1.残酷な約束
「眠れないのか」
涼やかな声が木々の狭間から降った。
ボロミアはびくりと肩を震わせて、声の方角に身体と顔を向けた。
己の寄りかかっている樹の、すぐ隣の樹の枝の狭間に、ちらりと揺れる金の光があった。
立ち上がったボロミアは低い声で問うた。
「そんなところで何をしている、レゴラス」
「何も」
「俺を見張っているのか」
木々の緑と茶の中に、見事に溶け込んで姿を見せぬエルフは一瞬黙り込む。
ボロミアが勝ち誇ろうとした瞬間、
「考えもしなかった」
ものしずかなままの声はものしずかに、そう言葉を紡いだ。
「ならなぜそんなところに」
「あなたを見かけたから」
「どこで」
「向こう」
ボロミアは問うことを諦めた。このエルフの異様な目の鋭さを思い出したのである。
枝から枝を渡ってきたのだろう。この近距離でなお、気配を悟らせないとは、やはり彼は森のエルフであった。
諦めて、ふたたびその場に座り込む。
「もう少し近くに来たらどうだ」
言外に「降りてこい」と言ったつもりだったが、レゴラスはそうと受け取らなかったようだ。
不意にかさかさ、と幾枚かの葉が落ちた、と見る間に、
「これなら?」
うかがうように放たれた声はボロミアの真上に聞こえた。
目を丸くして、頭上の枝に腰掛けるエルフの姿を見る。
「どうやってそこに?」
問うと、不思議そうに目を瞬いてボロミアを見返す。おそらく飛び移ったのだろう。レゴラスにとっては朝飯前のことであり、「どうやって」と問われる方が不思議なのに違いあるまい。
どうでも良くなって、前に向き直る。レゴラスもそれきり黙り込み、ボロミアと同じ方角を、枝の上でぼんやりと見つめているようだった。
遠くの方角から歌が聞こえる。「ミスランディア」との語だけをかろうじて聞き取り、ボロミアは目元を歪めた。ふと、妙なるエルフのその歌をすべて聞き取っているであろう樹上のエルフを思う。
「見えすぎるのも、聞こえすぎるのも、考え物だな」
ぽつりとつぶやくと、樹上の枝がかすかに揺れる。返答はない。ボロミアも樹上を見上げはしなかった。
別世界のできごとのように聞こえる歌と、死に絶えたような沈黙がボロミアを少しずつ、落ち着けていく。網膜に灼きついたあの奥方の蒼い瞳が、今、奥方ほどの力はなくとも、たしかに上古の守護の気配を残すこのエルフの傍らで、少しだけ、ほんの少しだけ薄れた様な気がしてボロミアは吐息をついた。
「なぁ、エルフ」
ボロミアは前を向いたまま声をかけた。
「何か、人間」
ものしずかなままの声は降る。
「多分、指輪の仲間の中で、一番簡単に俺を殺せるのはあんただろうな」
声は答えない。
「アラゴルンも俺を殺せるだろうが、あれはああ見えて、心の中でいやと言うほど葛藤する性質だろうし。ギムリは感情の生物だ、必ず迷う。小さい人たちは論外だ。
……あんたなら、多少忸怩たるものはあろうと、殺さなきゃならんとなったら、あっさり俺を殺すだろう」
「……仮定の話でも、聞きたくはない」
立ち上がる気配を、なぜかはっきりとボロミアは感じた。エルフが気配を消し損ねたということだ。
それは、もしや、エルフの心が揺れた証だろうか、エルフの心が痛んだ証だろうか。ボロミアの死を想像して、動揺を感じてはくれたのだろうか、心が少しは傷ついてくれたのだろうか。
「逃げるか、レゴラス。聞いてもらうぞ」
前を向いたままボロミアは声にあざけりの笑いを込める。半ば以上は己へ向けた嘲りであったのかもしれない。
胸を絶望と疲労が食い荒らし、痛みに心が悲鳴を上げる。神経は鈍重に摩滅し、手足は鉛のように重かった。
「もし俺が、俺以外のものになりはてたり、」
「ボロミア、」
はっきりとしたテノールが遮るように名を呼んだが、ボロミアの口は止まらなかった。
「あんたのそのご立派な眼から見て、俺が耐え難く醜悪に映ったりした時には、エルフよ、うんざりするほど長い年月を生き、うんざりするほど醜悪なものを見続けてきたエルフよ、」
ボロミアの手は無意識に、己の左胸をまさぐった。
「俺の名誉を護るために、俺の心臓をその矢で止めてくれよ、必ず」
返答はなかった。だが、ボロミアは、エルフが己の頭上から逃げていないことを信じた。
ミスランディア、ミスランディア、と、別世界のように流れ続ける音。
呪いのように胸をかきむしり続ける絶望。
炎に沈むミナス・ティリスの塔がボロミアの、目蓋の裏にちらつきはじめる。
救わなければ。
救わなければ、
『たとえ己がどんな醜悪なものに成り果てようと』
「……ッ!」
悪夢から目覚めた瞬間のように、目を見開き胸を押さえる。
どっと背を汗が流れるのを感じた瞬間、ざぁ、と風がその汗を一気に冷やした。
耳に痛いほどの、枝の軋み、葉のうめき。
その中で、あの歌つむぐテノールが死に果てたようなモノトーンで、
「『あなたが望むなら』、僕は、それを成し遂げよう」
ボロミアが樹上を振り仰いだ時、すでに、その姿は消え去って痕跡すら残してはいなかった。