休息――4 




レゴラスが髪を洗っている。珍しい場面に遭遇したものだ、とギムリは背後に立ったまま、ぼんやりとその白い背を眺めていた。
ブーツと上半身の衣服を脱いだ、半裸のパンツ姿になって、そのパンツも脛まで裾を捲り上げ、小川の中に立ち尽くしたまま……器用なことに、脚を開き、柔軟体操をするようにぐん、と頭を下げて小川の流れに突っ込んでいる。
脚を伸ばしたまま、首を伸ばして水を飲む馬のように見えないこともない。だが、どう考えても、他にうまい洗い様があるはずである。
レゴラスの体はこちらに向いている。だから、背中もこちらに向いている。いい加減頭に血が上るのではなかろうか。そう思って声をかけてみた。
「その格好はしんどくないのかね、レゴラス旦那」
髪を洗う手が止まり、脚を開いて体を折ったまま、胸から上がくいっと上がる。
「やぁ、ギムリ旦那!」
ぼたぼたと水の滴る髪を右側にたらしてまとめながら、レゴラスは腰を折り、首を上げたままの格好でにっこりと笑った。
「……体を起こしたまえよ」
「だって水が頭から落ちて、背中も腹もびしょ濡れになってしまうよ」
髪を絞りながら獣がするように、ぶるぶるっ! と頭を振る。
水滴が盛大に散って、ギムリは溜息をついた。
岸辺に転がっていた木綿の布を投げつける。
それを受け取って頭をごしごしと拭きながら、戻ってくるレゴラスの肌を、陽光がまぶしく真っ白に染め抜いて輝かせる。
美を美としてのみ愛でるドワーフがゆえに、ギムリはそれに素朴な賛嘆の――逆にいえば、賛嘆以外の何も含まれぬ眼差しを――向けて「早く戻って来ると良い」と手招いた。
「いくら角笛城からオークが絶えたといっても、悪そのものがすべて断たれたわけではないんだよ。ここはあんたの森とはわけが違うんだ」
「大丈夫だよ、悪しきものが近づけば、皆が必ず教えてくれるもの! ねぇ知っているかいギムリ、例の不思議な森がこの地を通ってから、ほんの少しだけど、このあたりの森も声を持ち始めたのだよ」
「私はそんなことには気づかないし、気づきたくもないね」
岩を愛でる種族である頑固者は、おぞけを振るったように肩をすくめてそう言ってから、その後に何気なくつけたした。
「だが、それがすばらしいことなのだということは、私だって充分わかってはいるんだよ、レゴラス旦那」
今にも抗議の言葉を放とうと開かれた端麗な唇が、親友がつけくわえてくれた言葉を聞いて、ニッコリ、と笑みをかたちづくる。
「ああ、ギムリ、君が森のすばらしさを理解しようとしてくれて、私がどれほど嬉しいか君にわかるかい!」
「わかるさ。私はそのまったく逆の喜びを、あんたに感じているのだからね、レゴラス」
少なくとも、洞窟だというだけで無条件に忌避することのないエルフが、ここにいる。
その事実が朴訥なドワーフをどれほど喜ばせているか、レゴラスは知るまい。
「ギムリ、あんたと来たら」
あけっぴろげなエルフが、布をその場に放り出して駆けてきたのを見て、さぁ飛びつかれるぞ、と慌てたドワーフは即座に声をかけた。
「ほら、レゴラス、布が川に流されるぞ!」
「ああいけない」
今にも親友にタックルをかまそうとしていたレゴラスが、慌てて流れの中に戻っていく。それをほっと見守りながら、ギムリはまばゆく白いその背中を眺めていた。
「それにしても、どうしてまた急に髪を洗う気になったのかね。あんたの髪はそうそう汚れはせんだろうに。オークの返り血でも浴びたかい?」
休憩時間にふらりと姿を消したレゴラスを、心配してギムリはこうして迎えに来たのである。
するとレゴラスは、この通り、小川で呑気に水浴びの真っ最中だったのであった。
人間なら、臭いが気になるということもあろうが。エルフに体臭はほとんどない。
水浴びではなく、髪だけをわざわざ洗っているなど、本当に珍しい光景なのだ。
ぱしゃぱしゃ水を跳ね、岩にひっかかっていた布を取って戻りながら、レゴラスは困ったように首を傾げる。
「それがね、ギムリ、どうも私の髪は他のエルフより汚れやすいようなのだよ」
「そんなことがあるものかね」
汚れなどつきそうにない、きらきらと日に輝く白金の髪を、ギムリはあきれて眺めた。
「そんなことがあるのだよ。だって人間が、私の髪の臭いを気にするのだもの」
ほっそりとした腕からは思いもよらぬ力で、ぎちぎちと布を絞りながら、上がってきたレゴラスは溜息をつく。
適当にしか拭いてもらっていないかわいそうな髪に、美を愛でるドワーフとしてひとしきり義憤を感じたギムリは、レゴラスの手から布を奪い取って「そこに座りたまえ」と重々しく命令した。
ふてくされつつもおとなしく、岸辺の岩に腰かけたレゴラスの髪から、繊細に、丁寧に水気を取りながら、「臭いだって?」とギムリはつぶやく。
輝く白金の清流。当然、嫌なにおいなど放ちもしない。
「そうだよ、アラゴルンといい、エオメルといい、私を抱き寄せた時は必ず、一番に私の髪の臭いを気にするんだ」
少しものがなしげにそう言うレゴラスに、ギムリはしばし考え込み、レゴラスの髪に鼻を近づけた。
ふわん、とただよった森の香に、なるほど、とうなずいて顔を離す。
「どうかなぁギムリ、まだ何か臭うかい?」
不安そうに声が浮く。
「いや、私は気にならないよ。むしろあんたの髪は、木々の香りがしてさすが森エルフ、と思ったがね。人間があんたの髪に何を嗅ぎ取ったかは、ドワーフの身にはわからないことさ」
「そうか、そうだね、人間にしかわからない臭いがあるのかもしれない」
そんなはずはないがね、と心の中でのみつぶやいて。
「レゴラス旦那、ひとつ聞くがね、あんたの髪のにおいを、人間たちが一番気にしたのは、もしかして角笛城の戦の時じゃないのかい」
「驚いたねギムリ旦那、どうしてそんなことがわかるんだい?」
「何となくさ」
アラゴルンが、このエルフを腕に抱き、救いを求めるように、髪に頬を埋めていた……その光景を、ギムリは思い出す。
森のエルフから漂う、瑞々しい緑の香。
血と泥濘と闇に満ちた戦いの中で、それはアラゴルンの肺腑と精神を、すがすがしく染めていたに違いない。
己の魅力を何も知らない、この愚かで愛すべきエルフはそれを、「髪の臭いを気にされている」ととっていたのだ。
このエルフはやはり少し抜けている、しみじみそう思いつつギムリは、懐から出した櫛でレゴラスの髪を梳きはじめた。
レゴラスは、自分で髪を梳きなどしないくせに、他人に髪を梳かれることをひどく喜ぶ。今も、喉を鳴らす猫のような表情で、されるがままになっていたが、ふいにくるりと首をめぐらせて、どこか遠くを見はるかす表情になった。
「梳きにくいよ、レゴラス旦那」
「エオメル殿が来たよ」
ギムリの言葉を聞かず、エルフは嬉しそうな声をあげる。
ギムリも振り向いたが、そこには枝枝の狭間に何かが一瞬ちらついた、としかとれない。
だがやがて、それはちらつく騎馬の影となり、すぐに、枝を避けて馬を進める金髪の騎士の影となった。
「レゴラス殿、ギムリ殿!」
草原の若き主が手を振っている。
「どうしたのかねエオメル殿、一国の王族が伴も連れずに」
レゴラスの髪を梳く手を止めて、ギムリはエオメルに向き直った。
「伴ではありませんが、アラゴルン殿が先程まで一緒でした。はぐれてしまいましたが」
恐れ気なく図太いところのあるこの青年は、どうやらアラゴルンをまいてきたらしい。この異種族の友人たちと、遠慮なく仲良くしているアラゴルンが、羨ましかったと見える。一歩出し抜きに来た、ということなのだろう。
馬からひらりと舞い降りる。鎧の重みなどまったく苦にした様子もない若々しいいでたちだった。腰に一本の大剣を佩いている。
今は兜を脱いで、精悍な顔立ちをさらしているその眼が、すばやくレゴラスの全身を走査して鑑賞した。
一瞬、ギムリの脳裏を、「レゴラスに上着を着せておくべきだった」という思いがかすめたが、当のレゴラスはまったく何も気にした様子なく、嬉しそうにぴょこんと立ち上がってエオメルの元に駆けた。
「やぁ、エオメル殿、どうしたんだい!」
「部隊にたったひとりずつのエルフ殿とドワーフ殿が消えてしまったのでね、人間を代表して捜しに来ました」
「心配はいらないよ、髪を洗っていただけなんだ」
「髪を? 泥でもつきましたか? 綺麗な髪なのだから大事にしないと」
屈託なく、ギムリに嬉しそうに笑いかけてから、エオメルは駆け寄ってきたレゴラスを素早く抱き寄せた。「あなたもおいでなさい」と言わんばかりに片手を空けてみせているエオメルの、その「ご好意」には気づかぬ振りをして、ギムリは腰の袋からパイプを取り出す。
「ああ、まだ濡れている」
抱き寄せたレゴラスの髪をひとすじくわえて、エオメルは何気なく、アラゴルンがするようにその髪に頬をうずめ――
「……レゴラス殿?」
かけて、すばやく離れたレゴラスに首をかしげた。
「あ、あのう、……私は上着を着なくてはね」
「そんなもの、着なくたって一向に構いませんよ」
どういう根拠で構わんのだろう、と思いつつも、ギムリはそそくさと近寄ってきたレゴラスに、上着を投げてやる。
さては何か吹き込んだな、と言いたげなエオメルの視線にはやはり、気づかぬ振りを続ける。
別に、エオメルやアラゴルンがする如く、レゴラスを腕に抱いて愛でたいなどという心地は、ギムリにはない。
だがドワーフとは、嫉妬深い生き物なのだ。
人間よりも長命だからと言って、後回しにされるなど許すつもりがあるはずもなく。
当然、背の高い種族たちが、自分には出来ない交流をするさまを、邪魔はしないまでも、率先して勧めるはずもなかった。


「レゴラス殿、上着など良いからこっちに参られよ!」
「ね、ねぇギムリ、髪を梳くのがまだ途中だったね?」
「そうだねレゴラス、ちょっとこっちに来ると良いよ」
「お二方、何か私に隠していることがおありだな? そうなのだな!?」


アラゴルンのあの行為を真似したくてしょうがないのだろう、レゴラスを追い回すエオメルと、そんなエオメルから逃げるレゴラス、そ知らぬ顔で煙を吐き出すギムリ。
ギムリが放置した誤解にエオメルが気づくのは、もう少し先のことになりそうである。