急ぎ行く人の子と
やかましく鳴き交わすヒバリの言葉を聞き取って、グロールフィンデルはリュートをつまびく手を止めた。
「エルロンド卿、北のつむじ風があなたの元に戻って来ましたよ」
ヒバリは、よき乗り手と共に疾駆する馬の喜びを伝えていた。風と戯れたからかに笑う、エルフの若君の到来を伝えていた。
「グロールフィンデル、風はどこの地にも『戻る』ということはないのだよ」
眼を閉じて、グロールフィンデルの奏でるリュートを聴いていたエルロンドが、ものうく瞳を開いて片眉を上げてみせた。
エルロンドは、グロールフィンデルのリュートを愛でた。「若ぶった音色だと思うのですよ」と苦笑する、そのリュートの音は鮮烈で華やかだった。まさしくかの燃える金髪そのものであるかのように。一度マンドスの館に赴き、戻り来た者の心はいくらかなりとでも、若返るものなのかもしれない。
「彼があなたの勢力の内に飛び込んだ瞬間から、あなたはその訪れに気づいていたのでしょう。あなたがわたしのリュートを聴きたがるのは、大抵、あなたも若ぶりたい時なのだから」
「手厳しいな。わたしはまだ、それなりに若いつもりでいるのだがね」
そうは言いつつも、グロールフィンデルよりも己の方が、精神が年老いているに違いない、そう、エルロンドは思ってから少し苦笑した。彼の長き生に、少しずつ降り積もった悲歎、それをひとときなりと忘れさせてしまう騒々しい常磐緑の若葉が、今、彼の元に向かっている。
時まさに彼そのもののように、緑萌える若葉の頃であった。
「何年ぶりでしたでしょうか。スランドゥイル王も、闇の森の備えのためとはいえ、どうもかの王子を放そうとなさらない」
「何年ぶりであっても、さほどは変わらぬことであろう」
「そうでもありませんよ」
窓枠に腰掛け、気まぐれにリュートをかき鳴らしてふと、グロールフィンデルは窓の外の風景に目をやる。
「グロールフィンデル?」
「そうでもありません。
この地に人間がひとりもいないというなら、話は別だったのですが」
視線の先には、ヒバリをまぶしげに見上げるひとりの青年の姿があった。
そして馬を預け、踊るような足取りで庭園を歩きこちらに向かってくる、淡い白金の髪の若きエルフ。
「来たか」
エルロンドがゆっくりと腰を上げ、窓際に歩み寄る。
「ええ……」
グロールフィンデルは少し眉を寄せて考え込んだ後、唐突に、眼下の風景によく通る声を投げかけた。
「『エステル』、緑葉のご到来ですよ!」
エステルと呼ばれた青年が、空に向けていた視線を、驚いたように声の方角――グロールフィンデルに向ける。
「エステル?」
森のエルフらしく、緑の中に溶け込んでいたエルフ――レゴラスが、嬉しそうな声を上げて、同じくグロールフィンデルを見上げた。
その声を聞いて、はっ、と青年がレゴラスを見る。数歩と離れておらぬところに忽然と出現した、かのエルフを。
そしてかのエルフも、
ふいと、グロールフィンデルから視線を離してレゴラスは彼を見た。
不思議そうに自分を見る、常磐緑の瞳。
それが、く、と少し視線を調節するのに時間がかかったのを見て、彼は、レゴラスの背が自分より低いことに気づいた。
唇が開く。
何か言葉をつむがれてしまう前に、彼は――エステルは畳みかけるように、目の前のエルフに呼びかけた。
「どうだ、見違えただろう、レゴラス。
あんたがいつまでも、闇の森でぐずぐずしているものだから、わたしはすっかり大人になってしまったんだよ」
「……エステル、」
小さな呟きが、ぽつり、と唇から漏れた。
「今はアラゴルンと。……この話は少し長くなるが」
「『木の王(アラゴルン)』……?」
レゴラスはぱちぱち、と途方に暮れた顔で眼をまたたいた。
目の前にいる、エルフの自分より丈高い人間が、自分をエステルだとかアラゴルンだとか、そんなことを名乗っている。
そんなにわたしは闇の森にこもっていたっけ? と、やや混乱した頭で年を数えようとして、エルフの自分が年を数えることなどできやしないことを思い出した。
助けを求めるように窓を見上げる。見下ろしているグロールフィンデルと、その隣のエルロンド。
エルロンドが静かに声をかける。
「ようこそ、スランドゥイルの子レゴラスよ。上がって参られよ」
「あ、……はい」
反射的に返事をしてから、わたしが欲しいのはそんな答えじゃない、と言おうとしてふと、目の前の青年を見上げた。
「……レゴラス?」
大人の、人間の男の声。
見下ろしてくる灰色の瞳。
手が伸び、エスコートするように自分の背に当てられ、館の入り口へとうながされる。
この人はきっと気づいただろう、レゴラスはそう思って眉を寄せた。
レゴラスが彼を見た瞬間、とっさに、
「誰?」
と、言いかけたのだ、ということを。
そんなに急いで大きくならないでよ、エステル。
悲しくなってしまうじゃないか。
そんなことを言えば今度はエステルを悲しませるのだと、わかっているから沈黙を護り。
レゴラスは促されるままに、館の入り口へと歩み入る。
「レゴラス」
「まさかわたしより背が高くなってしまうなんてねぇ!
それもあっというまに!」
己の、生来はれやかな明るい声に、感謝しながらレゴラスはそう、かろやかに言った。
「……大人になったのさ」
前を向いたまま、エステル――アラゴルンは苦笑する。
この地で、彼の憧れてやまぬ緑葉の到来を待ち焦がれながら、彼は大人になり、男になり、そして、……美しい姫に恋をした。
時を止めたエルフに囲まれて、自分ひとりが、早送りのように、縦に伸びていく。
「なぁ、レゴラス、正直に言いたまえ、驚いたんだろう?」
「それは、もう」
「……うっかり、20年も目を離すべきじゃなかった、そう、思っただろう?」
「20年?」
そんなみじかい間だったのか、とレゴラスは目を見開く。たった20年。
……たった。
「わたしはこれから、見る見るうちに年老いていくんだよ、レゴラス」
苦笑したままアラゴルンは言った。
「あっという間に死ぬ」
「……エス――ア、ラゴルン」
「だから、」
扉の前まで来て二人立ち止まる。
不意にアラゴルンはレゴラスの両肩を掴んで、力任せに自分に向けさせた。
「だからね、レゴラス。
もう、わたしから目を離したりしないでくれよ」
「……エステル、」
「他の誰かをふらふら見たりしないで、ずっとわたしだけ見てほしいんだ」
……せめて、わたしが、しぬまでは。
「……前言撤回するよ」
レゴラスはふわりと笑った。
悲しみと喜びの同居するエルフの笑い方だった。
伸び上がってアラゴルンの頬に「チュッ」と音を立ててくちづけ、レゴラスは扉を開いて中へ飛び込む。
「あなたはなんにも変わってない。
なんにも変わってないよ、そのまっすぐな、わたしの大好きな眼!」
思わず頬に手を当て、茫然としばし立ち尽くしてから、アラゴルンは思い出したように左右を見た。
気恥ずかしさに赤面しながら扉をばたんと開き、レゴラスを追って館の内に入る。
「レゴラス?」
「とっくに上へ。今ごろはエルロンド卿と熱い再会の抱擁をしていることでしょう。前途多難ですね、坊や」
ロビーの柱に背を持たせ、腕を組んで立っているグロールフィンデルが、肩をすくめて言った。
「……あ、んの、馬鹿エルフっ! あっちこそちっとも変わってない! 右の耳から左の耳への風通しが良すぎるんだ!」
三段飛ばしで階段を駆け登るアラゴルンを、「おやおや、早い早い」と見送りながら、グロールフィンデルは、ふむ、と腕を組み直し、首を傾げる。
「教えてあげてもよかったかな。
あんな、泣きそうな、耳まで顔を真っ赤にした緑葉くんの顔を見たのは、はじめてですよ、……ぐらいは」
でも、嵐みたいな勢いで行ってしまったからね、とのんびりつぶやいて、グロールフィンデルはゆっくりと柱から身を離し、優雅な足取りで、後を追って階段を昇りはじめた。
数百年で死ぬ生き物と、とわに変わらぬ生き物を、同じ世界に置いたイルーヴァタールの意図は、一介のエルフにはわからねど。
できれば1年、1日でも長く、ドゥネダインが生きていてくれますように、
そう、3人のエルフは奇しくも同時に、今更ながら、祈ったのだった。