異界なる白き腕



 異界なる白き腕 




「……レゴラス、」
「先に戻っているよ、後からゆっくりおいでなさい」
声が急激に遠ざかる。
「待たれよ、レゴラス殿!」
服を持って追いかける。
何か言わなくては。
ともすれば軽薄な、飄々たるエルフの、だが、最後の二言三言はきっと、心の底から言った言葉。
答えなければ。
「待ちなさい!」
木々の狭間に、夕陽の最後の残光を揺れて光る黄金。
後少し、後少しで捕まえられると手を伸ばしかけたその瞬間――


レゴラスは森を抜けて仲間たちの前に躍り出し、同時に、アラゴルンの腕の中にしっかりと、魚を捕まえたまま抱き留められてきょとんと彼を見上げていた。
「……レゴラス」
後を追って姿を現したボロミアとレゴラスをしばしまじまじと見比べて、アラゴルンはしみじみとその名を呼ぶ。
「はい?」
極上の微笑を返すレゴラスの手から、とりあえず魚を取り上げてサムに手渡し、「ありがとう」とホビットたちと一緒に真面目に礼を述べてから、
「で、なぜ君は半裸でボロミアから逃げてきたのか、それをわたしにしっかりと、一部始終をくまなく教えてもらえないか?」
非常ににこやかに、アラゴルンはボロミアに笑みを投げかけつつレゴラスに優しく問いかける。
思わず蒼ざめたボロミアには気づかず、レゴラスはフロドから受け取った濡れタオルで手を拭きながらあっさりと言った。


「あっちこっちこすられて痛かったので!」


「あっちこっち!?」
思わずピピンがすっとんきょうな声を上げ、慌ててメリーがその口を押さえる。
「ほほう、あっちこっちねぇ?」
「ちっ、違いますアラゴルン、わたくしは何もっ――」
思わず、しなくてもいい弁解をしてしまったボロミアは、不思議そうに自分をしげしげと見るレゴラスと、目をあわせたら巻き込まれるとばかりに黙々と斧を磨くギムリと、基本的に、フロドのために素敵にうまい料理を作ることしか考えていないサムと、サムの料理の味見に全神経を傾けているフロドを順番に眺め、最後に、片手をレゴラスの腰に回し、片手で己の顎を撫でながら下目づかいに、実に楽しそうにボロミアを見つめ返すアラゴルンを見た。
ミナス・ティリスにオークが大挙して押し寄せようとも、かくもうろたえはすまいというほどにボロミアは視線を泳がせ、言葉を絞り出す。考えてみれば、何もやましいことはしていないのだが、あの白い肌に見惚れてしまったという事実は妙なやましさを生じさせるらしい。
「わっ、わたくしは……」
「でもおかげで身体が早く乾いたよ! ありがとう、ボロミア」
「えっ? ……あ、ええ、いえ、どういたしまして」
絶妙のタイミングで無意識の助け船が入り、ほっと吐息をつく。
レゴラスは、未だに腰をしっかり捕まえて離さぬアラゴルンから、何とか抜け出ようとボロミアに――正確には、ボロミアの手の中の服に手を伸ばした。
白い手が伸びて来て、ふと、もし自分があの時水の中に沈んでいたら、水面から降り来るあの手はどんなに美しく、自分を誘うように映っただろうかと考える。
(エルフとは不思議な生物だ)
本当は、エルフとヒトは、水の中と外のように、違う世界から手を伸ばし合い、互いに映る影を見ているだけの、もしかしたらまったく違う世界の住人なのやもしれぬけど。
だとしたらなんて魅力的な手を伸ばしてくる種族なのだろうと、ボロミアは思う。
(あの時水の中に自分がいたら?)
それは魅力的な仮定だ。
そう、あの時自分が水の中に沈む一個の亡霊であったならば、


ボロミアは、小憎らしいことに魚の臭いが移りもしていない、その白い両手を両手でぎゅっと握った。
「え、」と仲間たちが目を見張る中、その両手を、膂力に任せて引っ張り、大根でも抜くかのように、アラゴルンの腕から一気にもぎ取る。
あまりに意外だったのか、反応できずなすがままのアラゴルンと、特に気にした様子もなくあっさりそのままボロミアの元へ移動したレゴラスを見比べてから、
「まったく、あなたというエルフは!」
口癖になりそうな言葉を吐いて、てきぱきてきぱきと、小脇に抱えていた服を手早く着せはじめた。
王族らしく、人に服を着せてもらうことに慣れた様子で機嫌良くなすがままのレゴラスは、良い匂いをたてはじめた鱒に興味いっぱいらしく、着せられかけのままふらふらとホビットたちの方角へ引き寄せられていく。
「ホビット以上に手間のかかるエルフなど、初めて見ましたぞ……レゴラス! まだボタンを留めておりませぬ、戻りなさい!」
髪を引っ張って無理矢理引きずり戻し、背後から抱き留めて手探りでごそごそとボタンを留めていく。くすぐったがってけたけた笑い出したレゴラスを茫然と、両手が空のまま見ていたアラゴルンは、茫然とした顔のままボロミアを見た。
「何か?」
澄ました顔でボロミアは尋ねる。
「……あんたが小さい人たちだけでなく、エルフの世話まで焼きたがるとは思わなかったよ、ボロミア!」
恨めしげに、彼がしょっちゅうちょっかいを出して抱いていた腰が他人の手に渡っているのを、アラゴルンは眺めた。
「わたくしがこのエルフ殿の世話を焼きたがっているのではありませぬ、どう考えたとて、このエルフ殿は世話を焼かれるのを大喜びで楽しんでいるようにしか見えませぬ。基本的に、……レゴラス!」
ボロミアは、サムが「一口どうぞ、エルフさん!」と持ってきた鱒に向けて、ボロミアに捕まったまま、うんと首を伸ばしてそれを食べようとしているエルフの顎を捕まえてぐいと引いた。ものがなしげに、素敵に美味そうな鱒へと愛執の視線を向けるエルフに懇々と説教をしはじめる。
「つまみ食いなどもっての外です。庭師殿もあまり甘やかすものではない」
「ではわたしが貰おう」
ひょいと手を伸ばしたアラゴルンが鱒を口に放り込む。
「アーラーゴールーーーン!」
エルフと人間に揃って、すさまじい勢いで名を呼ばれたアラゴルンは、仕返しだとばかりに軽く手を振って、夕食の仕度がすっかり整ったホビットたちの元へと歩み去った。
「ボタンは留まりましたか? 早く行かないとなくなってしまいますよ!」
そわそわと、食わずともさほど困らぬくせにエルフはボロミアの腕の中で、ぐずるようにもぞもぞ動く。
「え? ああ、ボタンは留まりました、しっかりと」
だが何となく手を離し難く、ボロミアはしばらくぼんやりと、腕の中のくすぐったい動きをそのまま感じていた。
「ボロミア?」
呼ばれて我に返り、ぱ、と手を離してふと、
「レゴラス」
いつのまにか呼び捨てで呼んでいたその名を、もう一度呼ぶ。
「何です?」
ものやわらかに振り返られ、改めて、夢の世界にいるかのような、非現実的に美しいその顔を、すっかり暮れた視界の中で眺めた。
「ボロミア?」
「ゴンドールの人間は、嘘はつきませぬ。されどこうは申せます」
すいとごく自然に手を取り、エスコートするようにその手を引いて、旅の仲間の火の元へと誘いながら囁く。
「わたくしは、あなたと違う世界に離れようとは思いませぬ。あたうる限り、同じ道を歩めるよう務め続けようと思っております、と」


不意に、眼前の秀麗な顔が近づき、首の周りにかかった何かが、レゴラスの、あの白い手だと知った、その瞬間、
「…………!?」
「ありがとう、ボロミア!」
10秒ほども、ぶつかるような勢いで唇を押し当てて来ていたレゴラスが、やや上気した顔でにっこりと笑う。
「……レゴラス、」
「はい、」
「これはもしや、人間の習慣としてアラゴルンに教わったものではありませんか?」
「よくわかったね!」
驚きに目を丸くしているエルフに、しみじみと溜息一つ。
「レゴラス、」
「はい、」
「感謝のキスとはそうするものではありません」
アラゴルンが手に持ったフォークをいつ投げようか悩んでいる姿を、横目で見ながら、ホビットたちが全員、非常に珍しいことに食事をすることも忘れ固まって見守っていることを、知りながら、ボロミアはこつん、とレゴラスの額に額を押しつける。
「そうなのですか?」
「そうですとも」
と言うがはやいか、「か」の形にあいたままのレゴラスの唇にがっぷりと深くくちづけて数十秒。しつこいほどに角度を変え、膝が崩れて倒れかかるのを片手で支え、アラゴルンまでもがあまりの手慣れっぷりに口を開けて見守る中、唇を離して「こうするのです」と生真面目な声で語りかける。
ふらふらしているレゴラスの口元を拭ってやり、手を引いて「さぁ、わたくしどもも食事をいただくとしますかな」と何事もなかったかのように戻って来た。くてん、と喋る余裕もないらしいレゴラスはボロミアによりかかったままだ。もしかしたら、あまりの衝撃に現実逃避して、眠りの小道に入ってしまっているのかもしれない。
アラゴルンが低い低い声をかける。
「……ボーローミーアー」
「自業自得です」
ボロミアが返事をする前の、ギムリの冷たい声に返答できず、アラゴルンはがっくりとうなだれて鱒をフォークでつついた。