エルフの抱いた恐怖




3019年の夏至の夜、ミナス・ティリスは、かつて数千年に渡って途絶えていた美をそこに見出した。
民は驚嘆にただ目を見張り、しずしずと馬を進めて入城する美しい民を、言葉を忘れて見つめていた。
それまで、ミナス・ティリスにとどまっているエルフは、闇の森の若葉レゴラスただひとりであった。荒廃した街路を、やさしく歌い歩く風変わりな森の民の姿は、人間にとっては憩いとも言うべき美であった。
だが今、民は知ったのだ。そのはれやかな瞳と、明るく輝く声、人の域を超えた美は決して、レゴラスひとりの特徴ではなく、また、レゴラスの上にある幾多の魅力は、エルフすべての持つ魅力ではないということを。
たとえば、ほっそりと伸びた若木のような、常磐緑のはれやかさを持つレゴラスを、名の通りみどりなる若葉にたとえるなら、
「あなたは黄金の宝剣だそうですよ、グロールフィンデル卿」
はずむようにかろやかな足取りで、そう報告する傍らの青年を、グロールフィンデルは足を止めぬまま、横目で眺めて片眉を上げた。
その視線に気づいてレゴラスが、こちらもやはり歩調はそのままに、笑いを含んだ上目遣いになる。
「私は森住まいのシンダールで、あなたはノルドールの戦士だから、はかない人の子も見るべきところはきちんと見ている、ということですね」
「まぁ、私としても、森を跳ね回る仔鹿くんと同列に扱われるのは心外だしね」
「その仔鹿くんとは私のことですか?」
心外げに、常磐緑の瞳が見開かれる。グロールフィンデルは咽喉の奥で笑うと、くすぐるように、傍らの白金の髪を首筋からかきあげた。
エルフの美は悲しみと知恵を重ねて磨かれ、光を増すと言われているが、グロールフィンデルは、死という名の深き苦痛と悲歎を味わうと同時に、黄泉がえりによる堂々たる若さを、決して喪ってはいなかった。彼は気高く優雅で獰猛な、憤怒さえ輝かしい黄金のノルドなのだった。
そんなグロールフィンデルに対してレゴラスは、彼らしい闊達さと自由さをもって、その武勇に憧れ、慕い、だが、繊細なるシンダールたる己に劣等感を抱くでもなく、すこやかに彼になついていた。ともすれば己の赫々たる光輝に倦むグロールフィンデルにとって、若葉のように他愛ない、彼にとっては子供のようなシンダールが、のどやかに彼を慕う様は、ひどく小気味よくまた、心地よいものなのであった。
泉のような澄んだ声音で笑う、やや小柄な緑葉の笑顔に、なるほどシンダールは他愛なくも愛らしくさえずる種族よ、と、驕慢もなお魅力の一部とする黄金の大輪は笑い返す。
「あなたはいつまでも、私を100かそこらの子供だと思っている!」
笑いの中にからかいが混じってしまったものか。グロールフィンデルの瞳の中を覗き込んだレゴラスは、そう大仰に嘆いてひょい、と彼の手から逃れると、羽根のような軽さで廊下を走り出した。
「こら、待ちなさい、坊や」
行き交う女官や騎士たちが驚いて飛びのく中、軽々とそれをすり抜け、ふたりのエルフは走りゆく。
本気で走り去るつもりはなかったのだろう。グロールフィンデルはやすやすとレゴラスに追いつき、彼を捕まえようと手を伸ばした。
その瞬間、不意にレゴラスが急停止する。
背中に突き当たりかけて、グロールフィンデルもまたたたらを踏むと、両手で目の前の肩を掴んで動きを止めた。
「危ないよ、緑葉くん。いったい何が――」
言いかけてグロールフィンデルは黙り込む。
エルフの鋭い聴覚に、笑いさざめくホビットたちの声が聞こえてきたのだ。
「ほんとに、サムのとっつぁんが聞いたらなんて言うだろうねぇ!」
「ぼくはもう、一生分の怖い思いをしつくしたような気がするよ。これで死者の道を通っていたら、シャイア中の怖い思いを、みんな引き受けたぐらいの思いになっていただろうね」
どうやら小さい人たちは、エルフふたりのたたずむ廊下の、すぐ傍らの扉の向こう――一室に集まって、旅の思い出話を咲かせているらしい。
気が沈みがちなフロドを気遣ってのことだろう。彼ら特有の、照れ屋な優しさがほほえましいのか、レゴラスがにっこりと笑う。
そしてレゴラスは、グロールフィンデルの手を引いて、その扉へと歩み寄った。
ノックをしようと手を挙げた時に、フロドのやわらかな声が、本人は知らぬままに、レゴラスの手を止めさせた。
「それにしても、エルフの魂には恐れというものがないのだろうか。彼だけは――レゴラスだけは、その死者の道すらまったく恐れなかったそうじゃないか」
「へぇ」
そう感嘆の声を漏らしたのは、ホビットたちではなく、レゴラスの背後のグロールフィンデルだった。
思わず振り返ってレゴラスは、「静かに」とグロールフィンデルの唇に、自分の人差し指を当てる。
扉の向こうでホビットたちが気づく様子はない。
「勇敢だったんだねぇ、緑葉くん」
レゴラスの手を、己が手で掴んで捕らえたまま、口の動きだけでそう褒めると、なぜか、レゴラスは表情を曇らせた。
どうしたの、と聞く前に、ほがらかなメリーの声がフロドの言葉に反論する。
「そんなことはないですよ。モリアでのことを覚えていますか? あのおそろしい……バルログを見た時の、彼の姿。あんな恐怖の姿は見たことがなかった! あの姿を見た瞬間、ぼくも悟ったんです。
 ああ、この化物にはだれも、ドワーフもエルフも勝てないんだって。ガンダルフが勝ちをおさめたっていうのは、嬉しい誤算だったんですけどね!」


グロールフィンデルの視線の下――彼はレゴラスより随分と背が高かった――、常盤緑の若葉は凍風に打たれたように顔を伏せ、しおれた。
その姿を見守るグロールフィンデルの目元に、やんわりと笑みが浮かんだことにも、彼は気づかない。
「おいで坊や」
小さく囁きかけて、グロールフィンデルは扉の前からレゴラスを引き剥がす。
そして、エルフらしく優雅な、音もたてぬ足取りでその場を離れると、レゴラスの手を引いたまま、己にあてがわれた部屋へ向かって歩き出した。
だが不意に、レゴラスの歩みが止まり、廊下の半ばで、根が生えたように立ち尽くしてしまう。
自然、手を取るグロールフィンデルもその場に立ち止まり、そして、彼は手を掴んだままレゴラスの方に向き直った。
「……どうしてそんなに羞じるのかな?」
子供に話しかけるように、グロールフィンデルは人目もはばからず、その場に跪いて彼を見上げてやる。
「だって……」
途方に暮れたように眉を寄せて、レゴラスはグロールフィンデルから視線をそらせた。
「わたしが倒したバルログを、君が恐れて逃げ出したというのは、そんなに羞じるべきことなのかい?」
「……卿のようないさおしを打ち立てることができるなんて、思ってはいません」
「そうさ、わたしは誇り高きノルドールだが、君はたおやかなシンダールなのだからね」
冗談にまぎらわせ、相手がまた腹を立てて駆け出すかと待ってみるが、しおれた緑葉の意気が上がる様子はない。
これは重症だ、と黄金の大輪の口元に、苦笑が浮かぶ。
「……君がまだ本当に若い頃」
グロールフィンデルは立ち上がりながら、レゴラスの両手をとった。
「わたしは君に、何度も、わたしが死の深淵へと陥った時のことを話して聞かせたね」
「卿、」
おそるおそる顔を上げたレゴラスの瞳に、まだ、拭い去ることのできない恐怖がある。
「若い君にとって、わたしの味わった死の苦痛と悲歎はとても、怖いものだったのだろう」
グロールフィンデルの手の中の、強弓引くはずの弓士の手は小刻みに震えた。
「君の眼から見たバルログが、どれほど怖ろしく、残忍な姿をしていたかわたしにはわかる。それはわたしが君に、バルログの怖ろしさを教えたからだ。生き物は皆、『知る』ことによって恐怖を覚えるのだから」
グロールフィンデルは、レゴラスの両手をそっと離した。
同時に手を伸ばし、若き牡鹿のようにしなやかな、目の前の身体を抱きしめる。
「君が恐れることなく、あのバルログに立ち向かって誰が喜んだだろう?
 その腕がいかにたくましく、強弓を引くことができたといって、君の手の中にあったのは、闇の森の小さな弓でしかなかったのだ。
 君が恐怖に負けて、バルログから逃げ出したというなら、わたしはその恐怖を嬉しく思うのだよ」


「……でも、」
小さな声で、だがはっきりと、レゴラスは答えた。
「わたしは逃げ出してはいけなかった。
 あの時踏みとどまっていたら、きっと、あなたの悪夢に、『大丈夫だよ』と言ってあげられるわたしになっていただろうに」


グロールフィンデルは、わずかに息を呑んで言葉を失った。
たしかに彼は、癒されたとはいえ、死の瞬間の苦痛のことをいまだにしっかりと覚えていた。中つ国に再び肉体を得たとはいえ、バルログが彼に与えた悪夢は、全身を灼かれて奈落へ落ちる恐怖は、そう簡単に、過去のことにし得るものではなかった。
――このこせがれは。
末つ世の、小さなひとりのシンダールのくせに、そんな大それたことを考えていたのか。
そう思いながらも、それは不快感にはつながらなかった。グロールフィンデルは黙って、ほっそりとしたその身体を抱きしめる腕に、力を込めた。クウェンディと呼ばれるエルフにも、言葉を必要とせぬ時はあるのだった。


部屋のひとつから扉を開けて、人が出てくるまで、グロールフィンデルはそうして、レゴラスをただ抱きしめていた。そのおおらかな、のびやかに彼を慕う若葉が、エルフの石に等しく緑の光と風を放ち、彼の、一度は燃え尽きた魂を癒す、その様をじっと、感じながら。