わたしの傷、あなたの心
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「ロスロリアンまであと何日だ?」 「およそ2日行程といったところか」 低い声で話し合うボロミアとアラゴルンと、その緑葉の瞳に焚き火の炎を映えさせて彼らを見つめるレゴラスを、斧を磨きながらギムリは見比べた。 ホビット四人は既にくちゃくちゃに固まって眠っており、戦士四人が今後の行程についての説明をアラゴルンから受けるところだった、が、 「……そこのエルフ、」 低く割れた声でギムリは声をかけた。 少し離れた木陰にたたずんで、猫のように緑に光る眼を、変わらずにボロミアとアラゴルンに――いや、おそらくはアラゴルン一人に、向けていたレゴラスがみじろぐ。 「何か、そこのドワーフ」 すずやかな声はすでに嵐を孕んでいた。 人間ふたりは会話をストップし、「また始まったか」とうんざりしたように眉を寄せる。 斧を置き、頑健なる小人は立ち上がって腰に手を当てた。 「何をくたくたしているかは知らんが、鬱陶しくてかなわねえ。言いたいことがあるならさっさと言ったらどうなんだ。アラゴルンに何か文句があるんだろう」 「ほう?」 ボロミアが目をまたたく。そしてアラゴルンを見やった。 アラゴルンは沈黙を守っている。ギムリは「フン」と鼻を鳴らして再びレゴラスをねめあげた。 「ただでさえいけ好かないエルフが、こうもいらいらしてちゃ、とてもじゃないが旅を続ける気になんぞなれやしないぜ」 口調は散々だが、アラゴルンが探索より戻ってのち、鬱屈した様子を見せるエルフを、どうやらこのドワーフはそれなりに気遣っていたらしい。 「……この僕を挑発したな、グローインの子ギムリ」 不意にサムがぱちりと目を覚ました。とっさにフロドの姿を探している。この慧敏なホビットが、本能的に危険を感じるほどに、そう、それほどにエルフの声は剣呑であった。 「……レゴラス?」 サムがかけた声を無視してゆっくりと、前へ出る。一歩。二歩。それは危険な猫科の猛獣の足取りだ。静かすぎる。整いすぎている。 ……美しすぎる。 「アラゴルン」 優雅に顎を上げ、常にはへりくだるほどにこの人間の顔を立てるエルフは今や、冷たく荒ぶる暴君と化して彼を見下ろした。 アラゴルンは心当たりがあるのか、片膝を立てた姿勢のまま、わずかに腰を浮かせ、後ろに飛び退く準備を整えている。 「おい、」 ボロミアが声をかけたその瞬間、 ガッ! 弓引く右手がそのままの勢いと素早さでアラゴルンの頬を殴りつけた。 避けることかなわずよろめいて手を後ろについたアラゴルンの、左肩を力任せに蹴りつける。 「ガアァッ!」 上がった苦鳴は、あまりにも大きすぎた。残りのホビットたちが全員飛び起きるほどに。 戦士たちが驚きの表情をアラゴルンに向ける。 「おかしいな、アラゴルン。痛みに強いあなたが、エルフの貧弱な蹴りを受けたぐらいでどうして悲鳴をあげるんだ?」 凄絶な無表情そのままに、のたうつアラゴルンの左肩を執拗に、レゴラスは脚を上げて踏みつけた。いまや全身に炎の照り返しを受けたその優雅な姿は血を浴びたかの如く朱に染まり、緑の瞳は赤を弾いてぎらぎらと光り、そして、 「レゴラス!」 「レゴラスいけません!」 サムが左腕に、フロドが右腕にしがみつく。このエルフの手が短剣の柄に伸びようとしたことを、ふたりは感づいたのだ。 ボロミアがその隙に、怒れるレゴラスの足からアラゴルンを引きずり出し、一気にそのマントと上着を剥ぐ。 「……これは! モリアでの傷か!」 紫に腫れ上がった打撲傷がそこにはあった。明らかに関節まで傷めている。 「ピピン、メリー、持って来れるだけの水を取って来い! ギムリ、彼らの護衛についていってくれ!」 矢継ぎ早に指示を出し、ボロミアは脱げかけた上着の襟首を掴んだまま、アラゴルンを揺さぶった。 「なんで黙ってた! 俺たちは旅団だぞ、あんたひとりの身体じゃないだろうが!」 「言えば休息をとっただろう。大した傷じゃない。これ以上行程に遅れが出ては困る」 陰気なほどに落ち着いた声でアラゴルンは答える。ボロミアは怒りやまぬといった様子で、 「馬鹿も休み休み言え、もしレゴラスが気づかなかったらどうなっていたか――……ッ!」 と、レゴラスを見上げて絶句した。 レゴラスは両手にホビットをぶらさげたまま、その双剣を抜いていた。 「<呪われよエルフの石>」 低い、低い声がエルフの言葉を紡ぐ。ボロミアは一瞬、それがモルドールの言葉なのではないかと疑った。それほどまでに、それはすさまじい怒りと呪いを孕んでいた。真っ赤に焼けた炭を押しつけたような。 レゴラスは、そのものしずかな相貌もあいまって、普段は彼がエルフであるということを――神代より来る種族であるということを、忘れさせてしまう一面がある。だが今、この怒れるエルフははっきりと、彼がもっとも恐ろしい力を持つ種族の末裔であることを一同に示していた。 「<百歳(ももとせ)も生ききらぬうちに、人の子の分際で死に急ぐというなら、僕がその身を滅ぼし尽くしてやる。さぁ顎を上げろ! 首を差し出せ! 緑葉の冷たき刃にかかって腐れ果てろ!>」 ホビットを振り捨ててレゴラスは刃を振り上げようとする。だがサムとフロドは必死にしがみついてそれを許さない。 「レゴラス! 緑葉のあなたが、だれかを呪うなんてだめだ! 自分を貶めます! ……お願い、やめてください……!」 フロドは目に涙を溜めて、エルフの震える手に携えられた短剣を己が手で握る。血が滴り、エルフの手にぱたぱたと落ちた。 「……フロド、……」 レゴラスは燃えたつ緑柱石の瞳を閉じ、だが、次の瞬間、だらりと手を下げてホビットを地に下ろしてやった。 一言も口にせぬまま、森の奥へ駆け去るエルフを見守るアラゴルンに、地に尻餅をついたままのサムはひどく、かなしげに声をかけた。 「アラゴルン、……ガンダルフを喪ってから、みんな恐れているんです。 次に死ぬのは誰なんだろうって」 勇敢なホビットの口にした言葉に、一瞬、その場が凍りつく。しかし誰も、それを否定する言葉は持たなかった。 フロドが立ち上がり、レゴラスを追って走り出す。 「あのひとは……レゴラスはきっと、一番、そういうのから遠いひとですよね、エルフなんですから。 だから、最後に残るのは自分なんじゃないかって、それが怖いんじゃないかって……」 「わかっている」 はじめてアラゴルンは口を開いた。ボロミアの手当を受けながら、暗く、どこか澱んだ瞳で焚き火を見つめている。 「……わかっていて、やったのか」 ボロミアの声は沈痛だった。 「わかっていて、やったんだな。……罪深いな、あんたは」 「そうさ。王にふさわしくない、濁った血の濁った塊だよ、私は」 言ってアラゴルンはわずかに顔をしかめた。ボロミアの手当に、不必要に力が篭ったことに気づいたのである。 「誰だって濁ってる。あんな透明なのはエルフぐらいだ」 ボロミアは包帯を巻き終え、軽く肩を叩いた。 「……濁ったまま、生きなきゃならねえんだろう、人間は」 ボロミアの声にはひどく、深刻な響きが含まれていた。彼の視線はふと、レゴラスとフロドの消えた森を追った。だが彼が見たのはそれではなかった。彼が見たのは闇だった。闇の向こうに、彼を呼ぶ声がある。滅びの予感が、不意に彼を締めつけて彼は息を呑んだ。 フロドはレゴラスの姿を一本の樹の下に見つけた。すらりとした立姿は、今は鎮まっていて蒼く透き通り美しかった。 「レゴラス」 声をかけると、レゴラスは月はるかに照らされるその顔をフロドに向けた。 レゴラスは泣いていた。無表情なその美しい顔のまま。 「レゴラス、苦しいのですか」 フロドが、血の滴ったままの手を伸ばしレゴラスの両手を取る。レゴラスはその手にくちづけ、血をそっと吸い取って言った。 「呪われるべきは僕だ」 「レゴラス、」 「日を追う毎に、僕はオークより醜くなっていく。 あの人の死ぬ日が、近づくからだ」 「レゴラス、それは遠い未来のこ――と、」 言いかけてフロドは沈黙した。たしかに、レゴラスにとっては、たかが100年やそこらなど、1年後と同義なのかもしれなかった。 「あの人は僕が苦しむのを知っている。知っていてあんなことを。 僕の胸が裂けて死ねばいいと、思っているんだよ」 フロドは己が確かに見た光景を思い出した。 レゴラスが気も狂わぬばかりの怒りを以ってアラゴルンを、アラゴルンただひとりを見つめたあの瞬間に、彼のさすらい人は激痛の中で一瞬、ほんの一瞬、 ……笑みを、浮かべた。 苦しむレゴラスを見て暗い喜びを覚えたのか、それとも、レゴラスが己一人だけを見ていることを確認してほくそ笑んだのか、それは、知らない。 けれど、 ――ああ、病んでいる。 指輪の魔力のせいであってほしい、そう思いたいと、フロドは心の中で叫びながら、だが、レゴラスには優しく呼びかけた。 「ねぇ、レゴラス、……あの人は、アラゴルンは、きっと……あの人が死んだ後、あなたと一緒にいるであろう誰かが、にくいんだと思います、レゴラス。だからあなたのこともにくいんです。 ねぇ、レゴラス、どうか、どうかあなたはもう泣かないで」 自分の身長の二倍ほどもある、自分の年齢の100倍ほどもある、そんな人が子供のように頼りなく泣いているのが、あまりにもかなしくて。 エルフの涙を受けて傷のふさがりゆく手を伸ばし、フロドは懸命にレゴラスの頬の涙を払い、声が嗄れるまで彼を優しく、励まし続けたのだった。 |