2.闇の森の児戯
はたり、はたりと降り積もる黄金の葉の雪の下を、レゴラスは水差しを両手で捧げ持ち、ゆっくりと歩いていた。
枯葉を踏みしだいているはずなのに、その足下に音はない。遠く木々の狭間を、踊るように駆け抜けていく乙女たちの姿が見えた。レゴラスが視線をやることはない。ただ、ゆっくりと、ゆっくりと、定命の子のテントを護るように、ひそやかに歩を進めている。
ふと、前方を歩くガラドリエルの姿がその視界に入った。レゴラスは軽く瞬き、水差しを胸元に引き寄せてうやうやしく視線を伏せた。
ガラドリエルが一瞥を投げかける。
レゴラスの脳裏に声が響いた。
『ニムロデルの流れも、味方の内に潜む火種を消しはせぬ』
銀の水差しを抱えるレゴラスの手が、ぴくりと揺れる。
『闇の森の弓矢も、心の内の悪を射抜きはせぬ』
視線が、皆の装備と一緒にたてかけられた己の弓矢に落ちた。
『さればそなたも眠りに就くが良い。
……北の森の王の子よ』
声がほんの少しやわらかみを増したことを、レゴラスは感じた。
氷のような冷たさを伝える水差しを、ぎり、と握りしめてレゴラスはしばし思考さえも沈黙する。
そして顔を上げた。
『すべてが無駄だと?』
穢れに敏感なエルフの肌に、ちりちりと伝わる予感と邪悪。
ニムロデルの水を飲ませ。弓弦の音で魔を祓い。エルベレスに夜通し祈り。……闇の森の民らしい素朴な歌を、眠る一行に与えて安らかな夢を願っても。
レゴラスの思念が悲しみに激する。
『……闇の森の。児戯に等しい数々の技を、無駄とお笑いになられますか?
いと高き光の君よ』
返ってきたのは、幽かな笑いの波動だった。
ゆっくりと、ガラドリエルは背を向ける。
『……そなたの信じたきものを、信ずるが良い』
背後に気配を感じ、とっさに木々の狭間に身を隠す。
ガラドリエルの後を追って、フロドがふらふらと、水盤の地へと歩み去っていく姿を、レゴラスは見守って眉を寄せた。
「眠らないのか」
背後から声をかけられて、レゴラスはゆるやかに振り返った。
テントの入り口を押し上げるようにして、身を屈め、ゆっくりとアラゴルンが外に出てきたところだった。
「いや……」
レゴラスは視線をそらし、水差しを抱えたままふいと歩き出そうとした。
通り過ぎようとしたレゴラスの腕を、アラゴルンが掴む。かすかに震えたレゴラスの目の中をいぶかしげに覗き込み、アラゴルンはやわらかいテノールで問うた。
「その水差しは?」
「別に……ボロミアの気分が悪いようだったから、水をと」
「……一杯貰っても?」
座れ、と腕を引かれ、木の根元に、アラゴルンと共に座り込まされる。
レゴラスは黙って、銀の小さな杯に水を満たしてアラゴルンに差し出した。
「何か気がかりが?」
アラゴルンはそう尋ねてから、銀の杯に口をつけ、一口飲んでふと、体の動きを止めた。
「フロドは先ほど出ていった。奥方と一緒だから大丈夫だろう」
答えず、レゴラスはそう言い返して、それきり、水差しに浮かんだ水滴を指でたどり、振り落とすものうげな仕草を繰り返している。
「……この水はどこの?」
噛み合わない会話が続く。
レゴラスは答えない。
「レゴラス?」
「……くだらないまじないだ」
レゴラスは眼を伏せたまま、ただ、それだけを言った。
アラゴルンの眼がわずかに見開かれる。しばしの沈黙の後、アラゴルンは押し出すように言葉を囁いた。
「君が……自分の森の技を、そんな風に言うなんて、はじめて聞いたぞ……レゴラス」
「本当のことだから」
物静かにレゴラスは答えて、ただ、水差しを握りしめている。
アラゴルンの舌に、ニムロデルの水はすがすがしい芳香を残した。それは、ロリアンに充ちる魔法の力だけではないと、闇の森を訪れたことのあるアラゴルンの舌は知っていた。
闇の森の民が誰にも教えぬ水の浄化法――あの魔の川の水さえ飲み物にしてしまう、彼らの技がそこには使われていると、アラゴルンは悟ったのだ。
だがレゴラスはそれを「くだらないまじない」だと言う。
アラゴルンはレゴラスの手からそっと、だが力を込めて水差しを取り上げ、己の脇に置いた。
「そんなことを言うエルフの手に持たれていては、清き水が気の毒だ。
……冷えているな」
偶然触れたレゴラスの手の冷たさに、アラゴルンはその手を両手で包み込む。
引こうとして振り払えず、レゴラスは、鈍色の両の瞳から視線をそらして、ゆっくりと首を横に振った。
「僕よりもボロミアに、アラゴルン。彼についていた方がいい」
「ボロミアは眠っている。夢も見ずに。誰かさんが耳元で囁いた歌のせいで。……また、くだらないまじない、と言うのか」
レゴラスの頬にうっすらと赤みがのぼった。人間に図星を指されたのが、この王族の気高い心に羞恥を覚えさせたのだろう。若々しい仕草は、夢のように美しい顔立ちとあいまって時にひどく扇情的なのだが、レゴラスはそれに気づいていない。
「……父君が嘆かれるぞ」
「嘆くものか、あの人が」
それは即答だった。
「あの人は、くだらないまじないでいいと思っている。……神々しく、自然を捻じ曲げた力など、中つ国には必要ないと」
片手がレゴラスの手から離れ、白い頬をアラゴルンの手がゆっくりとたどる。レゴラスは瞳を閉じた。
「かつてグロールフィンデル卿は、おひとりでバルログを倒された」
「……ガンダルフのことは、」
「ロスロリアンも、裂け谷も、良き魔力に護られひどく美しく整っている。人は苦悩を忘れ、やすらぎ、上つエルフの力に抱かれて眠りにつく。
……それに比べ。もっとも苦悩に満ちた旅をしなければならない、フロドやあなた、そのあなた方の傍らにいる僕はあまりに無力な、ひとりの末世のエルフでしかない」
もう片方の手が離れ、引き寄せるように腰を抱え込んで、腕の中に身体を収めさせたのを感じて、レゴラスは瞳を開いた。
間近に鈍色の双瞳がある。
「指輪を欲したことはない」
頬を撫でつづける手にレゴラスは手を重ねた。
「どれほどこのロリアンの地に焦がれ、最後の聖地のように崇め、そして、その力の大きさを妬むことがあったとしても。
自分の持つべき以上の力を欲したことはない。それで命を失ったって、森が焼かれたって、小さくなっていったって……僕らはそれを受け入れよう。
それが闇の森の者の誇りだ。だから僕も……そう在ることをためらったことはない」
「知っている。……それが君の民の強さだと言うことも」
「でも、……――」
きつく抱きしめられて言葉を喪い、レゴラスはアラゴルンの肩に顔を埋めた。
「何を震えている?」
「震えてなど……」
「何が怖い?」
「怖くなど……」
死に絶えたような静寂の中で、レゴラスはアラゴルンに抱きしめられ、ただ、じっといすくまったようにその服の袖を掴んでいる。
「……話してはくれないのか?」
優しく問われて、レゴラスはしばしためらったのち、「今は」と小さな声で答えた。
アラゴルンは、このエルフの強情さを知るがゆえに、小さく嘆息するにとどめ、そっと、その目蓋に唇を落として囁いた。
「君が、話して楽になりたい、と思ったら、いつでも話してくれたらいい……レゴラス、わたしの友」
不器用なエルフは黙って頷き、非常に珍しいことに……甘えるようにアラゴルンの肩に額を押しつけて言った。
「もうしばらくこうしてもらえるかな、エステル」
アラゴルンは眉を寄せ、だが、何も言わずにレゴラスをしっかりと抱きしめる。
今はただ、抱いて支えてやるしかできない。
レゴラスのことは気にかかったが、アラゴルンには、レゴラス自身が言うように、今はボロミアを見ていなくてはならなかった。
まさかレゴラスが、同じようにボロミアのことを気にかけて、懊悩しているとは、神ならぬ身には推察することもかなわなかったのだ。
ふける夜の静寂の中、レゴラスに押しやられてアラゴルンは、ボロミアの様子を見にテントの方角へ帰っていく。
レゴラスはじっと、水差しを抱えなおして虚空を見上げた。
児戯のような行いを繰り返し。
引き止められぬ定めを必死で歪めようとしても。
――ガラドリエル様は、ただ、静かに見てはおられるけども、笑いもされず、嘲りもされず、……そして悲しみもなさらない。
瞳を閉じてひとりもの思う。
定命の子を愛するこの気持ちは、間違っているのだろうかと。
運命にあがき続けるこの行いは、間違っているのだろうかと。
……間違ってはいやしないのだと、きっと言い切ってくれたであろう、ミスランディアの声を、レゴラスは渇望しながらいつしか、眠りの小道へと落ち込んでいった。