いとしきあひるの子




木々の狭間に、一本の糸杉と化したかのごとく、白金の髪のエルフはすらりと溶け込んでたたずんでいる。弓をかけた腕を、胸の前で組みあわせ、じっと空を見ている姿は、この地の過去の亡霊のように点在する、白い石造りの彫像によく似ていた。
エルフの聡い耳には、野営地でふたり、言い争う人間の男の声が聞こえていた。らしくもない、と、尖った耳をかすかにひくつかせ、エルフは声の方角を見た。見た時にはすでに、音もたてぬ猫の動きで、足早に森を駆けている。
あんな激しい語調で言い争っては、ホビットたちを起こしてしまう。健康ないびきを響き渡らせているドワーフは、目覚めもすまいが、指輪の魔力に苦しむフロドはあっさりと目を覚ましてしまうだろう。
――何をやっているんだ、ふたりとも。
普段はひどくホビットたちに気を遣ってやるくせに、疲労も頂点に達しているであろうこの、河下りの一夜でこんなに騒ぎ立てるなど。一発ずつ、拳で頭を殴ってやろうと森を飛び出しかけて、
「エルフは信頼しても人間は信頼できないのか?」
その叫び声に縫いとめられたように、エルフは――森の王子、指輪の一行の弓手レゴラスは、その場に立ち尽くした。


怒りに耐え兼ねたといった応酬ののちに、アラゴルンが逃げるように森の中に飛び込んできた時、レゴラスはまだ、その場に立ち尽くして二人のことを眺めていた。
その肩あたりに突き当たってよろけ、やっとその存在に気づいたアラゴルンが「レゴラス、」と息を呑むようにして呼びかける。
レゴラスの視線の先で、アラゴルンの声を聞いたボロミアが、ぎくりとこちらを見上げた。
この夜闇では、レゴラスの姿には気づけまい。レゴラスには、はっきりとボロミアの表情が見えていたが。
「……見張りを変わる」
低い声で、アラゴルンはレゴラスに眼を合わせぬまま、囁く。
黙ったまま、誠実に目礼してレゴラスは、アラゴルンとすれ違い、森を分け出でてボロミアの元へと歩み寄った。
ボロミアには、闇の中から突如エルフが現れたように見えただろう。広い肩が怯えたのを、夜目に明るきエルフの瞳は認めた。
視線を逸らしたまま、ボロミアはしばし何かを言いかけて、咽喉がつまった、といったような仕草ののち、やっと謝罪の言葉を絞り出した。
「……あんたを侮辱したつもりはない」
「わかっている」
涼やかにレゴラスは答え、星明かりの中にひとり、ボロミアを気にするでもなくすらりと立っている。
気まずげに、また、力を使い果たしたといったように、ボロミアはその隣にがくりとうずくまり、座り込んだ。
緑の瞳がその焦燥をちらりと見守ったが、口に出しては何も言わない。
代わりに言ったのは、一見、まったく関係のないことだった。
「あなたの父とはどんな人だ?」
ボロミアが意外げに顔を上げる。レゴラスは襲撃を警戒しているのか、遠く川岸を眺めて動かない。
「なぜそんなことを尋ねる?」
「会議の時に、父親の話をしていたのを思い出したから」
「ああ……」
少し考えてから、ボロミアは小さく苦笑して素直に答えた。
「立派な父親だ。少なくとも俺には、そう映った」
「そうか。僕の父親も、僕の眼には立派に映った」
いついかなる時も乱れぬその立姿、組んだままの腕、その手がゆっくりと、弓の銀の飾りをたどっていることにボロミアは気づいたようだった。
「……欠点も多かったし、敖慢な人だとは思うけど。特殊な護りの力もなく、南の脅威に屈さずに国を保ちつづけてきた」
「俺も……その台詞を、そのまま俺が吐いても不自然じゃないぐらいだな」
ボロミアは、どこか子供のようにうれしげにそう言った。ひどくほっとしているその様子を、はじめてレゴラスは見下ろして視線を合わせ、そして、ぎこちなく笑い返した。不器用な笑い方は、むしろボロミアに好感をもたらした。つきあいの深い、ローハンの男たちを思い出したのかもしれない。
すぐにレゴラスは川岸に視線を戻し、低い声で言葉を継いだ。
「父の背中を、見て育った。闇は、常にすぐ傍らにあった。父は、民の指針だった。……そして僕の指針だった」
頷くボロミアの目の前で、夢見るように遠くを見たまま、ゆっくりと、レゴラスは瞳を閉じた。
「……だがアラゴルンには父がいないのだ」
重くまとわりつく沈黙の中で、あくまで涼やかに、瞳を閉じたままレゴラスは囁く。
「僕はエルフの父の背を、あなたは人の子の父の背を、見て育ったから、エルフとして育ち、人の子として育った。
 ……では、赤子の頃に父を喪い、半エルフであるエルロンド卿に育てられたアラゴルンは……いったい、何だと言うのだろう……?」
ボロミアは何かを言いかけ、だが、言葉が見つからず、うずくまるように座ったまま、片手で己の額を覆った。
情に篤い男の中で、数々の葛藤がせめぎあっているその様が、レゴラスの輝く瞳には見て取れた。
何か反論を絞り出そうと、何度も開かれる口。アラゴルンへの同情と、反発で揺らぐ瞳。人の子の間でしか話し慣れぬために、闇の中で表情を隠しもせぬ、その純朴さそのものを、レゴラスは見守っていたと言っても良い。
「……要するに、」
深く考えることは苦手なのだろうか。振り払うように首を振って、ボロミアはレゴラスを見上げる。その時には、レゴラスは既に川岸に視線を戻していた。ボロミアは、レゴラスが自分を観察していたことに気づかなかった。
「今のあいつは、人でもエルフでもない、半端者だ、ということか?」
半端者、という言葉にレゴラスの口元がほころぶ。
「そうだね……」
レゴラスはゆるやかに頷いた。
冷気に満ちた風が二人の間を吹きぬけて、レゴラスの白金の髪を乱し、彼の表情を夜の闇からさえ、隠してしまう。
「エルフだとて、良き人の子に育てられればきっと、人に近くなる。……我々は成人するまでに百年以上の時間を必要とするから、実際に、人の子が我々を育てることは不可能に近いけれども。
 エルロンド卿は立派な方だ。そのエルロンド卿に育てられたアラゴルンが、エルフを信頼するのは仕方がないと思う」
「だがッ――」
「いつかは人の子の元に戻る」
ボロミアが激する前に、静かな声でレゴラスはそう、囁いて彼の言葉を封じた。
「……戻らなければならない。彼は人の子の王になるのだから」
「レゴラス、」
思わずといったように名を呼んだボロミアに、レゴラスは音もなく向き直り、はじめて、正面からその顔を見た。
きらきらと、夜闇に猫の如く光る緑の瞳が、ボロミアを正面から射抜く。
「時間をかけて、彼はエルフから人間の方へと引き寄せられ――
 いつか、僕よりあなたを信頼するようになるだろう」
そして奇跡のようにゆっくりと、緑の瞳がまたたいた。
魅入られたように見つめていたその緑の光が、まばたきによって途切れたことが、ボロミアを金縛りのような沈黙から救う。
「……俺が寿命で死ぬ前に、そんな日が来れば良いがな」
軽く憎まれ口を叩いてそれきり、会話を終わらせようと背を向けかけて、ボロミアは不意にがばりとレゴラスを振り返った。
「レゴラス?」
「……何か?」
不思議そうに、その緑の瞳を見張るレゴラスは、常の通りの、猫のように油断ならない身のこなしの美しいエルフだった。


ボロミアが寝床へ潜り込んだことを確認して、レゴラスは低い声で歌を口ずさみ始めた。
天を見上げ、ゆるゆると、つぶやくような歌を空へ漂わせ続ける。
森の中で、己を落ち着けるように深く呼吸をし、見張りに立っていたアラゴルンは、ふと、その歌声に眉を寄せた。
かの森のエルフを知る彼にとって、そのとつとつと、飄々と続く彼そのもののような歌声は、今夜に限って、ひどく不吉なものを孕んでいるように思えた。


――まるで何かを予感しているかのような声だ。


そう思ってから、差し込んだ疑念の、とらえどころのないその暗さに驚いて、アラゴルンは強く首を振った。
今は何も考えたくない。何も考えずに、胸を冷やし心を落ち着ける、この懐かしい森の香りの中に、埋もれて過去の夢にひたりたかった。
夜が明ければ、また、考えなければならないことが山と現れる。だからなおさら、今はただ、何も知らないエルフの養い子に――ただのエステルに、戻ったような錯覚を覚えていたかったのだ。






ギムリを先に船に載せ、軽やかな、だが力強い歩みで船を押そうとした瞬間、隣の船を押すボロミアがちらりとこちらを見た。
「何か?」
涼しく問えば、黙って再び、ボロミアは船を押す作業に戻る。
そして、船がまさに滑り出し、飛び乗るその瞬間にぽつりと、言った。
「次の宿泊地で、彼に謝るつもりだ」
「え、」
聞き返そうとした時にはすでに、不器用な男とホビットふたりを載せた船は、滑り出て川面へ向かっている。
立ち尽くすエルフに、ドワーフがその塩辛いがらがら声をかけた。
「どうしたエルフ、その細腕じゃ船も押せないというなら、俺が押すぞ」
「ドワーフが飛び乗りでもしたら、船の底が抜けてしまうさ」
とっさにそう軽口を叩き返してから、ギムリが皮肉を装って、彼を不器用に気遣ったことに、レゴラスは気づいた。
さてもこの使命の旅、ホビットたちの明るさや素直さとは裏腹に、この生物たちのなんと不器用なことか。
それを思えば、ふどく不吉なものがよぎったはずの心が、少し明るく、ふわりと浮き立つような気さえして、レゴラスは小さく笑うと、ぐいと強く船を押した。


レゴラスは言うべきであった。
「次とは言わず、今謝ってしまったらどうだ」と。
彼はそう言おうとしたはずであった。そうしなければ、取り返しのつかないことになると、彼は、知っていたはずであった。
……彼の中に欠片ほどでも残るその、上古の力は、はっきりと彼に――ひとつの生命の終焉の時を、警告していたに違いないのだから。






草原を孤独な野伏が走る。
その後を追い、足取りだけはひどくかろやかに、草踏む音さえたてぬエルフが、歩みながら不意に視線を伏せた。
「どうした」
自分が追いつけるほどに、エルフが歩調を緩めた。なぜかそれがひどく気になって、ドワーフはぜいぜいと息を切らせながらも、それでも、歩みを必死に速めて彼に追いついた。
「見たまえ、ギムリ、草原を人の子の王がゆく」
ほっそりと彫像のような指先が、彼らの先を導く野伏の背を指し示す。
そして葬送の歌のような、ただ美しい声が続けた。
「人の子の王がひとりゆく。ドワーフとエルフを従えて。ホビットを求め、オークを追って。
 ……誰一人、人の子の部下もなく。誰一人、人の子の味方もなく」
孤独な王は一兵の部下も持つことなく、ただ、その手の甲に、彼をはじめて王と呼んだ、彼の国民の籠手を抱く。
それだけが彼を、信じた人の子の証。夕星の姫が贈った石も、森の殿の贈った短剣も、奥方の授けた灰色のマントも、……彼のよりしろとなるべき人の子の、人の子の助勢はそこになく。
「見たまえ、ボロミアの、丈高き人ボロミアの、その死が王に与えたのは何と、重く大きな喪失であったことか」
たったひとりの、ただひとりの、人の子が死んでしまった。
「……だがそれが、アラゴルンを王にするんだろう」
ギムリはさらに息を切らせ、それでも、レゴラスを追い抜いた。
「ギムリ、」
「置いていくぞ、エルフ!
 アラゴルンに、再び人の子の朋友ができるまでは。俺たちが、あいつのたったふたりの仲間じゃねえか」
「……そうだな」
ひどく淋しく笑って、レゴラスは軽々とギムリに並び――かけてふと、ほんの少し、速度を下げてギムリの斜め後ろにつけた。
ほっ、ほっ、と自分を励ますように掛け声をかけ、それでも、エルフを引っ張るように、……励ますように、走る鈍足のドワーフに、エルフの脚は、追いつかず、ただ、優しくそれについていく。
人の子の左右に、エルフとドワーフ。
いつかは、左右に人の子が立ち、輝く王冠をその額にいただく日が来るとしても。
――今は、僕と、彼だけか。
ついていこう。
この孤独な、一兵も持たぬ異種族の王に。
朋友の死にやっとこさ、小さな一歩を踏み出した、この、かわいそうな最後の王に。


彼らは、黙々と走り続ける。
エルフならざるアラゴルンの、その耳に、ふたりの会話が入ったかどうかはわからない。
ただ、その異名の通りの速さで、走り続けてなお、疲れたか、汗を拭うように――


未だ己のよって立つべき場所を知らぬ野伏はぐいと、白の木の紋章も明るき籠手で己の頬と眼を、乱暴にぬぐって再び一歩を踏み出した。