この戦いが終わったら



「レゴラス、皆を立たせろ」
冷酷な声が飛んだ時、レゴラスは茫然と、自分たちが這うように逃れて来た方角を見つめていた。岩の狭間の闇の向こうに、暗黒の深淵が広がっているはずだった。その方角に、彼が敬愛してやまぬミスランディアが在るはずだった。おそらくは、炭すら残らぬほどに燃え尽きた彼の骸が。
「……」
数瞬たってから、やっと、ぎくしゃくと顔を動かしてアラゴルンを見る。
その唇がすがるように何かを言いかけたが、アラゴルンの眼はそれを許さなかった。


ボロミアは人の死には多く面していた。彼はゴンドールの子。闇との最前線に立つ武将なのだ。
彼を襲った大いなる悲嘆は、彼を挫けさせることはなかった。だが彼は、アラゴルンがまずレゴラスに声をかけたことに驚いた。たしかに、レゴラスはアラゴルンの意志を尊ぶことが厚い。だが、
「もう少し休ませてやれ!」
かけた声の内容は、たしかにホビットたちを指してはいたが、同時に、明らかに目の前で起こった現象を理解できず、茫然自失の中にいるエルフのことも、指していた。
このエルフは理解できていないのだ。ガンダルフが地中に消えたということが、いったいどういうことなのか。……人の「死」とは何なのか。
それは永遠の離別を指し、絶対的な終焉を指し、完全なる肉体と精神の無を指す。不死なるエルフとは意味合いが違う。若きエルフにはそれがわからないのだ。
だがエルフは漂白された無表情のまま、アラゴルンの言葉に従い、ゆっくりと歩きはじめた。


ガンダルフを喪ってからのアラゴルンは、一行に対して時に冷酷な一面を見せるようになった。彼は非常に一行を急がせた。だが、その圧政の被害をもっとも被ったのは、明らかにレゴラスだった。
人類の気高き先輩が、まるで従者の如く扱われるのを、ボロミアは理解しがたく見守った。見張り、探索、ひどい時は狩猟採集まで、容赦なくアラゴルンはレゴラスに重荷をのしかけた。
レゴラスは一言も不服を言わなかった。ただ、黙々と彼に従った。


「一国の王子が、」
たまりかねてボロミアはある時、レゴラスに声をかけた。
「――一国の王子が、しかもエルフの王子が、そんな扱いに甘んじていていいのか?」
レゴラスは片膝をついて革袋を水に浸けた姿勢のまま、いぶかしげに顔を上げた。少し青白い。一瞬、彼が透き通っているように見えた。泉の蒼を映したかのようだった。
水を探しに行けと言われて、森に慣れたエルフが泉を探しに出かけた後を、ボロミアは志願してついていったのだ。
「エルフを代表して、この探索に赴いたんだ。もっとシャンとしてろよ」
「……ああ、」
ほんのわずかに口元をほころばせてレゴラスは首を振った。
「彼は、僕のことを身内と思っているから、つい何かを言いつけやすいんだろう。そう思えば腹も立たない」
「しかしだな、」
「それに、彼はきっと……」
レゴラスは不意に言葉を切り、音もなく立ち上がった。次の瞬間、弦音が鳴り、一匹の兎が木々の狭間に息絶えていた。
レゴラスはそれをしばらく見つめていたが、ぽつりと、「死んだ」とつぶやいた。
「……?」
言葉の続きを待っていたボロミアは、そのうつろなつぶやきに危険なものを感じて思わず、彼に手を伸ばした。
瞬間、
「レゴラス!」
冷酷な暴君の声が飛んだ。
びく、と肩を震わせてレゴラスが振り返る。彼らが進んできた方角の茂みの中から、アラゴルンが姿を現した。
「遊んでいないで早く戻れ、見回りの番だろう!」
反射的に駆け出したレゴラスをボロミアは見送る。そして、アラゴルンを見た。
アラゴルンと同じ色をしたその瞳に、理解がゆっくりとにじむ。
それを知らぬげに、アラゴルンは黙然と、レゴラスの射た兎の耳を掴んで持ち上げた。矢を引き抜き、血を適当に泉の水で洗うと、己の矢筒にカラン、と放り込む。
「……仕事をしていれば、余計なことは考えない」
ボロミアはアラゴルンを見据えて言った。
「そう思って、あんな手荒な扱いをしているんだな?」
アラゴルンは背を向けかけて肩越しに、ボロミアを斜めに眺める。
「ロスロリアンに辿り着けば、慰めの言葉を知っているエルフたちがごまんといる。その時になってゆっくり実感して悲しめばいい。そうだな?」
詰問するボロミアにアラゴルンは苦く笑う。
「買いかぶりすぎだ。私は腹を立てているにすぎんよ」
「腹を?」
「あの間抜けなエルフが、私が死んだ時もあんな顔をするのかと思ったら、無性に腹が立ってね。考えてもみるがいい。あんたが死ぬ瞬間、あのエルフがああやって、ろくに悲しみもせずにポカンとあんたを見つめていると思ったら」
ボロミアはしばらくアラゴルンを見つめたのち、少し視線を伏せ、黙って首を横に振った。
「腹は立たないと?」
「立たないな」
「ふぅん?」
「むしろ、」
兎に視線をやり、瞳を閉じる。


「あのエルフが、俺にはひどく哀れに思えたよ」


アラゴルンは小さく笑って背を向ける。
「優しすぎるぞ、ボロミア。その優しさに身を滅ぼされんようにしろよ」
「肝に命じるさ。つむじ曲がりのさすらい人」
「何?」
思わずといった様子で振り返るアラゴルンに、咽喉の奥で笑って「行け」と手を振る。
「行け、とっとと行け、韋駄天の名のままにな。兎のシチューを期待しているぜ」
「馬鹿を言うな。これはホビット用だ。あんたは自分で獲って来い」
アラゴルンはエルフの如く、音もなく立ち去る。
静寂を取り戻した泉を見つめ、ボロミアはやりきれぬといった様子で首を振った。
「俺が死んだ時、か……」
ベッドの上の大往生か、矢ぶすまになった戦場の死か。
どちらにせよ、あの緑葉の瞳には見せたくない光景だと、ボロミアは思ってからそんな己の弱さに苦笑した。


意識が闇に呑まれる寸前、エルフの足音を聞いた様な気がした。
幻聴に決まっている。あのエルフは草原を走ったとて足音などは立てない。
抱き支えてくれているアラゴルンの腕のぬくもりが、なくなっていく。
――我が君よ、
つぶやいたが声にはならなかった。
――俺にはもう見えねえが、……やっぱり、ポカンとしてやがるかね、あのエルフは?


見苦しいもの見せて、悪いな。
そう胸中につぶやいたことを自覚する前に、ボロミアの意識は闇に落ち、身を離れてこの世ならざる地へと向かった。