闇の中に、光る瞳を見た――と、思った。蒼くきらきらと光るその瞳の、持ち主を思い出そうとする前に、脚に走る痛みが、彼から理性を奪い去った。
覆い被さるように覗き込んでくる、その何者かが右手に持つ、……一瞬、黒き光をはじいたように見えるそれが、抜き身の剣と知れば、驚きは怒りへと変わる。
死ぬわけにはいかない。
生き延びなければならないのだ。
世を拗ね、ネイサン(「不当に扱われし者」の意)などと名乗ってふてくされてみせながら、その実まだなにひとつ成し遂げ得ることもなく、友の温情にすら応えていない。
そう、ドリアスより遠く離れ、敬愛する王の下を去り、ただひとり、ならず者の群れに交わるまでに落ちぶれても、傍らにとどまってくれたあの、いとしい友、
――私の名を叫んでいた、
名を呼ぶその声が、誰かに討たれたものか不意にぷっつりと途絶え、
――まだ、まだ生きているかもしれない、
エルフなれば、人の子よりも傷に耐える力も強かろう、
――生きているなら、生きていなくとも、戻らなければ、
今度こそ、
今度こそ素直に、彼のやさしさを、ひねくれた子供を見守るように見守ってくれた彼の愛を、
――ああ、私はなんと愚かだったのだ。
彼に逢って、今度こそ、彼の望む通りの自分に……


「ベレグ……!」


歯を軋らせてその名をうめけば、剣を構え、自分にのしかかっている敵はひるんだように、わずかに身を引いたように思えた。
今しかない、と跳ね起きてすかさずその剣をもぎ取り、相手が声を立てぬようにと、その顔の辺りを押さえつけて首筋に刃を押し当てる。
彼のもとへ、
今度こそ、出会えば私は言うだろう、
彼を振り回し、その気高い命を無駄遣いさせた、その詫びを言ってそれから、
それから――
――やめろ!!
心のどこかがそう叫んだが、彼はそのまま、奪い取った「敵」の剣を――引ききった。


光差し。
闇の中に、己が殺したものの姿が、ぼうと浮かび上がる。
うつろに見開かれたままの、はれやかな瞳。常に、いつくしみを持って自分を見つめていたあの瞳。
その瞳を半ば隠すように、流れたつややかな白金の髪は、血にまみれ、光を受けて冠のように――


――白金、の、髪……? 
――ベレグは……強弓のベレグは銀髪だろう……? これは、……これはトゥーリンとベレグの物語だろう……!?


もう一度、麻痺したような心のままに眼下のかばねを見下ろす。
――誰だ……
やめろ、見るな、と誰かが叫び続けている。
だが彼の眼は、そのかばねを、
――このエルフは、いったい誰なのだ!?
白金の髪の風にゆらぐ、その見慣れたエルフの瞳の色は、奇跡のような、


常盤緑――






身体が揺さ振られていることに、気づいたのは心のほんの一部だった。
残り大部分は死んだように麻痺したまま、暗黒の中に取り残されている。
「しっかりしなさい、ねぇ、わたしが誰かわかるかい?」
放たれる声はうたうシンダリン。
きらきらと、闇の中のわずかな光に輝く、まっすぐ伸ばされた淡い色の髪。
そしてかろやかなその姿が……「覆い被さるように覗き込んでくる」。
あまりの既視感に目がくらみながら、彼は無意識のうちに、右手で傍らをまさぐった。
重く冷たい感触がそこにある。凍るような金属の――


刃――


「アラゴルン!」
魔法のように美しく呼ばれるその、名。
――アラゴルン!?
ぎくり、と振り上げた手が止まる。
瞬間、左頬にバシリと衝撃と痛みが叩きつけられた。
思わずよろめき、手に持ったものを取り落として片手をつく。
そしてようやく、自分が寝床から半身を起こしていることに気がついた。
……自分の右手が持っていたものが、鞘を抜き放った短剣であるということにも。
「眼が覚めたかい?」
彼の頬を殴った右手を、今度はやさしく、同じ頬を撫でることに使い、覗き込んでくる、
……常盤緑の。
「レ……」
名を呼びかけて、声がかすれていることがいらだたしく、咳き込めば「ああ、休んでいなさい!」と、うたう声が急いで彼を押し倒す。
「どうしたというのだいアラゴルン、まるで、幼い子供のように怯えている! よほど怖い夢を見たとみえるね。そんなことで、あの死者の道とやらを渡れますか?」
「……ユメ?」
その言葉をつぶやいた瞬間、アラゴルン、というその名が、やっと、己の名として身近に迫ってきた。
「ああ……夢か」
不安を振り飛ばしたくて、声に出してそうつぶやき、上掛けをかけようとする白い手を掴み、引き寄せる。
「アラゴルン!?」
「もう一度」
「え?」
「もう一度呼んでくれ」
「……アラゴルン?」
「ああ……そうだ。わたしはアラゴルンだ」
この奇妙な人間はいったいどうしてしまったんだろう、と言いたげに、もぞもぞと身じろぐ身体の上のエルフを捕らえ、彼は……
……「アラゴルン」は。しっかりと、その首筋に顔を埋めて森の香を抱きしめた。


「驚かせてすまないね、レ…」
名を呼びかけて、さきほどの夢の光景が生々しく脳裏に蘇り、一瞬、ぞくりと息を呑む。
「怖い夢だったのかい?」
鷹揚に、抱きしめられることを許したまま、彼のエルフはいたわるように、目の前の肩先をそっと撫でた。
名を呼べばあの夢に逆戻りするのではと――名を呼べば、この夢が醒めてあの現実に戻るのではと――恐れながらも、アラゴルンはゆっくりと、その瑞々しき名を舌に載せる。
「…レゴラス」
「なんです?」
光景は壊れはしなかった。
あっさりと、顔を挙げてレゴラスは返事をし、そして、遊ぶように、鼻と鼻を異国の挨拶の如くすりあわせてみせた。
ほう、とアラゴルンの全身から力が抜ける。
「……そうだ、実に怖い夢だった」
「どんな夢? 他人に話すと、正夢にならずにすむと言いますね」
アラゴルンは苦笑して、レゴラスの背をゆっくりと撫でた。
「トゥーリンになって、ベレグを殺す夢だ」
レゴラスの表情がわずかにこわばり、す、と顔が離れる。
さらに「そのベレグの屍がいつのまにか君に変わっていた」などと、言うことはせず。アラゴルンは、まるで怖い夢を見たのがレゴラスの方であるかのように、優しく、そのしなやかな背を撫でる。
「私がまだ、己の名を知って間もない頃、繰り返し何度も見た夢だ……今になって見るとは、思わなかったよ」
「なぜ……そんな夢を、何度も……?」
お返しのように、やさしくアラゴルンの頬を撫でながら、レゴラスはやや気遣わしげに、灰色の瞳を覗きこんだ。
「……身に覚えがないかな?」
「え?」
クス、と笑う野伏は――いや、今はもう野伏とは呼べぬ堂々たる武将は、戸惑う彼のエルフをもう一度、力を込めて抱きしめる。
「冗談だよレゴラス、忘れてくれ」
「アラゴルン、」
呼ばれつづけるその名。
「ああ……」
感嘆にうめき、アラゴルンはかき抱いたその背をきつく撫で上げた。
「なんと美しい声なのだろう、シンダールの若君よ?
 その君の声がわたしを王にするのだと言っても、君は本気にすまいだろうね?」


「……アラゴルン……?」
不思議そうに繰り返される、魔法のような、奇跡のようなその声と言葉。
アラゴルンは、細い背に浮いた脊椎の数をかぞえるように、彼の背を撫でながら過去の思い出へ落ちていった。






「「強弓のベレグだって?」」
示しあわせたように、そっくりな顔の双子がそっくりな声で同じ言葉を放った。
いつもながらの、見事なタイミングに感嘆しながら、アラゴルンは頷いて答える。
「そう、強弓のベレグだ。彼についての書物を探しているんだが、なぜかここには見当たらなくてね」
そびえたつ書棚のせいか、降り積もった年月のせいか、押しつぶされそうな息苦しさを覚える地下書庫の、そのひとつの書棚の前。脚立に腰掛け、アラゴルンは膝の上に数冊の本を積んだまま、たたずむ彼らの顔を見下ろす。
「わたしたちの幼い頃は置いてあったはずだけど……誰かが持ち出したのかな?」
「このあたりに、ライア・クー・ベレグを書き留めたものが……おや?」
退屈していたのだろうか、揃ってあたりを引っかき回しはじめた双子を手伝おうと、膝の上の本を抱えた時、エルラダンが首を傾げた。
「本当だ、この一角だけ本が抜き取られている」
空の書棚を覗き込み、エルロヒアが肩をすくめた。
「誰かが借り出したままなんだろう。大切な伝承だというのに、困ったものだな」
双子の言葉を聞いて、アラゴルンは考え込む。
ベレグについての記述だけが、この書庫から消えている。その事実が、彼に何かを語りかけているような気がした。
闇の森を訪れた時の、冷ややかなスランドゥイルの眼差し。
物静かに振り返り、「かの王は、そなたがトゥーリンになるのではないかと危惧している」と語ったエルロンドの声音に満ちた痛み。
そして時折気まぐれに裂け谷を訪れては、ほがらかに緑の香をふりまいてまた、ふわふわと去っていくあの緑葉……
――レゴラスに、ライア・クー・ベレグを見せまいとしたのだ、誰かが。
それにアラゴルンが思い至った時、
「……で、何だって急に、ベレグに興味を持ったんだ?」
エルラダンが、脚立の下の段に腰掛けて、斜めに彼を見上げていた。
「ああ……」
まさか、「上古のエルフたちに、自分とレゴラスがトゥーリンとベレグの轍を踏むのではないかと危惧されている」……などとは、さすがに言えず。
「……百年やそこらで死んでしまう人間の為に、なぜエルフが命を捨てるのだろう、と思ってね」
苦笑しながら、曖昧にそう言って、個人の名前は出さずにおく。
「なんだい、それは」
本棚に頭を半ば突っ込んでいたエルロヒアが、くしゃみでもしたいかのように顔をしかめて、アラゴルンを振り返る。
「いや、」
どう言い訳したものかと頭をかいた時、エルロヒアはいともたやすく言葉を継いだ。
「今更なにを言っているのか知らないが、遠くルシアンがそうであったように、アルウェンは君の為に死ぬことを厭わないだろうし、遠くフィンロド王がそうであったように、我々は君の為に死ぬことを厭わないよ」


言葉を失ったアラゴルンに、やはりこともなげにエルラダンは言う。
「百年やそこらで死ぬからこそ、いとしさも増すに決まってるじゃないか。考えてご覧、エルフ同士ならいつかはきっと、マンドスの館で逢えるんだよ。だがこんなに稀有な、大事な君と我々は、死ねばもう二度と逢うことすらできないんだからね」
「その君があと十年生き延びるためなら、別に我々の命なんて惜しくもないだろう」
呆然と聞くがままのアラゴルンの脳裏に、常盤緑の瞳の微笑が閃光のようによぎって消える。
「……トゥーリンは、」
押し出した自分の声がかすれているのが、我ながら滑稽に思えた。
「トゥーリンは。そんなことは望んでいなかったはずだぞ……!」
「ああそうだろうね」
見つからないな、と丁寧に本を選り出しながら、見向きもせずにエルロヒアは答えた。
脚立の下の段に腰かけたまま、何か興味深いものを発見したものか、いつのまにか本を読みふけっているエルラダンも、「たしかにね」と相槌を打つ。
「だがベレグはそうしたかったんだから、仕方ないだろう」
「我々エルフの立場からしてみれば、おろかな選択をしてしまったトゥーリンの自業自得だと思うがね」
「おろか!?」
アラゴルンが思わず声を荒げれば、不思議そうに、ふたりは揃って顔を挙げる。
そしてこれまたぴったりと、一瞬の遅滞もなく同時に答えた。
「「愚かだろう?」」


「「エルフに愛されていると知っているなら、己の生は大切にしなきゃいけないんだよ」」


今更馬鹿なことを聞いてるんじゃないよ、とでも言いたげに、揃って肩をすくめてみせた双子たちが、すでに、己の生命について覚悟を決めきっていることに、本当に、今更ながら……アラゴルンは気づいてぞっとしたのだった。






「……アラゴルン……眠ってしまったのかい……?」
ひそやかに降る、歌うたう民のささやき。それが、過去の風景からアラゴルンを緩やかに引き戻す。
かすかなまどろみの中にあっても意識はあった。だが、アラゴルンは敢えて返答せず、エルフが勘違いをするに任せた。
「アラゴルン」
やさしく呼ばれるその名――王となるべき者に与えられる、その名。
「アラゴルン、わたしはきっと、ベレグのようにはなるまいよ」
アラゴルンの上に身を伏せたまま、レゴラスは、眠っていると信じているのか、アラゴルンの髪を子供にするように撫で続ける。
「だってあなたは、伝説に聞くトゥーリンよりずっと、忍耐強く、屈辱に耐え忍ぶことができるのだもの。あなたならきっと、わたしやギムリを、むざと死なせる道に進めはすまいと思うのだよ」
頬を、髪を、耳を、くすぐる吐息と緑の芳香と、魔法のようなその歌声。
「ボロミアはあなたを信じることができなかった……
 だがわたしはあなたを最後の一瞬まで信じるよ」
身を震わせるまいと、レゴラスが褒めたその忍耐の力を総動員して、アラゴルンは瞳を閉じ、やすらかな寝息を立てつづけてみせる。
アラゴルンは、レゴラスの言うように、ボロミアの死を、ボロミア自身の選択の誤りだとは思っていなかった。
王となるべき身である彼――アラゴルンに、ボロミアを導くだけの力が足りなかったのだ。
思い出す。
あの日、双子がこともなげに言ったあの言葉を。
『エルフに愛されていると知っているなら、己の生は大切にしなきゃいけない』
そして、闇の森を訪れたアラゴルンに、ベレグについて問われたスランドゥイルが、冷たい眼差しと共に言い放った一言を。
『王が愚昧なら民が死ぬ。当然のことよ。トゥーリンはベレグの王であった。丈高きエルウェ・シンゴルロよりもなお強く、ベレグの王であったのさ』
自身もひとつの森の王であるあの男は、己の「愚昧」のせいで幾人の民を死なせたのか――死なせたと、己を責めているのか。
思えば、アラゴルンがあの夢を見始めたのは、彼らエルフたちのその情の深さを、知ってしまった頃からではなかったか。彼らエルフ――……いや。あの緑葉もまた、ベレグと同じ、愛深きシンダールの末裔と、知るがゆえに見始めた、あの夢は彼を縛り続ける戒めだった。
――わたしもまた王になる。
かつて隻手のベレンがそうであったように、多くの者に愛され、多くの者に命を投げ出させる、彼は王になる定めとして生まれた男。
――わたしは彼の王になるのだ。
小さないくつかの誤りが、ボロミアを死なせてしまったのなら。
これ以上誰一人として、いとしい者たちを殺させはせぬ。
そのためになら、どんな屈辱にも耐え忍び、怒りを抑え、常に冷静に厳格に、己を裁き、彼は正しい道を選び続けてみせるだろう。
九〇年、耐え続けることができるのだ。これから何ヶ月、何年戦が続くやはしらねども、彼に耐えられぬはずがない。無用の争いも、愚かな同士討ちも、片鱗たりとて起こさせはせぬ。王らしき王として、彼は己を演じ続けて見せるだろう。
――わたしを信じてくれる、わたしを愛してくれる、わたしのエルフ、わたしのエルフたち。君の為に、君たちの為に、わたしは己を磨くのだ。
愛する者の命を背負う、王の宿命を甘んじて受け。
ひとりでひとつの森を背負う、その重圧に幾千年と、耐えたあの男に笑われもすまい。
「アラゴルン、」
護りの呪文のように、唱え続けられる彼の名前。その名前にすら「王」の意がこもる、彼は王になるべき男。
「アラゴルン……わたしの、白の木の王。あなたをわたしは、信じているよ……」
その信頼が、彼にあの悪夢をもたらし、そして、彼を強く鍛え磨く。そう己に再び言い聞かせながら、アラゴルンは今度は、偽りなき深き眠りにと落ちていったのであった。






月の光が、開け放たれたままの窓から冷たくこぼれ落ちていた。窓際に置かれた書き物机に、一冊の本が開いて置かれ、かさかさと、中途半端に頁を浮かせて揺らせていた。
アウレの手による彫像のように、一片の瑕もないエルフの手が、そっと伸びてその頁を押さえた。白く長い指がゆっくりと、古びた紙の上のテングワールを追いかけた。
「……野伏が進み、エルロンドの双つ星も進む」
声は歌うたうシンダールのものではなかった。発音の一つすら覇気に満ちた、優雅なるノルドールの殿のものであった。
黄金の大輪に喩うべきその微笑が、やんわりと口の端にのぼる。その頬を彩るのは、純金の滝にみまがう彼自身の髪であった。
「エルフが進み、ドワーフが進む。死地に向けて、彼らは進む。たったひとりの為に進む……
 王となるべき人の子の為に。命潰えるも厭わず進む」
うたうようにささやいた、その手が不意に力を込めて、みし、と紙面に皺を立てた。だが、そこで彼は思いとどまった。手の下の本が、最愛の主君の所有物であることを思い出したようだった。
「いったい幾人が、この裂け谷に戻り来るか……?
 よろずとせを超えたこの身にも、それは知ることのかなわぬことだ」
手はそっと書物から離れ、ぱたん、とあっけない音をたてて、その本を閉じて取り上げた。
表紙に黄金で穿たれたその文字――


『ライア・クー・ベレグ』


千年前からそこにあったかのごとく――あるいは本当に、千年間そこにあったのやもしれず―――、書棚の奥に押し込められて、その本は日の目から隠された。
足音たてぬ黄金のノルドは、本のことなど忘れたかのように、ふわりと髪を翻し、彼自身の王のもとへ急ぐ。
彼には彼の……主君のための戦いがある。炯炯と輝く双瞳に、彼もまた、覚悟を宿し、そのために一度は死した身でさえあるのだから。