小さな木の実――裂け谷
黄金の野を少年が駆けていく。
木陰にひとりたたずんで、エレスサール王はその姿を見つめていた。
――エルロンド様、ありました!
晩秋の肌寒さに、差し込んだ一瞬の陽光の如く、脳裏に幻聴が閃く。
少年の背に誰かの姿が二重映しになる。
それが誰なのか、王には思い出せない。
(君は誰だ?)
どこまでも伸びやかに、駆ける少年の笑い声。
――まこと、そなたの背には翼が生えているような身軽さよ。
おだやかな深い声を思い出し、ああ、と王はゆるやかに目元に甘い痛みを浮かべた。
(君は、わたしか)
いまだ己が正体を知らず。
館の外に、徘徊する闇の者どもと戦って泥濘を噛み這い回ることもなく。
ただ、伸びやかに、ただ、跳ね回っていた、何も知らぬ、子供の頃のわたし。
裂け谷の秋は金と赤に満ちてやさしくやわらかく。
忙しい義父は歳を経るごとに少しずつ、少しずつ愁いを深め。
あまり、共にどこかに出かけた記憶はないのだけれども。
ただ黄金に満ちた野原の散策、どうしてもその愁いを晴らしたくて、勇気を出して誘った覚えだけが色褪せた輝きに守られ残っている。
少年は真っ赤な木の実を拾っては歓声を上げ。
その後ろを、ゆっくりと、ローブを揺らせて歩くあの人がゆるやかに笑う。
――そんなに走るものではないよ、わたしは年寄りなのだから。
眼を細めて、自分を見守る大好きな人。
はしゃいだのは、そのしあわせに、終わりが在ると、どこかで悟っていたからかもしれず。
――見てくださいエルロンド様、宝石のようです。
――では館に戻ったら、グロールフィンデルに頼んで、糸を通して飾りにして貰おう。
少年の持つ木の実ごと、少年の手を包み込み、義父は彼の眼を覗き込む。
――エステル。
見上げると、丈高きその人が浮かべている慈愛と悲歎。
それはすぐにそらされ、黄金の揺れる野原をぐるりと見渡される。
――ご覧。世界はとても美しい。
不意に胸がつまって何も言えず、しっかりと手を握り返して、少年もまた風に騒ぐ野原を見渡した。
――エステル、我らの希望。
そなたが大人になった時、わたしはきっと、そなたを重い宿命のくびきにつなぐ日が来るであろう。
多くのものを求め、多くのものを課すであろう。
だがどんなに多くのものがそなたの背にのしかかり、歪ませたとて……
少年は顔を上げなかった。ただ揺れる黄金の波を見つめていた。
義父のゆるやかな言葉がつむがれる。
――わたしが、本当にそなたに望んでいるのは、いつも、そなたが思うがままに、強く生き抜くその一事だけだということを、忘れないで欲しい……
ちちうえ、と。
あの瞬間なら、呼べたのではないかと思う。
ずっと呼んでみたかったのに。
今ならきっと、今ならきっと、さりげなく、呼んでみようと、
思いつづけて――呼べず、一日、野原を一緒に歩いたあの日。
「ちちうえ!」
エレスサール王はびくりと肩を震わせた。
すぐ目の前にある灰色の瞳。
ぱっちりと見張られて自分を見上げている。
王は小さく息をつき、少し眼元に笑みを刻んで、手を伸ばしその、少年の頭をくしゃりと撫でた。
「……走るのに飽きたか、エルダリオン?」
「いいえ、きれいな実をみつけたので、ちちうえにお見せしたくって!」
もみじのような、いまだ苦労を何も知らぬ手に乗せられた、小さな、真っ赤な木の実。
その手をそっと、木の実ごとつつんでやる己の手に、刻まれた年輪と労苦。
はるか野原を見渡して知る。
あの人のいないこの世界の、それなのに、変わらぬ美しさと優しさを。
――そなたが思うままに、強く……
「ちちうえ?」
「宝石のようだな。母上に持って帰って、首飾りにしてさしあげよう」
「はい!」
エルフの義父が、己を死ぬまで見守ってくれると、思っていたのに。
皮肉にも、人の子の親子と同じく、己は、親に取り残され、そして子の手を取り、その子を置いていく時を思う。
繰り返される時の営みを、だが、あの人は遠く離れて見守ることもない。
ちちうえと、呼びたかったのですよ、あなたを。
やわらかな手をそっと握り、王は野原に残る小さな足跡を幻視しながら、ゆっくりとその上を歩いて城へと戻っていった。