顔を真っ赤にして泣く赤子を脇に、さて、どうしたものかと、ぼんやりとスランドゥイルは頬杖を突いて考え込んでいた。
『子供には、森に生まれいづるものの名を』
そう言い残して女は死んだ。わずかに残った命のすべてを、産まれて来る息子に振り絞ったような、凄絶なお産であった、……らしい。スランドゥイルは出産に立ち会わなかった。女が頑として立ち会いを拒んだのだ。
出産は女の戦場なのだから、王は王の戦場に行きなさい、とスランドゥイルを外に放り出し、女は侍女に手伝われて、見事、子を産んだ。
攻め寄せたオークを、スランドゥイルが撃退して帰ってきた時には、女はすでにみまかっており……ぎゃあぎゃあうるさいこの小さな生き物が、スランドゥイルに残されていた。
――これだけ見事に泣くのであれば、良い歌い手になるやもしれぬ。
そんな呑気なことを考えているあたり、彼にはすでに親馬鹿の兆候がはっきりと見られるのだが、彼自身はまったく気づいていなかった。
それにしても、どこかの血管が切れたかのような勢いで泣いている。
――何がそんなに不満なのだ。
赤子相手にそんな文句をつけてもどうしようもないのだが、昨今は子が生まれることもないエルフの、しかも初産で妻を失った男に、子のあやし方などわかるはずもなかった。
年老いた――見た目は彼と変わらぬが――シルヴァン・エルフの乳母は、今は侍女に指示を出すために部屋を離れており、もうしばしは戻ってこない。スランドゥイルは、この厄介な生き物を、自分自身の力でなんとか手なずけなければならないのだった。
ゆりかごの傍ら、乳母の座っていた椅子に腰掛け、赤ん坊を覗き込む。
『緑葉』
そう、未だ生まれてはいなかった息子の名を決めた時、女は至極満足げに笑ったものだ。
緑葉は、森でもっともうつくしきもの。森でもっともたいせつなもの。森が森としてあるために、不可欠であるもの。
――光も、星も。金も、銀も。何ひとつ名に持たぬ、みどりの我が子よ。
古に、生まれたばかりの赤子を「みどり児」と言うがごとく、みどりとは萌えいづる命の、新しさの、若さの証。
黄金の髪、グロールフィンデル。光の華姫、ガラドリエル。銀の大樹、ケレボルン。星の天蓋、エルロンド。
銀の姫、ケレブリアン。星の人の子、エルラダン。星の騎兵、エルロヒア。
緑の葉は、輝かしき血統も、上古の力も、抜きんでた誉れも、何もなく。ただ、瑞々しく。ただ、伸びやかに。
……ただ、みどりに。
そっと屈み込むようにして、スランドゥイルは我が子の顔を覗き込む。
――我がみどり児よ、何を泣く。星が欲しいか。金が欲しいか。力が欲しいか。……もっと立派な生まれが欲しいか。
赤子はただ、泣きつづける。顔を真っ赤にして。その全身で、生命の輝きを主張する、それこそが始原の歌であるとでも言いたげに。
知らず、しかめ面の王の顔に、――母となった女を喪ってより、その唇に歌もなく、ただ、黙っていた王の顔に、困った奴だ、と言いたげな苦笑が浮かぶ。
そしてその唇が名を呼んだ。


「レゴラス」


ぴたり、と泣きやんだみどり児は、こぼれおちそうな緑の瞳を見張って父を、見た。


スランドゥイルは、そこらに捨て置かれたタオルをとって、ぎこちなく我が子の顔を拭いた。
「それでも我が子か、そなた。何を泣いておる」
うう、だか、にゅう、だか、よくわからぬ言葉を返した息子は、むずかりながら、まだ父親の顔を飽くなく見上げている。生真面目な顔で説教をしていたスランドゥイルも、やがて気が抜けてタオルを放り出し、うるんで波立っている、その宝石のようなみどりを覗き込んだ。
泣かない。うう、と自己主張をするだけである。
「父の声は好きか。それとも名が気に入ったのか」
あやすように言ってみると、握ったままの拳が少しうちふられた。
――何をそんなに握っておるのか。
そんなことまでもが可笑しく思えて、拳を開かせようと力んでみる。存外に強い力だった。この子はこの子なりに、思うところあってこうしているのだろう、そう考えてスランドゥイルはその拳を放置した。
「今日の父は気分が良い。……歌を歌ってやろう。これは父の母が、父に歌ってきかせた歌よ」


部屋の外では、幾人もの臣下が扉に張りついていた。
彼らは王の歌を、ひどく久しぶりに聞いた気がして、しんみりとただ、聞き入っていた。
「……よく歌われる方だったのだ」
ひとりの年経たシンダールが、ぽつりとつぶやく。
「本当に、よく歌われる方だったのだ、遠い、遠い昔は、まだ……」
しん、と沈黙の中を、王の子守唄がゆるゆると流れていく。
湿った声で、別のひとりがつぶやいた。
「王子も、よく歌われる方だといいな」
賛同の声が、王の邪魔をせぬ程度に満ちる。
「ああ、そうだな」
「そうだといい」
「王の分まで、歌われる方に育たれると良い」
歌を慎む王の分まで、王子はどこまでも明るく、歌を喜ぶ人になってほしい。
……彼らの王に、歌ってあげる、そんな王子に育って欲しい……


王の歌声に混じって、笑っているのか、わめいているのか、
……それとも歌っているつもりなのか。
赤子のにぎやかな喚声が、扉の外の臣下の耳にも、滑り込みはじめていた。