休息――5
ホビットを両手に抱えてモリアの坑道に駆け込もうと振り返り、ボロミアは一瞬動きを止めかけた。
全員が入り口に向いて一目散に退却している中ただひとり、いまだ敵に向き直ってきりきりと弓を引き絞るエルフ。
「逃げろレゴラス!」
その傍らを駆け抜けながら叫ぶ。本当なら引きずってでも逃げ込みたかったが、ボロミアの手はホビットでいっぱいだった。
レゴラスは一瞥をくれもせず、ただ、満月の如くひきしぼった己の弓を、池から躍り上がった化物の顔に向けている。
その姿は稽古をしている時とまるで変わらず、この叫喚の中で唯一、あまりにも静謐であった。
――狂ったか?
微動だにせぬ強情なエルフを、入り口に引っ張り込もうとホビットを下ろした瞬間、ひゅん! と風を切る音がする。
振り返ると奇怪な絶叫をあげた化物がのけぞり、エルフの金の髪に包まれたその頭を打ち据え砕こうと、上げられた触手をめちゃくちゃに振り回しているところだった。
とん、とレゴラスが触手の一撃を受けて後ろに飛ぶ。そして、止まりかけてスピードの落ちていたボロミアをたやすく追い抜き、
……わき目もふらずにアラゴルンの傍らに飛び込み、引き寄せて岩の破片から彼をかばった。
そうすることが息をするより自然だとでも言うかのように。
「あんな無理をしていたら、命がいくつあっても足りないぞ」
道筋に悩むガンダルフが、フロドと何か話しているのを見ながら、ボロミアはレゴラスに囁きかけた。変わらずに柳のような立姿を見せているレゴラスは、ちらりとボロミアを一瞥しただけで、何も言おうとはしなかった。
「聞いているのか、レゴラス」
「よせボロミア」
立ち上がりかけたボロミアを、アラゴルンが腕を掴んで引き留める。
「エルフの運動能力は尋常じゃない。それにレゴラスは、仲間に迷惑をかけるほどの無茶はしていない」
「かばいあいの精神は結構なことだ。だが――」
ボロミアは更に毒を吐きかけて黙り込んだ。自分でも、何に苛立っているのかよくわからなくなってきたのだ。
「ボロミア、レゴラス」
アラゴルンは、ガンダルフと話すフロドの表情の重さを気にかける様子で、声を落とし、ボロミアとレゴラスの腕を掴んで軽く突き飛ばした。
「そこでふたりで話せ、いいか、静かに、穏便にだ」
一行から少し離れた所に追いやり、それきり、つきあってられるかと言いたげに、これ見よがしにパイプを吹かす。
「その煙――」
を何とかしろ、と文句を言いかけたのは、人間とエルフ、両者同時だった。そして言いかけてから黙り込み、顔を見合わせる。どうやら嫌煙者だという共通点はあったらしい。
しばらくそのまま、居心地の悪い沈黙が続いた。
「……僕の心配は無用だ」
ものしずかに口火を切ったのはレゴラスだった。おだやかなくせに完全なその拒絶を食らって、だが、ボロミアは怒るよりむしろ先に面食らった。
「おい、レゴラス、」
彼にしては珍しく、なだめるように名を呼んでみる。すでにアラゴルンの傍に戻りかけていたレゴラスは、これまた珍しく、迷惑げに露骨に眉を寄せて振り返った。
ボロミアは少し考え込み、挙句、思ったことを素直に口に出す。
「何か、怖いのか。……苛々してるだろう?」
く、とレゴラスの眉間に皺が寄る。
メリーとピピンが同時に顔をあげ、不思議そうにレゴラスを見たのに気づいて、ボロミアは手を差し伸べ、レゴラスを岩陰に引き込んだ。
「すまん、皆に言いふらすつもりはない」
言い聞かせるように囁きかけても、レゴラスはしばらく押し黙ったままだった。
しかしやがて、視線を逸らしてゆっくりと、岩肌を見上げ、そして、小さく震える。
レゴラスが震えてはじめて、ボロミアは自分がレゴラスの腕を掴んだままだったことに気づいた。
手を離しかけて考え直し、軽く手を握りあわせてやる。
それに誘われるようにぽつりとレゴラスは言った。
「ここに入りたくはなかった」
「……俺も同感だがね」
「樹も風も川もない。あるのは岩と、ドワーフやオークの死体だけだ」
レゴラスの瞳が落ち着かない。それを覗き込んでやっとボロミアは理解した。
「そうか、あんたは森のエルフだったな。……だから最後まで入るのを渋ったのか?」
「指輪所持者の決断には従う」
そう言いながらもレゴラスの顔には、己の弱さを羞じるような淡い色が浮かんだ。
ボロミアの口元に、あたたかく笑い出すのをこらえるような、微妙な歪みが生じる。だが彼はまじめな顔を作った。
「なるほど、ここに入ってからぴったり、アラゴルンやガンダルフの傍を離れないのは、不安だったからなのか」
「……自覚はしていなかったけど、言われてみるとそうかもしれない」
よく見ていたな、と言いたげな眼差しを向けられ、たしかに、よく見ていたもんだと思い返して少し、気恥ずかしくなる。まるで嫉妬していたかのような自分の行動が可笑しい。
「……恥ずかしいことだ」
エルフはすずやかな美貌をかすかにゆがめ、嘆息して首を振った。
「何が恥ずかしい?」
「僕はエルフなのに」
「エルフなら何も怖くないのか?」
「少なくとも、あなたたちよりずっと、恐怖より遠く在るべきなのは確かだ」
「そうかな」
ボロミアは会議の様子を思い出して考え込んだ。
彼にとって、指輪とはそれほど畏れるべきものには思えなかった。あれは恐るべき力を有している「器物」であって、別に、いきなり襲い掛かってくるわけでも、食いついてくるわけでもない。モルドールの言葉とて、口にしただけではただの言葉だ。言葉が火を噴くわけでもない。
だがこのエルフは、モルドールの言葉に打ち震え、仇敵であるドワーフの挑発にも同胞を抑え、そして、決して指輪に近づこうとはしない。
「……長く生きるってことは」
ボロミアはレゴラスを見、そして、その向こうでじっと煙をふかす、おそらく自分よりもずっと長い時間を生きているであろう男を見た。
人間の中でも、長命を誇る種族ヌメノーリアンの末裔――ドゥナダン。
「ボロミア?」
「長く生きるってことは、恐れを知ることなんじゃないかと、俺は思うがね」
なぜこうも恐れるのだろう?
恐れを知らずに戦うからこそ、開ける未来もあるはずなのに。
「……恐れるべきものを知ることと、恐れることは、別なのだ」
ひそやかな声が傍らでそう囁き、ボロミアはふっとレゴラスを見る。
その言葉がまるで、歳経た木々の囁きのように聞こえた、と思ってから、このエルフが大抵の木々より年上であったことを思い出す。
暗がりに光る緑の瞳。
「あんたも、指輪が怖いか?」
そう問うと、レゴラスはなぜか、ひどく驚いたように眼を瞬いた。
何か言いかけて、少し眉を寄せ、そして、ためらいがちにひとつ頷く。
「そうか」
ボロミアは頷き返して、そして腕を組んで考え込んだ。
レゴラスが更に何かを言いかけようとした瞬間、「おう」とガンダルフの声が響く。
ふたりでそちらを見れば、ガンダルフが立ち上がり、道を指し示したところだった。
「仲直りしたか」
パイプを口から離して、アラゴルンが二人を見やる。
「別に、最初から」
喧嘩など――と、ふたり、同時に言いかけて、顔を見合わせて苦笑した。
歩むボロミアの背中を見つめて、ぽつり、とレゴラスはエルフ語でつぶやく。
「……怖くないのか、あなたは」
「何か言ったか?」
ボロミアが振り返ったが、レゴラスは黙って首を振るだけで、他には何も言おうとしなかった。
人の子なればこそ、あの指輪の恐ろしさに、気づくことができずに惹かれていく。
今更にそれを思い知ったレゴラスの視線の先に、ボロミアの未来は、ひどく、不吉なものと映っていた。