『灰色の瞳』



本来、歌を愛するシンダールの民は、声を奪われる管楽器は好まない。彼らは優雅に弦楽器をつまびき、それに合わせてその澄んだ声で歌う。
だがそこから分化した森の民は時折、彼らの愛する樹から削り出した素朴な笛を、好んで携えることがある。
北の闇の森の王子レゴラスは、今、一本の樹の枝の上に、幹を背にしてすらりとたたずみ、手の中のその笛をぼんやりともてあそんでいた。
ぼんやりと――と、表現したのは誤りだったかもしれない。何も映してないかのような、やや上向いたその面は、実は、視界全体をくまなく見つめ、左手に携えたままの弓も、いつでも射放せるよう整えられている。
それはすべて、馬を二頭、仲良くそこらに放したまま、丘にひとりひっそりと座っているひとりの佳人のための警戒であった。
「降りて来てはくださらないの? 緑葉の方。あなたの王がされるような、きれいな花冠を作ってみましたのに」
少し淋しそうに、振り返った、夕星とたたえられてやまぬ美貌――レゴラスはゆるやかに視線を伏せて首を横に振る。
「エルロンド卿に任されたのだから。警備をおろそかにはできません」
「わたくしは、警備をお願いした覚えはありませんわ。一緒に来ていただきたかっただけです」
「なら、僕以外の誰か、伴の者を別に連れてくるべきだ。オークの横行もますます激しいのだから……」
「ふたりで来たかったの」
言葉を遮るように言って、アルウェンはその淡い紫のドレスのスカートの上に、ぱらぱらと、花冠に入りきらなかった白い花を落とした。
「……あの人が越えていった、この丘に」
レゴラスは口をつぐみ、黙って、視線を遥かに向け直す。
彼らふたりがエステルと呼び、今はアラゴルンと呼ぶドゥネダインが、最後にこの丘を越え、はるか南の彼方へ赴いて、すでに20年がたっていた。
すでに風の噂も絶え。生きているのか死んでいるのか、それさえも知れることはない。
だが彼らふたりはなぜか、かのドゥネダインが死んでいるとは決して思わなかった。ただ、エルフの元で育ったかの人が、孤独と重圧に負けているのではないかと、ふと、不安に思うことはあった。彼の旅立ち目指した地に、エルフの姿などは影さえ見当たらないのだから。
「わたくしたちにはほんの一瞬。けれども、ドゥネダインに20年は長いのでしょうね」
アルウェンは遠く丘の彼方をみはるかす。
娘の外出を渋るエルロンドに、アルウェンは無理にと請うて、久しぶりにこの地を訪れたレゴラスと共に、この丘を訪れていたのだ。
レゴラスは、アルウェンとアラゴルンの関係を問わない。20年前……あの護りの力厚きロリアンの地で、ふたりの間に何かがあったのだと、レゴラスは気づいていた。だが、問わない。アルウェンも、20年間、それを明かすことはなかった。
だが、
「……レゴラス、緑葉のお方」
アルウェンは、身を赤く染める夕陽を背に受けながら、ひっそりと、背後の樹への言葉を投げかけた。振り返らぬままに。
レゴラスは黙って、次の言葉を待っている。
風が淋しく、ふたりの狭間を吹きぬけた。
その風の中、アルウェンは囁くような声で、そっと、レゴラスに言葉を継いだ。
「わたくしは、あの人と共に生きる運命を選びます」
吹き抜けた風がレゴラスの耳に、残酷なその言葉を置き去りにして吹き去っていく。
弓の弦が風に震えた。
「あなたも感じたはず。あの人は最後の王になるでしょう。わたくしは感じました。この人なのだと。わたくしと、闇の君主の終わりを告げ、黄昏を閉じるのはこの人なのだと。
 父が見守りつづけた歴代のドゥネダイン、そのどなたにも感じなかったことを。わたくしははじめて、あの方に感じたのです」
3000年近い時を生きた思慮深きエルフの姫が、恋愛沙汰だけで伴侶を選ぶはずはなかった。アルウェンは悟ったのだ。王になるのはこの人だと。そしてその隣にこそ、自分は在って、エルフとエダイン、ふたつに分かれた血の繋がりを全うするのだと。
……恋がないのではない。恋だけではない、それだけだ。
「……ですから、近い未来、わたくしとあなたは、お別れすることになるでしょう。
 大切なお友達のあなた。……エステルを誰よりもいつくしんだあなた」
そしてエステルが焦がれたあなた。
アルウェンはその言葉を口には出さず、膝の上に、編み終えた花冠をそっと置いてそれに視線を落とした。


「……ふたりで、同じ時を共に生きるんだね」
「ええ。あの人の運命が断たれれば、わたくしも生きてはいないでしょう」
「僕は、」
レゴラスは夢見るように遠くを見たまま、やわらかく言った。
「僕は、とても大事な人を、ふたりとも永遠に喪うのか」
僕を置いていくのか。
……ふたり、共に、逝ってしまうのか。
アラゴルンにはアルウェンを取られ。アルウェンにはアラゴルンを取られるのか。
大切な幼なじみと、…………身も心をも捧げようと、思った終生の友。
アルウェンの手が、ぎゅっとスカートを握って皺にする。
「どうか、わたくしたちを、……見守って」
見届けて。
あの丘を越えて遠く、南の弱りし王国に向かった、あの人を、
それを待ち続け、信じ続ける、わたくしを、
どうか、見守って。


黄昏が淋しき風を運び来る。
レゴラスは小さな声で、いいよ、と答えると弓を肩にかけた。
手に携えた横笛を唇に当て、ものがなしい音色をヒョウ、ヒョウ、と風に乗せて奏でる。
エルフが笛を吹く時は、言葉を発したくない時。
笛を吹いていれば、いやでも、言葉を、唄を、唇から零さずにすむのだから。
だが、レゴラスは己の言葉から逃げるために、ただ、笛を吹き散らしているわけではなかった。
北から吹き渡る淋しき風が、遠き南へ、この音色を届けるようにと。
この身を苛む悲歎と惜別が、癒しの想いに昇華して、風の便りももはや途絶えた
いとしい、彼らのいとしいドゥネダインの、心を少しでも救うようにと。


待っているのだと、
わたしたちは、あなたを待っているのだと、
本当は、何を為さなくとも、ただ、あなたが無事でいてくれれば、それで良いのだと……


泣き叫ぶような響きの、この北の風が、彼にそう、伝えてくれるようにと。