コトノハ



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空見上げ 我 常想う かくも蒼 御身また 見上げたまえぞかしと

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蒼い風が吹いた。
南から、草原を渡り山脈を超え、森を撫でて蒼い風が吹いてきた。


瞳を開く。
眠りの小道は一瞬で、はるか夢想の彼方に去った。
目の前に広がる無限の蒼。
心まで染み込むような、夜明けの空。
雲一つない群青は眼を染め抜いて心を鎮める。


蒼い風が吹いて髪を乱し、もてあそぶ。
たたずんだまま、その風に横顔を吹かれながら、ひたすらに曙光を待ち受けた。


視界を遮るものは何もなかった。
見下ろせば黒々と果てまで続く大森林。
森で一番高い樹、王族にしか昇ることのできぬそれは エアレンディルにもっとも近き樹。
そしてこの樹は、その日の森の表情を知るための見張り台だった。
闇の森の王族は、率先して前線へ立ち矢面に笑う者でなければならない。この樹はそれを誓う樹であった。
現在は、末の王子である彼が――レゴラスがもっぱら、この樹に昇る。
かつて、一文の得にもならぬ戦いに、ただ、オークへの憎悪と定命の者へのいつくしみで参戦した彼ら森のエルフ。そのもっとも若き子らのひとりであるレゴラスは、その戦――それを五軍の戦と呼ぶ――の悲惨さを、その眼でその身で受け止めた。
その頃、裂け谷にはひとりの少年が大切に育てられていた。
(アラゴルン、)
心の中に囁く。
(僕の永遠の王。君も同じ蒼を見ているか? この北の空気の冷たさと美しさを、君はまだ覚えているか?)
この樹に昇り、森の顔を知り、曙の最初の光を一族の者に高らかに知らせる、その勤めを行うのは五軍の戦を知ったから――そして、いずれ、更に悲惨な戦に立ち向かわねばならぬであろう、その少年を知ったから。
南から吹く風は、蒼く冷やされて、暁にその緑葉の瞳を射させる王子の頬を、斬るようになぶって去っていく。
隣の枝にひっかけた矢筒から、鏑矢を一本引き抜いて、枝の付け根に立ち足を揃えたままの姿できりきりと弓を引き絞る。
(南の風は君には優しいか? 僕のこの弓が、オークをひとり倒すことは君の助けになっているか?)


南には彼がいる。
己と戦い闇と戦い、南には海と、彼が、在る。


ビィィィィィィィ…………イイン……………………


三度、立て続けに鏑矢をつがえ、南の地平線に向けて放つ。
届くはずのない音ではあるけれども。
夜明けが来たことを報せるために。
戦い続けていることを報せるために。


闇の中でしか生きられぬ者たちは、光の訪れを報せるその音を聞いて口々に鳴きながら影の中へと森を逃げゆく。
勇名をもって馳せるエルフの王子の、その矢に罪を射抜かれぬようにと。

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朱い風が吹いた。
西から、海原を渡り波を超え、砂原を撫でて朱い風が吹いてきた。


「波の音には慣れませんか、ソロンギル殿」
背後から部下に声をかけられ、今はソロンギルの名を名乗るアラゴルンはその、若々しい顔に苦笑を浮かべて振り返った。
彼は海に面して砂浜に立ち、まさに、眼を射る曙光を眺めていたところだった。
ソロンギルの名は漂泊の勇士として、ゴンドールに知れ渡っていた。一時、ゴンドールに羽根を休めた孤高の英雄として。
……執政の「臣下」として。その真の名、真の姿知られぬままに。
それでよいと彼は思っていた。思おうと、していた。
「そう……確かに、まだ慣れない。この音のせいか、夢になつかしい人が現れてね」
「なつかしい人? ……想い人ですかな?」
冷やかす声に、苦笑の顔のまま少し考え込み、
「いや、……友だ」
その一言で充分だと思う。友。冷たき骸となるその瞬間にも、それは堅く結ばれて変わらぬ絆だ。
「海辺に住む人なのですか?」
「逆だ。海を見たことがない。海の話も、彼の前ではしない」
「それはなにゆえに?」
「……禁忌なのだ。いにしえよりそう定められている」
再び海へと向き直る。
熱砂がブーツを灼きはじめる。
「この盾堅きゴンドールにも、彼ほどの勇士はさほどもいないだろう。彼ほどの弓士ならばなおさら得難いだろう。
 海は彼の禁忌だが、彼の歌ういくさ歌は不思議にこの波の音に似ているのだ」
アラゴルンには聞こえないものを聞き、アラゴルンには見えないものを見る、不意につと、優雅な緊張を身体にみなぎらせて彼方を見やる、ほっそりと尖った顎、その上の形の良い鼻、そして、強き宝玉の瞳を彼は思い出す。
熱砂まじりの風は吹く。彼のエルフの知らぬ海の風。
(レゴラス)
心の中に囁く。
(私の永遠の友。君も同じ空を見ているな? 君の聞いてはならぬこの海の街の風の音に、よく似たあの弓弦は未だ鳴らしているか?)
「大切なお方なのですな。遠い国の?」
部下は穏やかに、ソロンギルの背を眺めて言った。
「ああ、遠い国の。……遠い北の国の」
(北の風は君に涼しいか? 私がこうして、このゴンドールで戦っていることは君の森を少しは安らげているか?)


ザァァァァァァァ…………アアア……………………


不意に、ソロンギルは低い声で歌い始めた。
このベルファラスに来て覚えた、ゴンドールの民謡。熱風と波濤を伴奏とする、遠き地の戦友を恋う兵の歌だ。
それに、彼の知る北のエルフの音楽が知らず混じり、思わず部下が、じっと聞き入るほどに幽玄の奏でと組みあがる。


波間にエルフの声が、彼を『僕の王』と呼んではばからぬ彼のやさしき声が、聞こえたような気がした。

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『忘れるな』 『忘れない』 『星を見ておまえの瞳を』 『風を聞いてあなたの声を』 『忘れないから、おまえも忘れるな』 『忘れない』 『必ず再び』 『再び逢えるその時まで』

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『 ― ― ― 』

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「!」


弓弦が音を立てて切れ、敵に投げつけざま背の短剣を引き抜いて薙ぐ。
派手に散ったオークの血潮を受けて半ば黒く染まりながら、レゴラスは己の死の予感よりも、なぜかまず、まっすぐに南の方角を向いて瞳を光らせた。
(アラゴルン、今はソロンギルの名を名乗り、身をやつしてもゴンドールに尽くす僕の王、)
たてつづけに双剣を振り回し駆け抜けながら心に叫ぶ。
(僕は大丈夫だ、僕はまだ戦っている、生きている。だからあなたも死ぬな、その名を高らかに名乗ることもせず、死ぬことは僕が許さない!)
カハッ! と吐いた息と同時に再びオークの黒い血が舞う。
(南の熱き息吹よ、彼を――僕の王を護れ!)
声にならぬ祈りの言葉は、確かにその時、南の熱砂をゆるがせて震わせた。


「!」


馬上より振り下ろした剣が音をたてて欠け、突き出された槍をとっさに避けざまもぎとって奪い、振り回してオークを薙ぎ倒す。
昂奮して棹立ちになる馬を叱咤しながら、ソロンギルは己の死の予感よりも、なぜかまず、まっすぐに北の方角を向いて歯を軋らせた。
(レゴラス、私が王位に就くと信じ、出会いの日より私を王と呼んで憚らぬ私の永遠の友、)
オークの長槍を振り回し疾駆しながら心に祈る。
(私は大丈夫だ、私はまだ戦っている、生きている。だから君も死ぬな、私を王と呼んでおいて、その不老の命を私より先に散らすことなど許さない!)
カハッ! と吐いた息と同時に再びオークの黒い血が舞う。
(北の冷たき息吹よ、彼を――私の友を護れ!)
声にならぬ祈りの言葉は、確かにその時、北の森林をゆるがせて震わせた。


(死ぬな!)


ただ一言のコトノハを。
風よ運べと、ふたりの勇士は高らかに叫び、黒き血を身にほとばしらせた。
未だ闇深き病の森で。
未だ炎惨き黒の国で。

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北の森にも、南の海にも、等しく日は沈み、そして、蒼き夜明けが訪れる。

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