その楽器が荷物の中からこぼれおちたことに、女たちは気づかなかった。彼女たちを取り仕切るエオウィンも含め、女官たちは全員、エドラスへ戻る仕度で忙しくたち働いている。
夫を、父を、息子を、亡くした者もいる。目を真っ赤に泣き腫らして、それでも、彼女たちはがむしゃらに働いているのだった。
エオウィンが、そんな女官たちを気遣って休憩を言い渡し、ひとりひとりに声をかけながら去っていく。
遠ざかるその声を聞きながら、捨て置かれたままの楽器をそっと、傷ひとつない繊細な、だが、内に強大な力を隠した弓手が拾い上げた。
手の持ち主は、海のような蒼を含んだ緑の瞳で、じっと、その楽器に見入った。手の中に納まる細い柄、動物の皮を張ったらしき胴。柄の先に、調弦用のネジをはめこんだ飾り頭があった。馬の形をしたそれを、緑の瞳は生真面目に見つめた。
ひとりの女官が、すらりとたたずむ若木のようなその姿に気づいた。怖れと憧れが、その薄い色の瞳に走る。
人の気持ちを浮き立たせることに長けた、やや騒がしくもほがらかな、何より女性に敬意を払うこと篤いドワーフは、意外に女官たちに人気があった。だが、この不可解な、美しすぎる、冷たく整ったおそろしの生き物は、その美しさにもかかわらず、奇妙に遠巻きにされている。
何より、彼の種族がこの砦で喪ったものが、あまりに多すぎた。突如人間を助けに現れて、親交を温める間もないままに、ばたばたと死んでいったエルフ達。そのエルフの生き残りのひとりに、どんな言葉をかけてやることが、彼らの種族の礼儀なのか。……何をしてやれば、その魂が慰められるのか。伝説の種族を相手に、そんなことを、一介の女官が知るはずもない。
「ローハンの民は馬を愛している。彼らは、種族を超えた彼らの友が死んだ後も、そうして傍らに名残をとどめようとするのだ」
背後から、聞き慣れたやわらかな声がかけられた時、弓手に楽器を持つエルフは驚かなかった。彼は楽器から視線を外し、首を傾げるようにして相手を見た。無言の問いに対して、声をかけた人の子は――アラゴルンは頷いた。
「胴に皮を、弓と弦に毛を、柄に骨を使い、生前の姿を似せた飾りを彫る。……姫の持ち物かも知れん、返しておけ」
エルフは己に近づこうとしない女官をちらりと見てから、楽器を彼女ではなく、アラゴルンへと押しつけようとした。
だが、畏れるように近づかぬ人々の中でただひとり、手を伸ばし、横合いからその楽器を受け取った者がいた。
レゴラスの目元がわずかに固くなる。
「エオメル?」
とりなすように、アラゴルンが名を呼べば、アラゴルンとレゴラスの間に割り入った者――エオメルも、どこか硬い表情のまま、答えた。
ローハンの訛りの残る、西方の言葉だった。
「それは私の従兄のものだ」
レゴラスはゆっくりと、楽器から手を離す。
「妹が荷物に紛れ込ませたものだろう」
いとしい従兄君の形見の品を、向かう先は死地なれば共に――と、気高い姫は思ったのだろうか。
それを悟ったアラゴルンが、礼儀ただしく視線を伏せるさまを、どこか納得が行かない様子で、レゴラスはぼんやりと眺めている。
エルフには、形見の品という概念は薄い。彼らにとって、同胞の死は、いつか再びマンドスで出会うまでの、しばしの別れだ。
ふたりの概念のすれ違いを、アラゴルンは気づきつつも指摘はしない。ただ、言葉の足りない奴等だ、という想いで苦笑をするだけだ。
もっとも、当のエオメルとレゴラスは、互いのすれ違いをさほど気にした様子もなかった。レゴラスは、無事楽器がエオメルの手に渡ったことを確認すると、それきりふわりと踵を返す。エオメルは受け取った楽器を携えると軽く、弓をあてた。
ツィン、という軽い音が、作業する者の手を止めさせる。
レゴラスはちらりとエオメルを振り返った。
「やはり彼のような音は出ないものだ」
苦笑してエオメルは楽器を従者に預け、レゴラスは一度止めた脚をまた、しずかに動かして広間を出ていった。
さほど音に興味を動かしたようにも見えなかった、その後姿をエオメルは、少し首を傾げてあおるように顎を上げ、じっと、眺めやっていた。


「あまり愛想がよくはないし、人間のような表情の動きは少ないが……」
エルフが広間から姿を消したのちに、アラゴルンはそう、エオメルに呼びかけた。戦いに身を投じている以外の時間、そのかなりの割合を、アラゴルンはこうして、異種族間のとりなしに消費させられていた。ドワーフとエルフ、ドワーフと人間、エルフと人間……旅の仲間が9人いて、身を寄せ合って眠っていた頃から、ずっと。
「……別に、情が薄いというわけじゃないんだ。エルフの死生観は人間と少し違うが、奴は奴なりに……」
アラゴルンは、無骨なローハンの公子が片手を挙げて、それなりに礼儀正しくアラゴルンの言葉を遮ったことに気づき、口をつぐんだ。
「アラゴルン殿、別に私はエルフの情の深さを疑っているわけじゃない。たとえば……」
返り血に汚れた顔を、水で拭っただけの、鎧姿の青年は、己の手で顎を撫でて言葉を継ぐ。
「たとえば、そう、あれは馬のようなものだろう。馬だって、人間と同じようには喜怒哀楽を表さないものだ」
言ってからエオメルは、アラゴルンが口を開けたまま自分を見ていることに気づいたらしく、眉を寄せた。
「……馬?」
「そう、馬だが。……馬に詳しくない人間には、馬の喜怒哀楽はわかるまい?」
当たり前のように、さらりと言うエオメルの顔を、まじまじとアラゴルンは見直す。
エオメルの顔は至極まじめだ。
「馬、ねぇ」
アラゴルンは首をかしげ、レゴラスが去った扉の方角を遠く見た。
彼は、エルフとは比べ物にならないにせよ、見かけより随分と長い時間を生きてきた。幾多の国や森や山を訪れ、エルフ、人間、魔法使い、ドワーフ、ホビットの五族と親しくつきあった。
その彼にとって、エルフとは神話の世界から現れ出でた、気高くも美しい太古の種族である。アラゴルンは、そのような人類の兄姉のことを、よりにもよって獣に喩えるという神経の持ち主がいるとは夢にも思わなかった。
だが、
――存外いい喩えだ。
すべるように、長い裾を引きずって歩き、常に動作はゆっくりと洗練され、はるか遠くを穏やかに慈しむ眼差し――そんな上古のエルフとは違い、彼らの仲間となったあのエルフはまだ年若く、躍動感に満ちている。
そして何より気性がよく、あれはあれなりに人間を愛していた。
――ローハンの民とは恐ろしいな。本能的に、だが鮮やかに本質を突く。
思わず笑みを含んでエオメルを眺めやれば、そのエオメルは、手元の琴とアラゴルンを見比べているところだった。
「いかがした、エオメル殿」
「エルフとはどのように死者を悼むものだろうか?」
「……なぜ?」
この、前しか見ようとしない青年に、葬送の儀礼が気になるとも思えない。
エオメルは当たり前のような顔をして答える。
「勿論、……」
……その答えを聞いてアラゴルンの笑みはかすかに深まり、
「それは、あのエルフに直に聞いてみた方がいいだろう」
そう、青年の背を強く押し出してやったのだった。


「エルフとはどのように死者を悼むのだ?」
そう若々しい声が尋ねた時、レゴラスは、遥かを見通すその緑の瞳をアイゼンガルドの方角に向け、じっと、物思いにふけっているところだった。
「なぜそんなことを聞く?」
すぐには答えず、問い返すエルフは、片手に弓を携え、腕を組んで風を受け、あぶなげもなく、ただ城壁の先端に立っている。そうして彼は、未だこの一帯に漂う同族の嘆きの声を聞いていたのかもしれない。
風に弦が震えている。それを手で押さえることはせず、エオメルはその後姿を見上げて答えた。
「我々のために命を落としてくれた命だ。せめてその魂を慰めたい。だが、草原のしきたりで弔っても、森のエルフが喜ぶとも思えない。感謝の意を表すのに、相手のしきたりに従うのは当然のことだと思った」
草原を駆け干戈の狭間に踊ることを好む、この猛々しい男の、率直な物言いはエルフを不快にはさせなかったらしい。レゴラスの瞳が、遥か彼方に向けられたまま、かすかに細められた。
「……我々エルフは、人の子のようには死者を悼まない」
シルヴァン・エルフのわずかな生き残りは、ローハンの民に馬を借り受け、ロスロリアンへと死者を載せて旅立っている。彼らはおそらく、休む間もなく次の戦いに駆り出されるのだろう。レゴラスの故郷闇の森の、南はるかにはドル・グルドゥアが――モルドールの軍の北の基地があり、闇の勢力が増せばロスロリアンへと打って出るに違いないのだ。
……それ以前に、隣接した北闇の森、レゴラスの父スランドゥイルの王国こそが真っ先に戦いを挑むのであろうが……
細めた瞳が翳ったように見受けられたのは、気のせいだったのか。斜め後ろからの視線を受けて、レゴラスは一度瞳を閉じ、その瞳を開いた。
「人の子は、エルフの弟妹だ。弟妹に先駆けて、兄姉の血こそ流れるべきだと思うからこそ、彼らはローハンを救いに来た。……すべきことをしただけだ。彼らの身体はロスロリアンのとこしえの安らぎの中に眠り、彼らの魂は遠きアマン――君たちの言う『天国』にやすらう。僕もいつかそこで彼らに再会する。だから、エルフは同族の死者をさほど悼みはしない。いつか必ず逢えるからだ」
歌うようにつむがれた言葉は、要約すれば「必要ない」という実も蓋もないものであったかもしれない。だが、エオメルはひるまなかった。彼は一度首をかしげ、それから、さも当然のように言い募った。
「だが悲しいだろう?」
レゴラスは振り返った。
「……あんたは悲しかったんだろう?」
琴に結わえられた弓の先が、レゴラスを指差す。
「僕は……」
「弔いは死者のためだけじゃない。取り残された生者が、嘆き、嘆き終わるためのものだ」


レゴラスはエオメルを見つめ、やがてその眼差しを、ゆっくりと、はるか北、彼を育んだ闇の森があるであろう先まで――そこまで続く草原へと向けた。
「……レゴラス?」
「この草原は、」
そういえば、この戦士に名前を呼ばれたのは初めてだったかもしれない。そう思いながら、レゴラスはただ、草原の途方もない広さを見つめ続けて言った。
「この草原は、どこか、僕の森に似ている」


学に富んだゴンドールを隣人として持ちながら、どこまでもただ、伸びやかに、歌を好み、文字を嫌い、笑い、嘆き、望みのままに自由のままに、……生きて生き終われば死ぬこの草原の民。


「そうか」
よくわからなさげに、だが、けなされたのではないらしい、と本能的に悟ってエオメルはぎこちなく笑った。もともと、いかめしい顔の男だ。笑うのはあまり、得意ではなかった。
「エルフは楽を愛し、歌を愛する。……その琴の音はいいな。死者のために弾いてくれないか」
「ああ、では、楽師を――」
「弔うのは君じゃなかったのか、リダーマークの王の養い子よ」
「俺は――」
無骨な、戦にしか働かぬ男だと、自ら言う騎馬の民は困ったように、やや照れたように眼を逸らした。
「エオメル?」
「……わかったよ」
エルフの歌つむぐ声に名を呼ばれることが、どんな作用をもたらしたものか。かなわない、といった表情で天を仰ぎ、それでも、エオメルはその場にどかりと座り込む。
言うほど拙いとも思えない、伸びやかな、どこか野放図ですらある琴の音が、ゆるゆると、風に乗って情熱的にすすり泣き始めた。




素朴で単純な旋律が、繰り返し奏でられるうちに、いつしか、その弦の音に妙なるエルフの歌声が和していく。
城壁の下、作業の手を休めて草原の民は天を見上げ――哀悼の意をこめてそっと、涙をこぼし、祈りを捧げたのだった。