3.我が胸の矢の色は
すぐに発とう、と持ち掛けられて、アラゴルンは眼をまたたいてレゴラスに向き直り、そして、ほんのわずかにその灰色の瞳を見開いた。
レゴラスの顔色がひどく悪い。
対岸にオークがいることは、レゴラスとて感づいているはずだ。諭してもレゴラスは頑として首を縦に振ろうとはしない。
「僕の不安は対岸じゃない」
レゴラスは不安を訴え続けたが、やがて不意に黙り込んだ。
その緑の瞳にためらいの色が浮かび、訴えるようにアラゴルンを見つめる。
「……レゴラス?」
「アラゴルン、僕は、」
「どうした?」
「……僕は、……」
口をつぐむ。そして目をそらした。
不意にこのエルフが、いきなり倒れて死ぬのではないかと、そんな錯覚に囚われてアラゴルンは、レゴラスの肩を強く掴んだ。
「レゴラス、大丈夫だ、わたしに話せ」
彼がレゴラスの半分の背丈もないほどの、少年であった頃から、彼はレゴラスを知っていた。この涼やかな瑞々しいエルフの戦士は、何事にも深入りすることはなく感情の動きが平坦なように見えて、実は、驚くほどの激情の持ち主である。心の痛みが命を奪いかねないエルフという種族に生まれたがゆえに、この弓士は常に物静かに、平坦に過ごす習慣を身につけた。だが、かつてエステルと呼ばれていた頃からアラゴルンが、見守られ、そして、今は時に見守りもする、このエルフは今、何かに心を打ちのめされて激情に膝を折りかけている。
助けを求めるような弱気な瞳になったレゴラスが、口を開いた。
「アラゴルン、僕は、ボロミアを――」
「フロドはどこ?」
アラゴルンの視線がレゴラスを離れる。
その瞳が、ボロミアの盾に据えられ、そして、林の中をみはるかし、そして、レゴラスに戻った時。
「森に悪意ある者が踏み込んだ。大勢だ。フロドが危ない、僕とギムリはあちらを」
緊張に緑の瞳を輝かせるエルフはすでにもう、その悲嘆を厚い殻の向こうに閉ざしてしまっていた。
「ボロミアじゃなくなってる!」
その叫びが、ボロミアに「何か」を思い出させた。
彼は一瞬身をこわばらせた。その心臓を、何かに貫かれたような気がした。それは、見えない鏃だったのかもしれない。
だが身を引き裂く怒りが一瞬後にはすべてを支配し、ボロミアの視界は赤く灼けて、目の前のフロドの、そう、彼が護ると定め、笑って頭を撫でてやった、けなげな、勇敢な、小さい人の――全身で闇に抵抗するその身体を、憎悪すら込めて突き倒し押し倒した。
レゴラスは走った。
行く手を阻むオークを、手に持ったままの矢を眼球から脳まで貫いて即死させる。
考える間もなく手は動き、流れるような速さで近矢をそのままつがえて打ち込んだ。
『一番簡単に俺を殺せるのは』
ズキン、と胸の痛みが広がる。
たしかにもっとも「簡単」に彼を殺せるのはレゴラスだろう。そして、どうせ殺すなら、もっとも長く、彼のことを覚えているであろう生物が彼を殺すのが一番いい。
彼が望むなら。
彼の望むままに。
レゴラスなりの、それは彼への、大切な仲間への、好意と親愛を、身を持って示す手段ではあった。
「おい、大丈夫か」
がらがらとした声をかけられて振り返る。
「僕のことか」
「他に誰がいる。アラゴルンは無事行ったぞ」
ゴンドールの角笛が、聞こえた方角に。
レゴラスはそこらから矢を引き抜きつつ走り出す。
「怪我はない」
「……そうか?」
意外げなドワーフの言葉に、もう一度、眉を寄せて振り返った。
ギムリはじろりとエルフの身体を眼で調べ、本当に怪我がないと知ると、ふむ、と走りながら髭をしごく。
「何だ?」
「怪我をしたかと思ったんだが、俺の勘違いか」
兜の下の己の額を軽く指で突つき、ギムリは言葉を継ぐ。
「ここに皺が寄っていた。痛そうだ、と思った」
「……痛いのは身体じゃない」
驚くほど素直に、その言葉は出ていた。そして、レゴラスはそんな自分に驚いて、その言葉をその場に置き去りにするかのように、すばらしいスピードで走り出した。
待て、と声を上げ、がちゃがちゃと鎧を鳴らして走り出してギムリは、祈るように一瞬、天に視線を向けた。確かに、痛いのは身体ではなかった。鈍重とされるドワーフの胸さえも、悪しき予感はがんがんと叩き、鳴らし続けていたのだから。
肩に熱の花が咲いた。衝撃でのけぞった眼に、映ったのは肩から生えた矢だった。
(レゴラス、)
とっさに、風に揺れる金の髪を探す。
だが矢羽の色は黒い。
(ああ、なんだ、あんたじゃないのか)
そうだ、彼なら、決して急所を外したりなどはしない。疾く慈悲深く、一瞬にして、この醜悪な人間の命を奪ってくれただろうに。
(あんたじゃないなら、まだ、戦わなきゃならんな)
背にホビットたちの視線。
彼が呪ってしまった、彼が裏切ってしまった、勇敢な小さい人たち。
護らなければ。
(ああ、そうだ、護るんだ)
醜悪なものになど、ならないことこそが、彼らを護ることだったのに。
この傍らの小さい人たちすら護れず、醜悪なものに成り果てて、遠き白の塔をどうやって護ることができたろうか。
重いなどと、一度も思わなかった剣が、彼の意志を裏切って地に落ちようとする。
それを両手で鷲掴みにし、ボロミアは斬るというより殴るように、オークに刃を叩きつけた。
『あなたが望むなら』
残酷なことを頼んだと、わかっている。
「簡単に」殺せるはずがないと、知っている。
だが、
(あんたなら、と、思ったんだよ)
痛みの炎は全身に回り、そして、二度の衝撃。
まだ。
まだ彼らは到っていない。
この小さなものを、護ることができるのは彼ひとり。
そして、レゴラスがその弓を手に駆けつけた時、ボロミアはアラゴルンの腕に抱かれて瞳を閉じていた。
レゴラスの心を混乱が襲う。
ボロミアの身体には三本の矢が突き立っていた。
だがレゴラスはまだその弓から矢を彼に射放してはいない。
(何だ? 彼は何をしている?)
隣でギムリが悲嘆の声を漏らす。
だがそれでもレゴラスには理解ができなかった。
からくりのようなぎこちない動きで首を動かし、視線を巡らせ、戦場を見渡す。
小さい人たちはどこにもいない。
転がっている、ひときわ大きなオークの首なし死体、その傍らに、転がる、
――漆黒の弓。
(なぜ?)
混乱の中でそれを問う。
なぜ、なぜ、なぜ――
「……アラゴルン、」
感情の死に絶えたような声が耳に入って、アラゴルンはそちらを向いた。
どこか途方に暮れたような顔のレゴラスがそこには立っている。
目の前に起こっていることを、どう判断して良いかわからない、といった様子の。
濡れたままの瞳を隠さずじっと見つめ、言葉の続きを問う。ボロミアの死を悼んで泣くことが、恥ずかしいことだとは、アラゴルンは微塵も思っていなかった。
「彼は、」
緩慢な動きでレゴラスはボロミアを見る。
そしてアラゴルンを見る。
「彼は、……彼は指輪、に、……負けたのか」
アラゴルンは即座に答えた。
「勝ったさ」
再びの嗚咽が、その言葉を震えさせ、語尾を狂わせる。
「勝ったとも……勝ったからこそ、こうして命を落としている……」
レゴラスは黙って、アラゴルンの震える背を見つめていた。
きっとボロミアは指輪にひとたび、誘惑されたのであろう。
アラゴルンの返答は、それをうかがわせるに充分なものであった。
だが。
『勝ったからこそ、こうして命を落としている』
横たわり、騎士たちが皆そうするように、剣を胸に構えたまま瞳を閉じているボロミア。
死んでいるのだ、とぼんやりとレゴラスは考えた。
死んでいる。
死んでしまった。
フロドとボロミア、アラゴルンとボロミア、その間にどんな会話があったのかはわからない。
何があったのかもわからない。
彼らの眼に映るボロミアが、どんな姿だったのかもわからない。
ただ、
(僕が、見なければならなかったのに)
それが、彼との約束だったのに。
(僕は、二度も間に合わなかったのだ)
彼が変節したその瞬間、彼が請うたように、弓矢で彼を殺すために、
彼が死に面したその瞬間、彼を襲うオークから、弓矢で彼を護るために、
そのために交わした約束なのに、
彼をこの弓で射抜く日まで、レゴラスが、彼を護らなくてはならなかったのに。
黙ってボロミアとアラゴルンに背を向け、落ちている矢を拾いはじめる。
そして視線を高く上げ、ホビットたちの姿を探し始めた。
もう、ボロミアが死んだことすら、忘れてしまったかのように、端然と、涼やかに。
(僕には、
彼を悼む資格は、
きっとないのだから)
ボロミアの姿から眼をそむけていたギムリが、ちらり、とレゴラスの顔を見る。
また難癖をつけてくるか、と見返すと、珍しく何も言わず、視線をそらした。
おかしなこともあるものだと、そのままギムリの隣をすり抜け、フロドの姿を探しにいく。
「痛むのは、身体じゃない、か」
すり抜けざま、ぽつりとギムリがそうつぶやいたのが聞こえたが、レゴラスに意味はわからなかった。
異種族のドワーフにも分かるほどに、己の蒼白の美貌が、痛みをこらえる無表情と化していたなど。
鏡なき森の中、レゴラスは最後まで気づきはしなかったのである。