の美しさを。
ロリナンドのシンダールの王の凛々しさを。
……ふたりの間に起こった悲劇を。
ベレグすでに亡く。
ケレボルンは遠くリンドンに。
共に森の子になろうと、誓ってかくも、遠く、遠く共に落ち延びたアムロスも、とうとう。
そしてまるでその代わりのように。
だがそのすべてを足してなお上回るいとしさをもって。
奇跡のように若い命が、もしかしたら、シンダールの最後の命やもしれぬ若い、若い常盤緑が、スランドゥイルの傍らに残された。
歌は続く。
高く低く、鎮魂の歌はつむがれつづける。
少年は瞳を閉じ、父の鼓動と、皮膚を通じて響くその声に、ただ、耳を傾けた。