小さな木の実――闇の森



波の音を聞いたと思った。たしかに、海が自分を呼んだと思った。
エルフはその晴れやかな瞳を天に向けた。


「野原だよ」
ぽつりと隣のドワーフがつぶやいて視線を落とし、目を見張る。
ドワーフは髯をしごきながらぐい、と顎を上げて自分を見上げ、もう一度はっきりと言った。
「野原を渡る風の音だ。波の音ではないよ」
「わたしは何か口に出して言ったかい?」
「いいや」
「……君にはかなわないな」
苦笑して、波のようにうねる野原に視線を向ける。
「……黄金の海だ」
「ただの野原だよ」
「そうかも」
エルフは逆らわず小さく笑った。
しばし沈黙がふたりの間に満ちる。
それを破ったのは、普段は寡黙なはずのドワーフだった。
「あんたは、飾り物は身につけんのだね。あのスランドゥイル王の息子なのに」
「つけてるよ?」
「ほう?」
顔を上げたドワーフに、エルフは、「君の目に適うものではないと思うけど」と笑いながらチュニックをゆるめ、皮紐らしきものを使った首飾りを引っ張り出し、首から外した。
かろん、との軽い音の正体を早く知りたくて、ドワーフはそれを覗き込む。
「……なんだね、これは?」
手を出すのを畏れるように、覗き込んだままの格好でドワーフはエルフを見上げた。
柘榴色の小さな丸い珠が、5つ、穴を空けて通してあった。エルフは悪戯っぽく笑うとそれを軽く揺らし、かろんかろん、と乾いた音を立てさせて言った。
「これはね、ギムリ旦那、なかなかどうして、そこらの宝石よりもずっと値打ちものかもしれないよ。
 なぜってこれは3000年以上前の木の実なんだもの!」
ドワーフは言葉につまり、その時のはるかさを思って歎息した。そっと指先で触れてすぐに手を引っ込める。
「闇の森の川底にあるんだよ。あの特別な水に沈み、長い間磨かれると、こんな琥珀のようになってしまうのだねぇ。小さい頃、はじめてあの水の中に潜った証として、わたしが水底から取ってきたんだ」
それは、闇の森のシルヴァン・エルフの、通過儀礼のようなものだったのかもしれない。だがドワーフは今はそれを問わず、エルフの手の上のそれを、じっと見つめていた。
「わたしは、取ってきたことに満足して、そんな木の実は忘れていたんだけれども……」
声が途切れた。
ドワーフがちらりと見る。
エルフは肩を竦めて笑って、首飾りを再びつけ直しながら言った。
「忘れてなかった人も、いてね」
「……そうかね」
ドワーフは問わない。
エルフも答えない。
ただ黄金の波が、本物の海のように、繰り返し繰り返し、ざわざわと揺れつづけるのみであった。






死にもの狂いで伸ばした手が草を掴んだ。咳き込みながら、爪を地に立て、己を引きずり込もうとする水から身体を引き離す。
涙目で顔を上げると、目の前に父の姿があった。丈高きシンダール。蒼の瞳がじっと自分を見下ろしている。かがみもせず、傲然とたたずんだまま。
「ちちうえ、」
ずるずると這うように岸に上がりながら呼ぶと、父の瞳はレゴラスの、握られたままの拳に落ちた。
そっとレゴラスがその拳を開く。
宝石のような赫の輝きが5つ。
何も言わず、父は普段と変わらず無造作に、右手を伸ばして木の実を奪い、左手を伸ばしてレゴラスを、力任せに川から引っこ抜き、抱えて歩き出した。


「昇ってこい。乾くまで降りてくるな」
腰巻きひとつのレゴラスを、父は、エルフの良き魔法に護られた泉の中で適当にじゃぶじゃぶと洗い、そして木の上に追いやった。
いまだ、人間なら少年と言って良い外観のレゴラスは、追い立てられるままに樹に昇る。
父がついてくる気配はない。
「ちちうえも、かわかしませぬのか」
枝の狭間から問うてみるが、返事はなかった。
ただ、弓弦がビィン、と鳴り、どこかで何かがどさりと落ちただけだった。


レゴラスは膝を抱えて、枝の狭間と、枝下の父に護られてじっと、はるか遠くを見つめていた。
どこまでもどこまでも、眼に痛いほどに続く黒々とした緑、南の悪しき気配、早く流れていく雲。
「小僧」
張り上げもせぬのに樹の上まで届くシンダールの魔法の声。一族なら誰もが、その響く声を知らぬ間に使いこなす。
レゴラスも特に大声ではなく答えた。
「はい」
「そなたの眼に、眼下の風景はどう見える」
「広いです」
素直にレゴラスは答えた。
「そなたのものだ」
父の言葉が理解できず、黙って言葉の続きを待つ。
淡々と響くシンダールの声が枝枝をゆるやかに打った。
「世界をイルヴァータールのものだ、ヴァラールのものだ、邪悪なるモノどものものだ、……この国はわたしのものだ、あの森はロリアンのものだ、などと、皆、結局は好きに申しておるだけよ。
 世界とは誰のものでもない。……つまりそなたのものなのだ」
幼いレゴラスに、父は言葉を噛み砕くことなく、常に容赦なく、大人と同じ言葉をかけた。
レゴラスは常にその言葉を、歌を好む民特有の耳の良さですべて覚え、いつか、己にわかる日が来るのを待つのだった。
だがレゴラスはその日、奇妙な衝動にかられ、樹の上から父へと言葉を投げ返した。
「でも、ちちうえ、世界はわたしのものでも、ぜんぜん、わたしの思いどおりにはならないのです」
「それはそうよ。そなたがそなたの世界を持つと同じように、我も我の世界を持ち、我の世界はそなたにはどうにもできはせぬ」
どうにもできはせぬ。
穴蔵にこもり。ノルドールを嫌い。輝かしきロリアンの光明を妬み。南の影に怯え。
心の何かを埋めるように宝石を買い求めても。
「なにひとつ自由になりはせぬ。
 ……ゆえにせいぜい、己が身ひとつは自由を通すが良い」


「好きなものを見、食らい、愛で、どこへなりとも行くが良い。
 世がなにひとつそなたの自由になりはせぬように、そなたはなにに束縛されることもなく自由なのだ」


父王の声は静かだった。
倦み疲れさえ、する気になれぬ諦観と静寂が、そこにはあった……






かろん、かろん、と首飾りをいじる手の中で、木の実がかわいた音を立てる。
「……この前イシリアンに移住してきたエルフがね、これを持って来てくれたんだよ」
「ふむ」
「父上からの贈り物だって」
あの幼い日に、父に渡してそれっきり、忘れていた木の実を。
寄越したのは父の気まぐれか、それとも、……


――どこへなりとも行くが良い。


「……自分は腐るほど宝石溜め込んでるくせにね、
 息子にくれる首飾りは木の実だなんて、……父上らしいなぁ」


何一つ自由にならぬこの世の中。
いとしい人たちはみんな、先にいなくなってしまう。
この中つ国をそれなりに、気に入っていたはずなのに、黄昏の時代なんてものが来てしまうし。
父親は一向に西へ向かう気配がなく、――お高いノルドールやヴァンヤールがたむろする島へなぞ、行くぐらいならエルフであることを忘れてしまう、そんな生き方の方が、彼には似合うような気さえしてきて。
だからと言って、小さな妖精のひとりに成り下がって、森を逍遥する父親の姿など、想像もできなくて、
(ああ、本当に、何もかもがままならない)
エルフはひとり、苦く笑う。
瓦解と化すドリアスを、無数の国民の屍を、削られつづける領土を、見て来た父に比べたら、どうにもやわな悩みのような気もするのだけど。
だけど。


ドワーフがじっと自分を見上げている。
エルフはさらりと髪をかきあげ、黄金の海を眺めて、そして、晴れやかに微笑した。
限りなく自由にならぬ世界。
その中で限りなく自由な自分。
束縛も悲しみも、己の望みの内にあること。


「ひさしぶりに、ホビット庄まで足を伸ばそうか、ギムリ!」


「どこに行くにしても」
その言葉を強く響かせ、ギムリはさらりと言った。
「わたしは、あんたと一緒に行くさ」
どこに行くにしても。
……西に、行くにしても。


ひょろ長い影とずんぐりした影が、黄金の海の中を、連れ立って渡って行く。
かろん、という軽い音が、どこからか聞こえたような気がした。