Noと言えるエルフ
ホビットたちが、何やら白熱した議論を繰り広げている。レゴラスは丘に抜きんでた一本の樹に昇り、はるか遠くを見はるかしながら、聴覚だけをそちらに向けて、彼らのやり取りを聞いていた。
「今日はガラズリムと共にいなくて良いのか、レゴラス?」
「彼らはいったいなにをしているんです、アラゴルン?」
時折あることだが、まったくこちらの話を無視した返答に、アラゴルンは溜息をつく。
「いきなりそう言われても何のことかわからぬよ。彼らとは誰のことだね?」
「小さい人たちですよ」
くらり、とレゴラスの身体が揺らいだ、と見る間にその身体はまっさかさまに樹から落ちる。
まん丸く開かれたギムリの口が「ぎゃあ」と叫ぶ前に、ほっそりしたレゴラスの体は、己の落ちた枝のふたつほど下の枝に、ひどく軽やかに膝でひっかかってくるん、と、逆さまにギムリの頭上にぶら下がった。
「な、な、な……なんて心臓に悪い真似をするんだ、あんたは!」
ギムリが真っ赤になって怒るのを、コウモリのように逆さになったまま、ぶぅら、ぶぅら、と左右に身体を揺らせて笑う。
滝のように落ちかかる髪が木漏れ日をはじいてゆらゆらと揺れた。
「心配してくれたのかい、ギムリ、それは嬉しいなあ!」
からかっているのなら良いのだが、レゴラスは本当に喜んでいるのである。手におえない。
「む、……むむ、なんて跳ねっ返りのエルフだ! もうわたしは決して心配などはしてやらんよ!」
「なぜだい、ギムリ、ギムリ旦那! わたしが、君が心配してくれるのを喜ぶのはいけないことなのかい!?」
逆さまのまま手を伸ばしてくるレゴラスから、頭から湯気でも立てかねないギムリはぷいと顔を背け、音を立てて焚き火の傍へと戻っていく。ボロミアが盾を磨きながら、気の毒そうに顔を見た。レゴラスをではない。ギムリをである。
「アラゴルン、わたしはどうやらギムリを怒らせてしまったよ!」
「……だろうな」
両手を差し伸べると、とん、と枝を蹴る音がしてレゴラスは、アラゴルンの腕の中に落ちてきた。
「まさか心配してくれるなんて思わなかったのだけど」
「次からは気をつけるといい」
今更何を説教したとて、無駄だとわかっている。なにせエルロンド卿が匙を投げたのだ。アラゴルンが太刀打ちしてどうこうできるものでもなかった。
森林の香のにじむほっそりしたその身体を、樹の根元に下ろして傍らに腰掛ける。レゴラスはたのしげだ。ロスロリアンの森の空気は、このエルフを輝かせている。ミスランディアを喪った痛みを、今はひととき、忘れるとまでは行かずとも、癒されてはいるようだった。
「で、彼らはいったい何の遊びを?」
ホビットが早口の西方語で何かをまくしたてている。ピピンがメリーを指差して笑い転げていた。
「他愛ない言葉遊びだよ。……やってみるか?」
後半の言葉はエルフ語だった。
「どんな遊びなんです? わたしたちの言葉でもできるような?」
「できるとも。いいか、わたしが何かを質問する。あんたはそれに『いいえ』と言う。何を聞かれてもいいえと答えるんだ」
「嘘をつくのかい?」
レゴラスの眉が寄せられる。アラゴルンは笑ってその肩を叩いた。
「遊びだよ、レゴラス。たとえばわたしが『歳はいくつ?』と尋ねても、『いいえ』と答えなきゃらならない」
「なるほど、とっさに本当の答えを言ってはいけないのですね」
レゴラスはこの、エルフにとっては風変わりな言葉遊びが、どうやら気に入ったようである。
「どうぞ、どこからでも質問してください」
そう言って、傍らのアラゴルンの顔を興味ぶかげに覗き込んできた。
では遠慮なく、と笑いかけてから、
「レゴラス、君の好きな食べ物は?」
小手調べに問うてみる。
「いいえ?」
おっとりと笑ってレゴラスは首を傾げた。
時ならぬエルフ語の、どんどんと早口の掛け合いになるやり取りに、他の仲間たちがお喋りを止め、彼らを眺めやる。
当のふたりは構うことなく、
「酒は好きかい?」
「いいえ?」
「その弓は父上に貰ったもの?」
「いいえ?」
「闇の森は良い所?」
「いいえ?」
「ドワーフはエルフより賢い?」
「いいえ!?」
「あそこに見えるのは何だろう?」
「いいえ!!」
レゴラスは声を立てて笑い出してしまった。アラゴルンも笑いながら、つづきの言葉をさらりと言った。
「わたしを愛している?」
「え、――」
笑いが止まる。
レゴラスは一瞬、何か別の言葉を言いかけてふと黙り込んだ。
「……いいえと言いたくない?」
返答はない。
「いいえとも、はいとも、言いたくない?」
レゴラスは黙ったままだった。途方に暮れたように眉を寄せたまま。
「はいと言うのが……怖い?」
優しくエルフの言葉で問う眼前の野伏は、すぐに王となり、友人の夫となり、そして、屍となって冷たく横たわる、せわしくかなしい人間と言う生き物。
レゴラスの、歌つむぐシンダールの、神の創った芸術たる咽喉に、音がひっかかってそれより上に昇ろうとしない。
「大丈夫」
ただ訴えるようにアラゴルンを見続ける、そのほっそりと尖った耳に囁きが滑り込む。
誰がどこで聞いているともしれぬ、ガラズリムの森の中で。
「大丈夫だ、レゴラス。
あんたが生涯、わたしにいいえと言い続けても。
誰を愛しても、誰と共に在っても、わたしを置いてどこに行っても。
……わたしはあんたを愛しているよ」
だから、「いいえ」と言いつづけて良いのだと。
ももとせちとせの愛を、はぐくむエルフであるがゆえに。
性急な野伏の、――それも遠からず他者の夫となるべき者の、そんな、人間の愛の言葉に、怯えてしまうというならば。
エルフの愛と、人の子の愛の、違いに戸惑うというならば。
とわに「いいえ」でかまわない、
……愛されているということは、本当は、わたしはちゃんと知っているんだからね。
「……アラゴルン、」
少し泣きそうに眉を寄せて、困ったように、レゴラスはただ、アラゴルンの名を呼ぶ。
はいと言えば良いのか、いいえと言えば良いのか、
……愛しているけれども、その愛は、この野伏の意図する愛と同じだろうか、
…………愛してはいるけれども、その愛は、…………何かとても罪深いものではないのだろうか。
「アラゴルン、……アラゴルン、わたしはわからないよ」
「だから、」
そっと肩を抱き寄せ背をなでてやりながら、アラゴルンは低くささやく。
「だから、『いいえ』でいい、
心配せずとも、わたしは変わらない、答えが『はい』でも『いいえ』でも。
だから、『いいえ』でいいのだ」
それでも、『いいえ』と答えることはなぜかできずに。
エルフはなぜか少し身の内が震えるのを感じながら、ただ、アラゴルンの囁く息を耳に感じていた。
不意に低い声でアラゴルンが笑う。
耳に息が余分にかかって、レゴラスは身をよじった。
「アラゴルン?」
「あんたの負けだ、わたしのエルフ」
「……え?」
「『いいえ』以外の言葉を言った」
「…………あ? …………ああっ!? はかったねアラゴルン! なんて卑怯な!」
「今更何を言ったって、あんたの負けさ!」
真っ赤になって立ち上がるレゴラスから飛び退り、アラゴルンは、ぽかんと彼等を見守るホビットたちへの元へと、声を立てて笑いながら避難した。
「待ちなさいアラゴルン! あなたという人間はなんて――」
「レゴラス、わたしを愛しているか?」
ホビットたちの後ろに立って、アラゴルンはいともたやすく、その問いを投げかける。
「少なくとも、あなたよりギムリの方がずっと好きだっていうのは確かだよ!」
エルフらしく、『はい』も『いいえ』も答えることなく。
そう言って恐るべきスピードでギムリへ駆け寄り、彼とボロミアの真っ只中へとダイブする。
「その返答はひどいぞ、レゴラス」
「あなたの方がずっとひどい!」
「ああ、そんな人間になつくぐらいだったらわたしになついてくれたら良いものを」
「ボロミア、ボロミア、ひどいと思いませんか、アラゴルンがわたしの心をもてあそぶのだよ」
「もてあそぶっっ!?」
「誤解だボロミア、わたしはただ――」
「いい加減にしてくれ! わたしは斧の手入れがしたいんだ!」
大きい人たちって、やっぱり、ちょっと風変わりだね、そうだね、どうも捕らえがたいところがあるね、とこそこそ仲間と囁きあっていたフロドは、ふと、アラゴルンを見上げて少し首をかしげた。
彼には、アラゴルンが一瞬、祈るように瞳を閉じていたように見えたのだ。だがそれは眼の錯覚だったのかもしれない。
次の瞬間、
「ひどいぞレゴラス、わたしの大事なボロミアとわたしの大事なギムリをそんな、君の身体でプレスするような真似は」
「わたくしがいつ、あなたのものになったのですかアラゴルン!」
会話は何事もなかったかのように続き、アラゴルンは身軽に彼等の元へ歩み寄っていったからだ。
「……旦那様?」
サムが、黙り込んでしまったフロドを覗き込む。
フロドは少し眼を伏せて首を振った。
遊びであんな問いを投げかける人ではない、とは思ったが、それはきっと、レゴラスが誰よりもよく、わかっているのだろう。
「何だかせつないね、サムや」
そう、歌うようにやわらかく言うと、サムは肩をすくめて「おらは腹がせつないですだよ、フロド様」とおどけたように首をかしげた。
主人の感傷を、なんとか笑いに変えてしまいたい、そんな気遣いを感じて、フロドはにっこりと笑い返す。
旅は早く終わってはほしいけど。
彼等がこの、中途半端な、微妙な距離でいられる――この日々だけは、永遠に続いて欲しい、心優しいホビットはそう、かなわぬことを願ったのだった。