灰色の挽歌――1




レゴラスは、西方の港へ行こうとはしなかった。
彼は礼を尽くして、かの灰色港から船大工を招聘した。
鳥歌い花笑うイシリアン。この地がレゴラスの旅立ちの地となった。
「わたしはぎりぎりまでここにいるよ」
ギムリを見下ろしてレゴラスは困ったように笑った。
「ここにいる」
言い聞かせるように繰り返す。
西方の港に旅立てば、陸を進む間だけ、陸にいなければいけない。
西方の港に旅立てば、陸を進む間だけ、親しい人たちとの別れを早めなければならない。
相反する、矛盾する想いが、イシリアンで船を建造するという、暴挙にも等しい行動を取らせたのだろう。
もっとも、これはすべてギムリの思い過ごしで、実際には、ただ単に、思い立ったところで船を造った、というこの王子らしい気まぐれな闊達さであったのかもしれなかったが。
「……ではわたしもここにいようかね」
船が出来上がるところを見ていたい、そう言って、この物堅いドワーフはすでに、一族と別れて燦光洞を出てきてしまっていた。
ふたりそうして、人々が忙しく立ち働く姿を眺めている。
この船は最後の船であろうと思われた。海を渡ることを望むエルフたちは、とっくの昔に、旅立ってもはや数えるほどしかいない。その数えるほどしかいないエルフたちが、レゴラスに従って、西へと旅立つ。
最後の王の死によって。
エルフという存在の許される時代が、終わったことを告げられて。
「いいのかい」
ぽつりとエルフがつぶやいた。
120年のつきあいは、彼らの間から徐々に言葉を奪っていった。それは悪しき意味ではない。ただ、彼らは言葉以外のもので、互いの心を繋げはじめていた。ほんのかすかに揺れた視線、ちらりと見交わした目つき、かすかに動く指先、すべてが彼らを繋げていた。悲しいほどに、彼らは一対であった。
凹凸がぴったりと噛みあうように、彼らは離れがたく友であった……
「今更だよ、レゴラス旦那」
ドワーフには考えられぬほどのやわらかさで、ギムリは答えた。確かに、今更のことであった。将来を誓い合ったという意味では、彼らは夫婦のようなものであった。その死の瞬間まで共に在ろうと。
レゴラスは最初、待つと言ってくれたのだ。ギムリがその終わりを遂げるまで、中つ国にとどまりつづけると。だがその言を吐いた唇は、そのすぐ後に、ひどく正直にこう告げた。
――それはわたしにとってはもっとも大きな試練となるだろうけれども。なぜって……わたしは西つ彼方を望むあまり、いつか、君の死を望んでしまう心暗い一瞬を持つかもしれないのだから!
ギムリが死ねば、わたしは西へ行ける。ギムリがいなくなれば、わたしは自由になれる……
このどこまでも明るく闊達な、緑葉の王子が、そう思った己自身を呪い、苦しみ、のたうつさまをギムリは想像した。
即答だった。自分でも爽快だった。
――わたしも行くよ、西へ。奥方のご尊顔を、もう一度拝見してから死にたいんだ。
レゴラスは長い間ギムリを抱きしめたまま、それ以上何も言おうとはしなかった。
……だから、そんな問いは今更なのだ。「ぎりぎりまで、一族と共にいなくて良いのかい」と、レゴラスの瞳は何度も問う。そんな問いはばかばかしくて、ギムリは鼻で笑って何も答えないのだった。


「ふたりきりだね、ギムリ」
船が灰色に塗られていく様を、じっと見つめてレゴラスは言う。
「指輪の仲間はもう、ふたりきりだ」
レゴラスが口に出して言わなかったことを、ギムリは知っていた。レゴラスにとって、100年は一瞬だった。火花のように激しく散る、美しい、何物にも換えがたい、この上なくいとしい一瞬だった。
「ふたりきり」。
……一瞬先には、「ひとりきり」になる。
それでもレゴラスはその一瞬をこよなくいとおしむ。後悔はしない。全身で愛し愛される。のびやかに、光に精一杯腕を伸ばす緑葉そのもののように。
だから、
「わたしは、どこまでもあんたと一緒だよ」
ギムリはそう言ってパイプを吹かした。ギムリはこの若く愚かなエルフを愛してきた、指輪戦争を知る最後のひとりだった。ホビットたちが、マークの王が、ゴンドールの執政が、……西へ先に旅立った指輪所持者たちが、灰色の賢者が、そして、彼らふたりの最愛の王が、このエルフを愛し、このエルフに愛されて去っていったのだ。
生きている間に。最も望む世界に送り届けてやりたいと。
その為ならば、ドワーフの存在せぬ世界に旅立つことなど、いかほどのものか。
「……わたしはしあわせなエルフだ」
静かにレゴラスは囁いて、もう100年以上前に、慣れてしまった「奇妙な煙」の香に身を任せた。


船が彼らの目の前で、灰色に塗装されていく。
「テレリの船は、白いと聞いていたんだがね」
パイプをくわえたまま、ギムリは尋ねる。
レゴラスはぼんやりと、その唇に歌もなく、流れる煙を眼で追っていた。
まったく、歌を歌うには時が必要だった。ミスランディアの時もそうだった。悲しみが強すぎると、しばらくは歌さえ歌えない。ボロミアの時とて、アラゴルンが先に歌の型を作ってやっと、その後に歌を乗せたのだ。
なのに定命の者を、彼はこれほどまでに愛してしまうのだった。
王の死は、彼らふたりを打ちのめした。彼らは共に、虚脱状態に陥っていた。ひとつの時代が終わったのだとか、上古の記憶は去るのだとか、そんなことはどうでも良かった。
もっともいとしいものが、もう、どこにもない。昨日までは在ったものが、今日にはもう、どこにもない。
それは本当に恐ろしいことだった。
「あんたの船なのだから、緑にでも塗ればよかったと思うよ」
灰色は気を沈ませすぎた。レゴラスは、緑葉の名そのものの色の瞳を一度ゆっくり閉じ、そして、緩慢に首を振った。
「無駄だよ、ギムリ旦那」
歌つむぐ声までが灰色だった。
「きっと何色に塗ったって、今のわたしには灰色に見えると思うんだ」


口調だけが変わらずになめらかで、闊達で。
ギムリは黙って眼を伏せる。
喜びに満ちて、せつない憧れの中で、旅立つべき西方への道。
その道の上を進むテレリの技術の粋を集めた船が、重苦しい灰色に塗られていく。
王すでに亡く。
王妃すでに発ち。
ただひとり、老い先短きドワーフのみが、傍らに残った。
「皮肉だな」
灰色の船を眺め、ギムリはそこから視線をそらさずに言った。
「あんたは、今でも周りに、エルフの石のように緑の光を放っているのに。
 あんた自身は、そんな自分も、何もかも、灰色に見えているんだね」
「何もかも、ではないよ、ギムリ」
同じように灰色の船を見つめる、その美しい、120年まったく変わらぬ口元がやわらかく笑みを刻む。
「わたしの眼に、ミスリルは今でも白金に美しい。
 それは君の色だから」
最後にたった二人、残った指輪の仲間。
朗らかに笑う黄色が、草原を覆う空色が、傷みに耐える青色が、情熱堂々たる赤色が。叡智誇る銀色が、喜び騒ぐ薔薇色が、優しく包む茶色が、夕焼け広がる紫色が。
……喪われ、去り、姿を隠し。
ドワーフの眼に、今も鮮やかな緑色。
エルフの眼に、今も鮮やかな白金色。
灰色の風景の中で。ドワーフは、船を緑に塗れば良かったと思い。
「あの船も、いっそミスリルで、君に造ってもらえばよかった」
船を眺めてエルフはやさしく笑ったまま。
「そうしたら、わたしの眼にも、少しは輝いて見えただろうに」
西へ旅立つ準備を、浮き足立ち急ぐ人々が行き交う中、


……瞳を閉じ、すべての色を、視界から遮断した。