休息――3
飛ぶようなスピードで、上下動の少ない独特の早歩きで、アラゴルンは先頭を歩き続けている。その瞳は地面を中心に素早く周囲に配られ、時折物音を聞きつけてキッ、とそちらに向けられる。
そのすぐ後ろにレゴラスが、沈痛な無表情のまま、ひょいひょいと踊るように、爪先しかつけぬような足取りで続いていく。時折、ふざけているのではないかと思われるほどに軽やかな足取りだが、その身体は常に、襲撃に備えて整えられ磨き上げられていた。
ギムリは息を切らせながら、ふたりの後を必死でついていく。何せコンパスが違う。着ている鎧の重さが違う。そして野歩きのキャリアが違う。
「ギムリ、来れるか」
振り返ってレゴラスが尋ねる。それは、質問ではなく確認だ。「まだ走れるな?」と、暗に鞭打ち、そして、励ましている――つもりなのだ、これでも。最近ギムリにも、この西方語喋りの不器用なエルフのやりようが、理解できるようになってきた。
「ドワーフの頑丈さを、馬鹿にするな」
息を切らせていることを悟られないよう、押し殺した声で答える。レゴラスは馬鹿にしたことに、ひょいと身体をギムリに向けると、後ろ向きに歩きはじめた。その背――進行方向にアラゴルンがいる。その気安さが為せた技なのだろう。
とん、とん、とん、と後ろ向きに飛ぶように歩きながら、レゴラスは言葉を続ける。今日は雄弁だ。珍しい。ギムリの気を、疲れからそらそうとしているのかもしれない。
「鎧を脱いだ方が良かったんじゃないか」
「馬鹿を言うな、これは俺の皮膚のようなもんだ」
「それは、随分と固い皮膚だ」
最近刻まれっぱなしの、白い額の皺が薄れる。
ギムリは担いだ斧をがちゃりと鳴らして言い放った。
「そうとも、この固い皮膚が俺にゃ必要なんだ。あの人間の仇を討つにはな」
「あの人間?」
「おいおい、決まってるだろう、ボロミアの――」
言いかけてギムリは目を見開き、目の前でがくん、と膝が崩れたエルフを絶句して眺めた。転んだのか、と思えるようなあっけなさだった。
「うわっ」
もんどりうって倒れかけたエルフが地に仰向けにひっくり返る一瞬前に、頑丈な腕が伸びてがしりとその腹辺りを抱え込む。
「前を見ていろ、レゴラス」
モリアでレゴラスがボロミアにしたように、後ろからエルフの身体を抱きとめて支えているアラゴルンが、溜息をついてそう言った。
「すまない」
まだ少しぼんやりした様子でレゴラスが答える。なぜか、アラゴルンの身体にもたれるようにしてしゃがみこんだまま、レゴラスは立ち上がろうとしない。
「レゴラス」
少し、レゴラスを抱き留めた腕の位置を変えると、それはまるで、抱き留めたのではなく抱きしめたかのように、ギムリの眼には映る。
「レゴラス、立てるか」
それはレゴラスがギムリに尋ねたのと同じ口調であった。「立てるか」と問いながらその実は――「立てるな?」という確認。
レゴラスの手が無意識のうちに己の左胸に当てられる。
――ああ、
ギムリの胸に、すとん、と納得が落ちた。
――胸が痛いのか、こいつは。
多分に精神的な生物であるエルフは、精神の痛みが時に肉体の痛みを凌駕する。ボロミアの名を聞いた瞬間の、このエルフの胸の痛みはきっと、彼の歩みをつまずかせるに等しいものであったのだろう。
だが、ギムリの身体がぎしぎし言っても休む余裕がないように、レゴラスの胸がぎしぎし言っても、やはり、休むことなどはできない。特に、エルフのゆるやかな時間に合わせて悲嘆を癒す時間などは、おそらくこの戦いのすべてが終わるまで存在しないのだ。
――またたきのうちに生き死にする生物に、心をかけおって。
「……立てる」
右手で左胸を押さえたまま、レゴラスはふらりと立ち上がる。立ち上がったエルフの緑葉色の瞳がふと、向き合って立った形のギムリを見下ろした。
覗き込んでくるような、透明な、きらきら光るエルフの瞳。
最近この瞳をよく見るようになったとギムリは思う。最初のうちは、お互い、目線すら合わそうとはしなかった。それがいつしか、互いに眼の中を覗き込むようになり、気がつけば、覗き込めばある程度のことは理解できるようになっていた。
――俺も、またたきのうちに生き死にする生物か。
そんな生物の眼を覗き込むなと、覗き込ませるなと、言いたいのは山々だけれども、この眼は見ていたいから、いつか悲しませる結果になったとしても、この眼を覗き込むのは嫌いではないから。
いつかこの緑葉の胸を裂けんばかりに傷ませるとしても。自分たちはもう、出会ってしまったのだから。
「俺はな、」
大股にのっしのっしと――それでもエルフと人間のコンパスよりは小さいのだが――歩み寄って、アラゴルンとレゴラスを斜めにねめあげる。
「俺にはな、この鎧兜に斧がある。そのおかげで今迄助かってきたし、これからも助かる自信がある」
死にはしない。こんな戦では死にはしない。
緑の瞳がじっと己の瞳を覗き込んでいるのがわかる。だから、死にはしないのだ。死ねはしないのだ。
「だから、おまえさんたちに多少おくれを取ったって、こいつは絶対脱ぎゃせんぞ」
わかったか、と、ギムリは両手を腰に当て、せいいっぱい体を反らして、大きい人ふたりを見上げてみせた。
「……鈍重なドワーフよ、」
やわらかなエルフの声は歌うように響く。
「後で泣き言を言っても、担いでいってはやらないぞ」
「エルフのひょろい腕なんぞに担がれるぐらいなら、のたれ死ぬわ!」
まだレゴラスを抱いたままだったアラゴルンが、視線を流して軽く目を瞬く。
「レゴラス」
手を挙げて背後から、その頬を軽くつねり。
「笑ったな」
そう言った時にはすでに、エルフの王子の顔は常の通りの、少し不思議そうな顔に見える無表情へと戻っていたが。
「笑ったぞ」
ギムリも片目をつぶって繰り返す。
「そんな覚えはない」
眉間に皺を寄せてレゴラスは、アラゴルンの腕からするりと抜け出す。
その左胸の上に置かれた手は、いつのまにか外れていた。
「待て、もう一度笑ってみせろ、お高いエルフ!」
「ドワーフに向ける笑顔はないね」
言いながら振り返ったエルフの顔は、やはり……ぎこちなくではあったが、すこしだけ、眼を細めて笑みを浮かべているように見えた。